ししゃも白昼夢(2)
翌日の日曜日、私は暇つぶしに旧町散策してみることにした。
暇つぶしといってもその前に母といろいろもめた。
私の家には私の部屋があるのだが、私が京で一人暮らしを始めてからはだんだん母の色に染まっていった。
なんといっても母は無類の映画スター好きで、月刊の映画雑誌を欠かさずに買い、話題の映画は見逃さずそれを逐一私に報告し、ネタをばらしてくるというちょっとばかりいきすぎた面もあるが、それも趣味なんやろう…と私は冷めた目で見守っていた。
それらの雑誌の付録や映画館で買うグッズが、なぜか私の部屋に飾られ、一年の夏に帰省した時は新しい壁紙ができているのかと見まがうくらい汚染されていた。いや、支配だ。
行き場のないポスターやカレンダーを張るのはご自由に好きなようにしてくれて一向に構わないのだが、それを母は今日、「きれいに見えるよう改造してよ」という至極無理難題を私に押し付けようとしたのである。
「そんな、うちコーディネイターじゃあるまいし自分でやりなよ」と言うと、「だって私がやるとぐちゃぐちゃになるんやもん。」と、なら貼るなよと非常に矛盾しているが、彼女はスターを貼りたいのだろう、その輝かしい姿を本棚のファイルに閉じ込めてはいられない衝動に駆り立てられるのだろうと仕方なく、きれいに見えるように貼りなおした。
しかし、改造は無理だったので母に「これでいい?」と聞いたところ、「うんうん、ハピくん真ん中に来てていいわ。ありがとう。」とそんなにややこしい作業はいらなかったようである。
ちなみにハピくんとは母の一番ファンの外国人俳優(スター)の名前である。ハピくんを見事に貼り終えた私はやっと自由時間ができて、町の散策に出かけたのだった。

来週の下見もかねて朝一の開かれる神社付近まで行こうと足を進めていた。
茲賀津唯一の神社であるしその葉神社は旧町の迷路の中にある。
迷路といっても垣根に囲まれたものではない。旧町自体が迷路なのである。私たちのような新町に住む人々にとって旧町は未知だらけだった。
民家が密集して似たような道が多いからどこを歩いているのかわからなくなる。
目印になる神社の場所も定かではないから余計に迷ってしまい、去年の正月にお参りに来た時には二十分でいけるところを倍の四十分もかけてしまった。 郵便屋さんはよく迷わずにバイクとばせるよなあとつくづく感心してしまう。
特に日が落ちてからになったら暗くてますますわからない。旧町にはお年寄りが多いので夜はしんと静まり返っていて、変質者だって怖がるんじゃないかってくらい恐ろしい。
夜の墓場を恐れる人もいるが、私にとっては墓場よりも旧町の夜道のが怖い。だって、出口さえわからないときもあるんだもの。 今日はそれを心配する必要はなかった。まだ昼間だったし、あの時迷ったおかげでだいたいの場所はつかめるようになったからである。
私は鼻歌歌う気分で車通りの少ないわりに道幅の広い道のど真ん中を歩いていた。
横断歩道を渡りいよいよ旧町に入ると途端に道が狭くなる。車二台がぎりぎり通れるほどの幅だ。左手には田んぼが広がっていた。
青々とした稲はそよ風に吹かれて全体が波のようにうねっていた。
ずっと真っ直ぐに歩いてゆくと途中で二つの道に分かれた。私は迷わず左の道を選び奥へ奥へと進んで行った。次第に潮の香が強くなる。
海に近づいている証拠だ。その後も曲がり道にまどわされずに歩いてゆくと神社の鳥居が見えてきた。
(あった!)
私は心の中でガッツポーズを決めた。

珍しく参拝客が三人もいた。超開放的な神社はこじんまりとした本殿を中心に、西側にある秋冬殿、東側の春夏殿から成り立っていた。
鎮守の森が神社にはあるようだが、ここは神社全体が名称不明、樹齢不明の木々で覆われており、鳥居がなければ神社と認識できないほどに存在感がない、いやナチュラル、自然体、ありのままなのである。ありのまますぎて雑草もありのままに伸びて繁殖して参道にまで侵出してきている。
ここまでいうと荒れた無人神社のように思えるかもしれないが、決して手の抜かれた神社ではない。本殿の隣に立っている御神木の杉だって立派である。裏参道から見渡せる青田の景色なんてこの季節は最高である。おまけに面倒な階段もない。賽銭箱もない…ないことはない。使えないのである。
今、一人のおばあさんが賽銭箱を通り越して、本殿中に硬貨を放り投げた。そして鐘の綱を両手で引っ張った。
がらんがらん
非常に響きの悪い音だった。不快音。
おばあさんはそれでもむやみやたらに綱を激しく振っていた。おばあさんは参拝し終えるとゆっくりと鳥居を出て行った。
このようにして、賽銭は賽銭箱ではなく直接本殿に投げ入れる方式になっている。
数年前に賽銭泥棒が出没して以来、賽銭箱に金を入れるのは危険ということで本殿の中に向かって投げることになったのだが、これがまたテクニックを要するのだ。
私も気晴らしにポケットから財布を取り出して五円玉を摘むと、本殿の格子戸に向かって投げつけた。賽銭落下予想範囲の白い布を越えて奥の畳のヘリの上で止まった。
(あ…まあいっか)
私は誰も見ていないことを知ると、何事もなかったかのようにクルリと百八十度回転した。
鳥居の狛犬付近に親子が二人しゃがんでいた。小学校低学年の男の子は、風化して動物かも見分けのつかない狛犬についているコケを真剣にノートに書き写していた。
母親はそれを見守っていたのかと思ったら逆で、「ここはこうでしょ。」「そこは緑じゃない。」と口出ししまくって、時折子供から鉛筆を分捕って描き直そうとしていた。子供は親をうるさいなあという迷惑そうな目つきで見上げたが、母親が注文をやめることはなかった。
(かわいそうに…あ、拝むの忘れたやん)
男の子に同情している間に、その前に重大なことに気付いたが、後に引き返しにくかったので諦めた。
(まあ、願っても結局は自分の力やしな。)
神にすがろうなんてさらさらなかったため、後ろめたくもなかった。

 リン
ふと鈴の音が聞こえた。
(うん?)
私はそれが本殿から鳴っていると思い、視線をずらしたがそこには誰もいない。
あの不快音を奏でる鈴が参拝客を騙すためにチョークでも食ったのか。まさか、童話じゃあるまいし。
(空耳か)
私は気にせずに鳥居を出ようとした時足を止めた。
 リンリン〜
「今度は二回」
思わず口に出したため近くにいた親子が反応した。
「今鈴の音しませんでしたか?」
「いえ、なにも」
母親は頭のイカレた人にでも遭遇したような嫌な顔をしていた。
「…どうもすみません。」
私は丁寧に謝っておいた。内心はムカっときていた。
しかし、母親の態度よりも私は謎の鈴の音のが気になって仕方なかった。
(やっぱ幻聴なんかな)
私は鳥居を出て頭をさすった。どこも腫れてはいなかった。
(まあいいや、帰ろう)
結局、朝市広場まで行くのはやめて私は神社から家に引き返すことにした。


紫音が移動扉を常備してくれたおかげで、私は故郷と京都とを楽に行き来できた。
往復で七千円近く掛かる交通費が浮くことを思うと、空間移動とは素晴らしいものである。
やっかいな越己者たちも彼女のようにどんどん空間扉を作り、世のために働きたまえ…そこで交通費と偽り膨大な金を騙し取るおそれもある。
いや、そんなことをすれば鉄道会社その他公共交通機関が一切振るわなくなり社会的問題に達すると思われるので、やはり内密にこっそり抜き足差し足忍び足で空間移動したほうがよいと今思い直した。 プチトマト未成熟のために、一週間後の日曜日私は再び茲賀津にやってきた。
潮の香が漂う海岸沿いで売られる野菜はとれたてで綺麗なものばかり。
いまや大型スーパーができてわざわざ買いに行くこともないが、旧町の人々は地元の新鮮な野菜を求めてやってくるので、海岸界隈はそこそこ賑やかになる。
母の情報を頼りに私はプチトマトを求めてやってきた。他の野菜果物には目もくれずに愛する恋人を探すようにひたすらプチトマトを探した。
ところが、普通のトマトはあるのだが肝心のプチトマトは見あたらなかった。私は一番近いお店のおばさんに声をかけようと近寄った。
ヒュッ
(えええ?)
確かに白いものが目の前を横切った。
私はぱっと顔を上げるとお店のおばさんとバッチリ目が合った。その背後で、
「蝙蝠か?」
「飛魚か?」
「ハエか?」
と口々に言うのが聞こえた。
しかし、何でまた退化していっているのだろう。
それはさておき、なぞの物体は複数の人々が目にしたようで皆首を傾げていたが、すぐに市に戻った。
私も改めておばさんに聞こうとした時だった。
「ないっ!キュウリがないっ!さっきの泥棒や!!」
おばさんはいきなりわめいた。私はしょぼい幽霊を目撃したよりも仰天した。
ところが、おばさんはふうと息をつくと
「ま、一本くらいええけど」
とわずか五秒で落ち着きを取り戻してしまった。
(ええんかよ)
私は転げ返りそうになった。
全くこの町の人々は呑気である。
盗られたのがウン億円する宝石なら警察沙汰だが、一本二十円のキュウリ一本なら運が悪かったのね、とでもすませてしまうものらしかった。
それにしても、さっきのキュウリ泥棒は一体何者でどこに行ってしまったのか、私は妙に気になった。
昔から古い町には妖怪が住み着いていて、ふとした瞬間に姿を現すとかいう話を聞いたことがあるが、もしかしたらキュウリ好きの何かがキュウリに見せられてついつい盗んでしまったのかもしれないと想像を膨らませるほど私はじれったくなってきた。
(さっさとプチトマトを片付けよう)
「すみません、プチトマトってありますか?」
「今日は青物市やからトマトはないねえ」
「はあそうなんですか…ありがとうございます」
私は軽く会釈して場を離れた。
なんてこった。青物市なんて。こうなったら家庭菜園の不気味なプチトマトを持っていくしかないのか。
まあ、見た目はグロテスクだが味に支障はないはずなので、プチトマトは家のにしよう。
私は先週に加えてここまで来たのを無駄無駄足に思いながらも、せっかくなので周辺を散歩してみることにした。
うまい具合に気になる事柄もあり、それゆえにどこに向かうべきか見当もつかなかったが妖怪の身になって考えてみた。
(神社かな)
適当に場所を確定した私はしその葉神社に向かって歩き出した。
この町で最も怪奇現象の源となりそうなのがこの神社だったからである。

迷わずに鳥居の前まで着くと、社務所の窓が閉められて白いカーテンが引いてあるのが見えた。
(神主さんおらんのか)
本殿まで行くと扉は閉められており、役を担わない賽銭箱だけが自由に触れることが出来た。
(なんか、ますます寂れた感じが…)
このひっそり閑とした空気がいつもに増して暗かった。こう佇んで眺めていると明鏡止水の境地に立った感覚を覚えないこともなかった。
大人しく帰ろうと踵を返すと、奥の方からパリ、パリと歯切れのよい音が聞こえてきた。
私はハッと振り返った。何も動くものは見当たらない。
パリ、パリ
音だけがはっきりと響いている。
(えええ?本当に妖怪?)
私は急に心臓の鼓動が早くなるのを必死に押さえて、音のする方へと行ってみた。
どうやら音は本殿右隣の春夏殿あたりからしているようだった。私は春夏殿の裏に周ろうとした。
春夏殿横には一本のしだれ柳が枝を地面の土にこすれるほどしなっていた。
木々の間から顔を出すと正面に人の後ろ姿が見えた。黒い長い髪を裾あたりで緩く一つに束ねて胡坐をかいていた。
パリパリ
音源はあの人から発せられているようだった。
私は唾を飲み込んでから、そのへんに転がっている石ころに蹴躓かないようにそっと背後から近寄った。
右足左足を交互に出しながら近づいていたが、誤って石ころを蹴飛ばしてしまった。コロコロと小石は人の足元で止まった。
(あ…)
その途端、音がやんだ。人物は小石に視線をやるとゆっくり後ろに振り返った。
パッと目が覚めたかのようだった。ところが、ポカンと開いた口が徐々にイの音に引きつっていった。
「キュウリ…」
私は思わず指を差してしまった。その人物が手にしていたのは紛れもなく一本のキュウリだった。
彼は口の中に入っていたキュウリをパリパリと噛みはじめた。
(え、この人何?)
私は思考回路が狂いかけだった。彼がキュウリ泥棒には間違いないが、でもなぜこんな美形がキュウリを丸かじりしているのか、ギャップがありすぎて出てくる言葉がなかった。
それに対して相手は全く動じることもなくまた静かにキュウリを食べ始めた。
(どどうしよう…)
私は非常に焦った。このまま立ち去ってもよさそうなものだが、なぜかそうしてはいけないような気がした。
だからって、彼にどう話しかけるべきか迷った。反応からして、あの人はこういう状況になれているか気にならない性格なんかどっちかはともかく、ランチタイムを邪魔されたくないようなオーラを出してないこともない。
不用意に話しかけると怒ってくるかもしれないと、私はその場で手を変な方向に回したり振ったりして考えていた。
リン
「鈴?」
呟いた途端、彼の手がぴたりと止んだ。
(む?)
私は彼が次にとる行動をハラハラしながら眺めていた。
「聞こえたのか?」
「…鈴の音ですか?」
相手に問いかけられて私は問い返す。すると彼は立ち上がった。
フワリと着物の袖を翻して私の方に向き直った。
(わあ…)
私は思わず見惚れてしまった。その佇まいはこの世のものとは思えない気品と風格に満ちていた。
端正な顔立ちに碧色の瞳。流れるような黒い髪。着ているものは、紺色の袴に白の着物、右肩には羽衣のような金に縁取られた刺繍の入った薄い布というシンプルにも関わらず、相手からは威厳と存在感が一体となっていた。
つやのある黒髪からチラリと覗く左耳の耳飾りが碧色に輝いていた。
相手はゆっくりと私に歩み寄った、食べかけのキュウリを持ったまま。
私は緊張した面持ちで彼の足が止まると尋ねた。
「あなたは誰ですか?」
彼は表情を変えずに答えた。
「ここの神をつとめる者。名は春恋空助」
「はるこいそらすけさん…」
私は復唱した。予測通り“この世のもの”ではなかった。それにしてもヘンテコな名前である。
私の心内を察したのか彼は付け加えた。
「はるのこい、春恋は成人名。空助は幼名」
「はあ」
余計わからなくなった。どっちか一つにしろよと言いたかったが、今は名前を問題にしている場合ではなかった。私は彼の手にしているキュウリを人差し指で指した。
「どうして、キュウリを食べてたんですか?」
「食べてみたくなったからだ」
彼は即答した。そして、またパリッと一口。
私は彼がキュウリをほおばる姿を不思議な面持ちで見つめた。彼が神であるか否かは別として、こんなに淡々としていられるのが信じられなかった。
どこか、世を捨てたような気だるさを感じる人物…人じゃないのか、神だった。
「で、どうしてあなたは鈴の音が聞こえた?」
急に春恋空助…長いので神様と呼ぶことにする。神様は私にぶっきらぼうに問うた。
「え、うちもなんでかは分かりません。この前ここに来た時聞こえたのが初めてで」
「ふ〜ん」
神様は疑いのまなざしを向けた。
「聞こえやん人もおるんですか?」
私はますます気になってきた。
「っていうか、聞こえるのって神々だけなんだが」
「え…」
何?神様が“っていうか”なんて俗語めいた口調でしゃべるんかいな…違う違う、神々しか聞こえないとは一体、私の耳は。
内容が飲み込めない私に神様は一呼吸置いてから言った。
「違うと思うが、越己者ではないよな?」
「はい、越己なんて全然…」
と首を横に振ると神様はゆっくりと息を吐いた。安心したらしかった。
「たまたま、聞こえるように生まれてきたのだろう。気にすることはない」
「そんなに気にしてもなかったんですけど…」
私は苦笑いした。
「でも、この鈴の音はどこから?」
私が謎に迫ろうと積極的質問を試みた。神様はすっと右手を差し出した。
手の甲には青紫色の変な文字のような模様が入っていた。腕は袖に隠れて見えないが、ずっと続いていることが推測できた。
「小指に鈴骨がある」
神様が右手の小指を曲げるとリン、と鈴の音がした。
(ほんと…)
その白くて細い指は他の指たちとなんらかわりはなかったが、小指だけは確かに鈴の音が響いていた。
「これは危機を知らせるしるし。親族のうち私だけに与えられたもの」
「特別なものなんですか?」
「そうだな、私がここにいるのも特別かもしれないな」
「?」
私が首を傾げると神様はかすかに微笑んだ。初めて感情が表に出たようだった。
「あなた名前は?」
「野木こなきです」
「ということは新町の生まれ」
私は頷く。突然話題が自分にふられて私は戸惑った。
「ここは本当に平和だ。本当に」
「そうですね…」
私は頷いた。神様は言葉一つ一つをかみ締めるように呟いた。
それはまるで遠い誰かに思いをはせるかのように。
「ガンさんに聞けばいろいろ話してくれるだろう」
「ガンさん…」
「神社の主だ」
「ああ、神主さんか」
彼は最後のひとかけらを食べ終えると目をつぶった。
あ、行ってしまう。そう判断した私の口をついて出た言葉は
「また会えますか?」
だった。神様はおもむろにまぶたを開けた。
「そこにキュウリがあれば」
そうして羽衣を纏うとすっと消えてしまった。神様の立っていた場所にはキュウリのヘタだけが残されていた。


「神様に会った?」
紫音は素っ頓狂な声を上げた。
「声大きいって」
「ああ、ごめんごめん」
彼女は隣に座っていた人に気を配りトーンを落とした。
「神様なんか本当にいたんだ。見えるもんなんだね」
「うん、まあ。昨日初めて会ったんやけどさ、盗んだキュウリ食ってた」
私は紛れもない事実を告げた。紫音はテーブルについていた肘を滑らせた。
「キュウリ?しかも神様が泥棒って…一体どんだけ腹すかせたじじいだったんだよ」
「いや、じじいじゃなかったよ。見た目は」
冷やし中華のレモンをかけそびれて皿の外に汁が飛び出した。
「ふう〜ん。どんな姿してたの?」
紫音は神様に興味を持ったらしい。私は搾ったレモンを皿の端に置いた。
「うんと、めっちゃキレイな人やったなあ。厳かな雰囲気に包まれてて、いると周りが静止してるようなオーラというか、とにかくそこらのうちらみたいな下々の者とは全然違う神秘的な感じやったなあ…って何さ?笑って」
私がせっかく記憶をさかのぼり一生懸命説明しているというのに、紫音は忍び笑いをやめなかった。
「あはは、だって、こなきのそれって初めのキレイ以外は全部感じのことじゃん。普通なら目は何色でどんな容貌だったかってなるのにさ」
「ああ、うっかり。ゴメン」
「いやいや、見目形に関わらず偉大な人っぽいってのがよくわかったよ」
“っぽい“とつけたのはキュウリが影響しているのだろう。紫音は笑いがおさまるとやっと箸を持った。
彼女は普段はものすごく現実的でクールなくせに、二人で会話すると笑い上戸になって話がなかなか進まないということが多々ある。
「で、お告げとか言われたわけ?」
紫音はごはんを一口入れてから私に尋ねた。
「ううん、たいしてあんまり話さんだ気がする。春恋空助かな。一番印象にあるの」
「何それ?」
「神様の名前やってさ。春恋は成人名、空助は幼名らしい。呼びようがないから神様ってそのまんま呼んでるけど」
「ふうん。私も神様見たいわ」
私は小さく「えっ」と声を上げた。その反応に不服だったのか彼女は怪訝な顔をした。
「何よ?」
「だって、うちの今の説明だけでよう本物の神様って信じたなあって」
「こなきを疑ってもしょうがないじゃん。それに、神様っていっても日本にはいっぱいいるでしょ。八百万の神だっけ」
「ああ、便所の神もな」
言った後紫音にちょっと睨まれた。すまん、今は食事中だったのだな。
でも、便所や風呂や台所などありとあらゆるところに神様は存在するという古来からの信仰に基づけば、何も神様が一柱じゃないとダメという決まりはないのだ。紫音はそれを知って、しその葉神社の神の存在を信じたのだろう。
「今度、私もくぐってみようっと」
紫音は弾んだ調子だった。
ちなみに“くぐる”とは専門用語で空間移動する扉を通ることをいう。
(何っかヘンやなあ…)
私は合点が行かなかった。彼女が感情の赴くまま行動するなんて今までの中で見たこともない。もしや、別の目的が。
「もしかして、神様に会ってその容貌をチェックしたいんじゃないの?」
「まあね」
彼女は隠さずに正直に答えた。
「え〜、瀬次君泣くよ」
「あいつはそこまで貧弱じゃない」
紫音は冷めた目つきで言う。
瀬次君は紫音の彼氏である。体育学部の同級生で構内でたまに彼女と一緒にいるのを見かける。
紫音は口癖のように「あいつは頼りにならない」を連呼しているが、じゃあなんで付き合ってるんや?とあえて聞き返さないのは、紫音が本気でそう言っているわけではないと、そう、愛情の裏返しだろうと私は踏んでいるのである。
でもときどきたまに本気でマジで紫音がキレている時は破滅寸前もありうる。
「って、別に瀬次がいても神様の姿を拝みに行ってもいいじゃん。減るもんじゃないんだし。神様のが遥かに格好よさそうだし」
ついに彼女は本音を吐露した。
「ははは…まあ、ときめきは必要やな」
私は笑うと今度は彼女がニヤリと笑んだ。
「こなきも彼とはどうなのよ?」
「どうって何もあらへんよ」
「本当に?告白されなかったの?」
「うん。されても頷かんと思うし」
「うっわ〜可哀想」
というわりにちっとも可哀想な眼差しではなかった。むしろ楽しんでいた。
「時々遊びに行ったりするんでしょ?嫌なら行かないじゃん」
「遊びに行くっていうか、食事しに行くくらいかな。ありがたいことに毎回奢ってくれるんよね。ああ、もちろん一応は払う素振りは見せるけど」
私は誤解されないように慌てて付け加えた。紫音は呆れた顔で見つめていた。
「何かとまあ気遣ってくれるみたいで。多分彼はコンパとか初めてやったからよくわからんみたい…って本人も困ってる様子やったけど、会話とかメールしてて、これは明らかに好かれているなあってことがわかった」
「よく自分のことを第三者的に冷静に述べられるもんねえ」
紫音はハハハと笑った。
「んじゃあ、こなきから好きって言うことはないのね今のところ」
「今のところ」
「ま、友達として付き合ってけばいいじゃん。で、くぐるのいつにする?」
「え、早いなあ…」
「善は急げって言うじゃん」
「これ善?」
手帳をカバンから取り出した紫音を見て、私は一人頭をぶるぶると振った。
「明後日の夜空いてる?」
「うん、七時からなら」
「じゃ、七時に正門に〜」
「は〜い、上手いこと会えるように念じとくようにな」
私は冗談めかしてみた。紫音は軽く笑った。


空間扉をくぐり終えた私と紫音は早速しその葉神社に向かっていた。
外灯があるとはいえ、夜道なので今にも何か出てもおかしくはなかった。鳥居の影が見えてくると私は指差した。
「あそこ!」
神社はとりわけ他の場所よりも外灯が多かった。
太陽電池式の外灯が鳥居の両端に一つずつ参道の回りに左右二つずつ、御神木の前に大きな外灯、それらが視界に入る明かり全てだった。
「こんなトコに一人で来るのはちょっと物騒よね」
「前はまだ昼間やったし、人も何人かいたから。うちも暗い時間にこんなとこくるなんて何年ぶりかも」
私は道をたどりながら明かりの届かない本殿へと進んだ。
「本当にいるのかな」
「振り返ったらそこに!とか」
「それお化けかっつーの」
まさか〜と紫音が笑うと木々がそよそよと揺れた。その奥に人影が現れた。
「ぎゃっ!」
「わっ!」
紫音の大仰な声に私が腰を抜かすところだった。
人影は間違いなく神様だった。私は近づいていこうとすると向こうからすっと出てきた。
「狩りに来たのか?」
「はっ?」
神様の表情は切迫していた。
「狩り?」
紫音が問うと神様は彼女をぴしっと指差した。その第一関節は震えていた。
「あなた、越己者だろう」
「ええ、そう言われれば」
紫音持ち前のあっけらかんとした答え方に更に彼は一歩引き下がった。
「やっぱり、二人でグルになって神狩りに来たんだな!」
「あの…勘違いしてませんか?それに神狩りって何ですか?」
「え、違うのか」
私が静に尋ねると意外にも神様はすぐに落ち着き指を下ろし、額に手をあてた。その間紫音が私の耳元で囁いた。
「この人が神様?」
「うん、今日は何やテンションおかしいけど」
私は躊躇する神様を見やった。
「へえ、なかなかイケメンじゃん」
「ああ、そう言われれば」
私はさっきの紫音の台詞をパクった。淡白な返事に紫音は不満そうだった。
私には美醜よりも気にかかることがあったのだ。
神様は一考えし終わると私達に向き直った。
「本当に狩りじゃないんだな?」
「ここまで来て嘘つくわけないし」
紫音が断言すると神様はふうと胸を撫で下ろした。
「すまなかった。この頃、越己者の神狩り行為が周辺神社で多発しているものだから。だからつい越己者を見ると反応してしまった」
「そんな罰当たりなこと誰が?」
私も同感だった。それに神様が実在すると知っている上での行為なのだから、それらの人物も神様との接触があるのだろうかと疑問に思った。
神様は困惑していた。
「聞いた話によると、京の腹ぽこ山周辺で頻発しているとか」
「私らその周辺の学校通ってるけど、そんなこと聞いたことないよねえ?」
「きゃも川…あの凶悪な越己者じゃ?」
「場所的に近いけど、神社を襲うってニュースはなかったと思うよ」
紫音は首を傾げた。
腹ぽこ山地区は四条に近いきゃも川付近一帯を指す。その辺りにはこまごまと寺社が立ち並んでいた。
んじゃあ、違うんか…私は何か引っ掛かりながらもそれが明確にならなかった。
「具体的にどうやって狩ってるの?」
紫音は神様と初対面にも関わらず為口だった。
外観年齢はさほど私達とは変わらないとはいえ、おそらく相手は何百年以上も生きており私達よりも歳を重ねていることは察しがつくのだが、紫音のしゃべり方は対等の相手と長く付き合ってなじんできたなという具合に堂々としていた。
聞かれた神様は渋い表情をした。
「参拝客に紛れて、本殿に向かって越己を使う。その力に惹かれて神をおびき寄せる。本来人間は神々に手を出すことは不可能。今こうして私とあなた方は目の前にいるが、実際はこの間には見えない隔てがある」
「神様と人との境?」
「そう、その境界を無にして神と接触する。越己者は神々に要求をする。その力を自らの者にするために。しかし、たとえ接触できようとも神々を制することはできない」
「なんで?」
と聞いた私のことばは愚問だったろうか。けれども神様は眉毛一つ動かさなかった。
「神々に越己は通用しないから。いや、越己を寄せ付けない場所にいるからだ」
「え、じゃあ神狩りしてる人達は越己が通用する下界に神様を引っ張りこんで力を盗ってるってわけ?」
「早い話」
「へえ…」
紫音は神様の返事を耳にするなり感心したように息を洩らした。
「なに?どういうこと?」
さっぱりわけのわからない私に紫音は丁寧に説明してくれた。
「今この場所からどこにいるとも知れない神様を越己で寄せ付けてくるんだよ。神を寄せ付けるほどの力が世の中に実在したなんて驚くべきこと。だって、その人がそうやって全部の神様の力とっちゃったら神様は神様でなくなるんだよ」
「ほう〜紫音えらい詳しいな」
「授業で越己の歴史習ったときにちょこっとね。神様の足見てみなよ。ほんのちょっと地面から浮いてるでしょ。あれが神様である証っていうか目印みたいなもんで、その力を失ったら地面にべったり…ってのはわたしの推測なんだけど」
紫音は神様に反応を窺う。神様は肯定するように目を伏せた。
「盗んだ力なんかあっても身滅ぼすだけだって先生は言ってたけど」
「そやろな。そこまで神に頼らんでもなあ。でも、なんでそんなセコいことしたがるんやろ。その盗った力で環境保全に努めるわけでもないのに」
私はついついぼやいてしまった。
「神々への復讐だ」
神様は端的に言い放った。その瞳はパッチリと見開かれていた。
「復讐?」
そのどろどろした内容を含む言葉に私は身震いした。
「古来から我々は人間に近く在った。各々に神が存在することで人間との距離も縮まっていった。しかし、いつしか人間は神を利用しようともくろむようになった。 己内では神々を引き寄せられないと考えた彼らは、越己を使い始めた。越己が台頭するのも時間の問題だった。強力な越己は自己を見失い破滅に導く。何十年かそのような状態が続いたが、所詮その場しのぎで身につけた越己で神にかなうはずがなかった。それから時をかけて神々と人間は再び信頼を取り戻しつつある」
「んじゃあハッピーエンディングに向かってるんじゃないの?あ、その腹ぽこ山が今問題になってるんか…」
私はぽんと手を叩く。
「性悪な越己者はすでに京にいる私の兄姉三人の動きを封じている」
「あんたもヤバイんじゃないの?」
とうとう神様を“あんた”呼ばわりした紫音は苛立っているようだった。
「その越己の人はどういう人か分からんの?」
「私は実際に姿を見たことがない。茲賀津から離れられないから」
神様はすっと右手を上げた。私はその小指に視線をやった。
(そういえば、鈴骨ってこの神様だけにあるって言ってたけど…)
「神様は守られてるの?その鈴鳴らすことで」
「守られているのかもしれない。私だけが」
神様はその長い睫で一回瞬きをした。
「それにしても、犯人が特定できればねえ、わかったら殴りに行くよ」
拳をぎゅっと握り締めた紫音の顔は笑ってはいたが、明らかに怒りに満ちていた。同じ越己者として許せないと感じたのだろう。
「非常に邪悪で執念深い気配を感じる。全体が黒い闇に閉ざされた…」
「蛇羅家さん?」
「蛇羅家素持がどうしたの?」
口をついて出た言葉に紫音も目を丸くしていたが私も同じだった。神様は興味深そうに見つめていた。
「食堂で初めて見たとき、なんかよくない雰囲気がした。
視界に入るとだんだん気分が暗くなるっていうか、息苦しくなってきて。狭いところに入りきらん力を無理やり押し込んでしまったような歯がゆさとか悔しさを一気にどっと浴びた感じ…全身が震えるくらいめっちゃ疲れるの」
私は話し終えて戸惑った。二人の視線が私に注がれている。それも真顔で。
(うち、またズレた説明したんかな…)
私は恐る恐る紫音に声をかけようとすると彼女から先に口を開いた。
「こなきすごいな」
「そうなん?」
私はびっくりした。
「だって、越己使わないのにその人の気配諸々読めるなんてさ。わたしがそういう環境に慣れてるからってのもあるけど」
紫音は私を褒めてくれていた。私は無意識のうちに自分の能力を発揮していることを感じた。続いて神様も言った。
「あなたが言った者がおそらく神狩り犯だろう。鈴が聞こえた理由がわかった」
「え、それは何でですか?」
「共通の印象を持っていたから。私が鳴らした時、あなたはその答えを知っていたから聞こえた」
「つまり電話みたいなもんでしょ。不特定多数への」
「ほ〜う」
紫音にも通訳してもらって私は理解できた。いや違う。理解が深まった。
「あなた達とは縁があったのかもしれないな」
神様はポツリと言った。私達は彼に振り向いた。
とても優しい瞳をしていた。それはじっくり見つめるほどに深緑を帯びていた。
「ねえ、こなき」
「なんたい?」
紫音が私の腕をつっついた。
「神様助けてあげない?」
「え?」
私は隣を振り返った。
「わたし、このままじゃ腹の虫がおさまらないんだよ」
「それ汚名返上したいだけじゃ…」
私は紫音の奥深くにある物が次第に暴力化してきそうな気もしたが、彼女の越己者としての誇りもかかっているのであろうことを思うと、決して放っておけない現状である。
「それはこの次。一番重要なのはわたしらが安心して暮らせるようにするってこと。こなきも言ってたじゃん?越己者だけじゃなくて、守るのは皆でって」
「ああ…」
私は懐かしい感覚に包まれた。
「そういやそうやった。」
京も茲賀津もこれ以上廃れさせないためにも…
私は彼女にニコリと微笑んだ。それを察知した紫音は神様を真っ直ぐ見据えた。
「というわけで、わたしらは蛇羅家素持を探ってみることにする」
「本当に?」
神様は動揺していた。
「向こうはわたしらのこと知らないわけだし、接触しやすいと思う。それにいい越己者もたくさんいるってことをわかってもらわないと」
紫音はいたずらっぽく笑んだ。神様は少し安心したのか緊張感が緩んだようだった。そして隣の私に視線を移した。
「あなたは?」
「あ、えっと…」
私はしどろもどろした。いざというとまとまった言葉が出てこなかった。
「うちは…こんな故郷でもなくしたくないから…やってみるだけやってみます」
いいのか、こんな中途半端で?私は自問自答したが、神様はさほど気にしていないようだった。
「すまない」
「いえいえ」
紫音は笑顔で首を横に振った。この自信は一体どこから出てくるのだろうと不思議に思った。
きっとこれは彼女なりの気合の入れ方なのだろう。
左手で私の背中を軽くポンポンと叩いてくれた。