ししゃも白昼夢(ファンタジー)(1)
連日近隣国の意味不明な威嚇、共益ならざる社会の理…世間はどこか歪んでいると、河原に捨てられた空き缶空き瓶塵芥を私はオカンと見つめていた。
「なあ、なんで越己(えつこ)者は何もせんの?溢れたゴミなんかあっという間に綺麗にできるんやろ。
わけのわからんミサイルなんか壊せるんやろ。やのになんで何もできやんの?何もしてくれへんの?うちらができやんことしてくれるんが越己者じゃなかったん?」 オカンは私の頭にそっと手を乗せた。
「越己者も万能じゃないんや。それに、オカンらが住んでるところは皆で守らんとあかんのや」
 思えば、このやり場のない思いが私の将来を左右させることになったのかもしれない。


書店を出た後、私は図書館に課題をしに行こうと隣の校舎を渡っていくところだった。
「こなき!」
誰かが私を呼び止めた。振り返ると校舎の中から手を振って走ってくる学生の姿があった。
「紫音(しのね)、授業?」
「ううん、地下の食堂で寝てた」
紫音は寝起きのためか前髪がくしゃとなっていた。
「うちは図書館行くんやけど」
「わたしはパソコン室に。途中まで一緒に行こ」
私は頷くと校舎の玄関から出て、まっすぐ掲示板通りに沿って歩き始めた。
さっと掲示物の確認をしながら、端の方で私は立ち止まった。
(凶悪な越己者に注意?)
「どうしたの?」
先を行こうとした紫音も足を止めて私の隣に並んだ。
「四条にこんな人ら出るんや」
「ああ、四条大橋でこの前見たよ。あの狭い通りをバイクですっ飛ばしてくんだよ。ワケわからないことわめいて」
「それってただの暴走族じゃないん?」
「わめくだけだったらね。でも彼らは越己(えつこ)で盗みや暴力をはたらいてるんだよ。あの時は待ち伏せしていた警察に捕まえられたから被害はなかったけど」
「へえ〜越己って奥が深いなあ…イマイチどういうもんかわからんけど」
私がつぶやくと紫音は目を丸くした。
「こなき講義聞いてないの?先生言ってたじゃん。越己は己内(このち)の範囲を超えて身につけた能力だって」
「意味はわかるよ、でも、範囲ってのが曖昧やん?」
「まあ、言われてみればね。」
紫音は躊躇いつつも納得した。
さっきから話題に上がっている「己内」と「越己」というのを説明すると、基礎代謝に値するのが己内で、紫音が言ったようにそれ以上の能力を身につけたものを越己という。
己内は人間に本来備わっている滞在能力及び潜在能力を含み、体力知力なども己内の類である。
それに対して越己は己を越える、すなわち己内以外の力を取り込んだものをいう。
「たとえば、もともとの能力よりレベルアップをはかろうと勉強するのは越己になるん?」
「それは己内でしょ。自分が頑張ればどうにかできることだもん」
「へえ?そんなもんなん?できやんだら越己なん?」
紫音は眉間に皺を寄せた。
「う〜ん、簡単に言えばだよ…地震を起こすとか、雨を降らせるとかは絶対に越己じゃん?」
「ほう、なるほど」
私は首を大きく縦に振った。
「でも、こすい手使って勉強するヤツもいるだろうけどね、まあそれは個人の問題だから関係ないや」
と今の会話でもわかったように、自分がどうやってもできないことつまり、人間の力を持ってしては実現不可能なことが越己に入るらしい。
そして、紫音が述べたように個人のみに関わることにおいても越己は実行できる。社会的越己と個人的越己として区別されるというのを今思い出した。
「しかし、この人らは何をやりたいんかな」
「さあ?目立ちたいだけじゃないの?」
「それなら、もっと社会に役立つことしてほしいよ」
「こなきはいつもそう言うよねえ」
クスクスと笑う紫音に私は首をかしげた。
「おかしい?」
「人材余すところなくっていうか、救おうとするよね」
「そんな高尚なもんじゃないって。ただ、うちやったら安全な生き方をしたいもん」
「まあ、こなきが凶悪な越己者になることはないと思うけどね」
「越己の“エ“もないしな」
私はからからと笑った。
同じ仰酸大学文化学部創作学科といえども、社会言語専攻の私と越己研究専攻の紫音では学ぶことは全く異なる。
教養科目として越己概説の講義は聞いていたものの、専門的なこととなるとさっぱりわからない。未知である。それ以前に私は越己の定義すら理解していなかったのだが。
「紫音はよう勉強してるよな。空間なんたらを」
「空間越己?」
「そうそう。なんたらって難しくなかったわ」
私はへへへと頭をかく。
「遠いところでも自由に行き来できるなんてめっちゃ便利やん」
「その遠くさせるのが難しいんだよ。卒業するのに出来たらいい距離はここからビワ湖までだから軽いもんだけど」
紫音はあっさりと言ってのける。
「んまあ、自転車で九十分ほどの距離やからな…一体今はどのくらい移動できるん?」
「地理にもよるけど、二十キロくらいかな」
「じゃあ卒業できるやん」
「まだ単位全部とってないし、試験は他にもあるし」
「ああ、そやった。うっかり」
私は早とちりしてしまった。
「そろそろ行かないと、教室閉まるの早いから」
「あ、止めてゴメン、じゃあ」
「また明日〜」
私は先を行く紫音を見送った後、また例の掲示板を一瞥した。
“凶悪な越己者に注意!! ここ最近、四条ガバラ町付近で越己者による迷惑行為が多発しています。
特に夜遅い時間帯に帰る時にはくれぐれも注意して下さい。”


「は〜い、前期講義は今日でお終いで〜す。試験はレポートです。前回も言った通り、家庭菜園をテーマに千二百字以上書いてきてくださ〜い。締め切りは八月末です〜」
二時間目終了寸前、塗屁(ぬっぺ)ほっふ先生のこもった声が教室に響いた。
学生達は耳で聞きながら手は帰る支度をしていた。
「あっ、補講は自由参加で〜す。来たい人は来てくださ〜い。評価点には影響しませ〜ん」
語尾を延ばすのは何も連絡事項に限らない。授業中もこの調子である。だから、めちゃくちゃ眠いったらありゃしない。
塗屁先生は己内を専門に教えており、今日は「植物の己内」という題目の講義を聞いた。
それゆえ、レポート課題が家庭菜園なのである。実際に自分が植物を育てて、それを通して感じたことを己内に触れて論ずるという、小学生がする朝顔の観察のグレードアップしたものといってもよい。
しかし、家庭菜園って実家通いの人達はいいけど下宿生はどうやって調べるのか…
(先生に聞いてみよ。)
私はカバンを提げて教卓に向かった。その周りには学生が五、六人ほど詰め掛けていたいた。
私の前にいた茶金髪の女の子が先生に質問した。
「わたしぃ、下宿で家庭菜園なんてできないんですけどぉ、実家で育ててるのでもいいんですかあ?」
「は〜い、構いませんよ」
塗屁先生は軽〜く答えた。
先生は白いワイシャツに緑と青のストライプというセンス悪いネクタイをしていたが、私の目線はネクタイよりも、その突き出たお腹が気になって仕方なかった。
たるんだ肉がのっかかっていて前左右からはズボンのベルトは全く見えない。
「あとぉ、もう一個質問なんですけどぉ、補講は何するんですかぉ?」
またこの女子学生もたるいしゃべり方をする。
真ピンクの皮製のカバンを肩にかけ、耳横には黄色の花飾りをつけていた。
格好は空色のTシャツにインディゴブルーのショートパンツからは膝上からまっすぐ生足が伸びそこそこの美脚だなあと思いきや、下駄みたいなペタペタのサンダルがそれを台無しにしていた。
(この子はギャルやな、うん)
私は一人悦に入り彼女と先生とのやりとりを後ろに並びながら聞いていた。 
先生はギャルの接し方もお構いなしに問いに真面目に答えた。
「補講はね〜、己内を磨く小技を皆さんに伝授しようと思ってます〜」
「それってぇ、役に立ちますう?」
「もちろ〜ん!“己内鍛えて我あり”ですからね〜」
(何その格言みたいなん…)
私は後ろで呆気にとられていたが、会話はいたって和やかに取り交わされていた。
「わかりましたぁ〜どうもありがとうございましたぁ〜」
ギャル学生はペコリとお辞儀をして、擦り切れたサンダルを擦りながら帰って行った。
(うち関西人やけど、あんなに間延びしやんわあ)
と学生につられて伸ばしてみたが、やはり気持ち悪かった。
「何か質問ですか〜?」
その場で突っ立っていた私に先生は声をかけてくれた。
「あ、いえ、さっき同じ質問をした人がいたので…」
私は慌てて手を横に振った。
「補講、是非出席してくださ〜いね」
先生はふくよかな頬をほころばせると目がなくなった。
「はい、できる限り…」
曖昧な返事をした私は会釈をしてその場から去った。
(ふう、全く奇妙な先生や)
私はさっきの数分間がまるで何時間にも感じられた。先生と学生のダブル効果である。
それでなくとも、普段の塗屁先生の講義は他の講義よりも一.五倍長く感じる。
無駄なことをしゃべっているわけでもなく、私は眠気のあまり授業の三分の一をまともに聞いてないので、もしかしたらその分に何か重要なことを言っているのかもしれない。筆記試験でなくてホッとした。
(さて、家庭菜園何にしようかしらん)
私は食堂のある校舎に向かいながら考えていた。
(実家で何か育ててたっけ…あ、トマトがある!)
ふと故郷の家の庭を思い浮かべた。
洗濯物が干せるくらいの狭い庭であるが、花やネギやパセリやシソなど母の手によって空間が有効に使われていた。
そして物干し竿の下に毎年のようにプチトマトの鉢植えが置かれるのである。
去年は増殖しすぎて鉢植えでは追いつかず、根っこから引き抜きそのままごっそり土の中に埋めた後、ネギの隣ですくすくと成長した。
そしてたくさんの実をつけたのだが、その形がとてつもなく歪だった。
プチのくせにトマトよりは小さくプチトマトよりはでかい。
更に、丸でも四角でも三角でもない不揃いなそれらは真ん中で切るとちょうど山という字ができた。
見た目のわりに皮が分厚く噛み切れないので、食卓にはいつも皮が剥かれた状態で上がる。
味はといえば、育て上げた味が果実全体から伝わってくる。
綺麗な形の購入品と比べれば味は落ちるが、それでもおいしいと思えるのは丹念込めて育ててきたからだろうと思う。
私はそのプチトマトについてレポートを書くことに決めた。早速携帯を取り出し母にメールを送った。
 「試験の課題で家のプチトマトを調べることになった。まだあるよなあ?」
送信…
これで返事が否であった場合、シソへの転向も考えていた。
でも、できることならあの奇妙なプチトマトがいい。断然いい。といっても、レポートの締め切りは月末。
他の試験勉強もすることを考えると夏休み前には仕上げたい。となればその前に帰らなくてはならないのか。
わお。面倒臭い。
私は舌打ちした。
(あ、そうやん!紫音に頼んで…)
ヒヒヒと心の中でほくそ笑んだ私は足早に食堂のある地下へ下りていった。


昼時とあって食堂は混んでいた。
ここには食券発行台が三台あり、空いたところから順々に使っていくのだが、昼の時間帯は食券を買う人の列が三列にぎっしり詰まっていた。
(先に買っといてよかった)
私は食券待ち列をすり抜けて空いている席を探した。
その時腕に振動を感じた。右肩にかけていたカバンから私はごそごそと携帯を取り出した。
「中庭入り口あたりにいるよ」
紫音からだった。私はそのメール通りに中庭に続くドア付近まで歩いていった。
通路側に紫音とそしてその隣には杏ちゃんがいた。
私に気づいた二人は小さく手を振ってくれた。
「終わるの遅かったんやねえ」
杏ちゃんがのほほんとした表情で言う。
「ああ、終わってから先生に質問に行ってたからさ〜」
私は紫音の前の席に座った。
杏ちゃんはオムライスをもぐもぐ食べながら頷いた。
杏ちゃんこと多岐杏子は文化学部の歴史学科で古代を専攻している。
紫音がある授業で彼女と一緒になり仲良くなったのをきっかけに私とも親しくなった。
「テスト嫌だなあ〜」
紫音ががっくりと肩を落とす。
「紫音なら越己のテストぐらい楽勝やろ?」
「いや、意外と厳しいんだよ。反則してないかどうか調べられるし」
「なんか大変そやな…」
「こなっきぃはテストどれだけある?」
杏ちゃんの問いに私は一間置いてから答えた。
「うんと、五つかな。去年よりは少ないけど家庭菜園が…」
「家庭菜園?」
紫音が聞き返した。
(おっと!そやった。忘れるところやった。)
私はにやあっとした。紫音は
「何?気持ち悪い」
と訝しがった。
「紫音、空間移動できるて言ってたよなあ?」
「うん、それが?こなきも使いたいの?」
「…うん。」
さすが紫音、察しがいい。私は課題のことを詳しく話した。
「その家庭菜園の課題で植物の己内について調べるんやけど、下宿じゃあできやんやろ。やから故郷のプチトマトでやろうと思ってるんやけど、行き来するのが面倒やなあと。」 「ふうん。別にいいけど。こなきの実家ってここからどれくらい離れてるっけ?」
紫音はすんなり許可してくれた。
「百二十キロくらいかな」
「地名は?」
「茲賀津(ここがつ)」
「海に近い?」
「うん、内海やけど」
紫音はしばらく考え込んだ。私はその様子を見ながらどきどきしていた。
「多分いけると思う。距離が長いのが気になったけど、海があるなら抵抗は少ないし…」
「はあ…」
空間越己の仕組みを全く知らない私には、紫音の説明はわからなかった。
「こなきの実家から駅とか神社とかお寺とか近い?」
「駅は遠いなあ…神社はあったよ、でも近年行ってないから詳しい場所まで覚えてない」
「周辺の風景はイメージできるよね?」
「うん。」
「それならとんでもないとこに飛ばされることはないと思う。今日帰ったら移動できるようにしとくよ」
「ありがとう〜」
私は心から感謝した。持つべきものは友人だ。
レポートが終わったら彼女には何かおごってやらねば。
私はウキウキ気分で買ってきたおにぎりを食べ始めると、通路を一人の女の子が通り過ぎた。
私はハッと隣のテーブルを見た。
真っ直ぐな黒茶色の髪をした人だった。
紫音と同じ列に座っていたので顔がよく見えた。
彼女は天津飯を食べていた。一人で。
黒色のニットにベージュのパンツというラフな服装に、腕や首には装飾品がじゃらじゃらとついていた。
私は手を止めてしばらく眺めていた。すると一瞬彼女と目が合った。
あ、と思ううちに彼女は目を逸らした。
私は妙な気分だった。赤の他人とはよくあることだが、それにしてもこの消化不良感は何だろう。
「こなきどうしたの?手震えてるよ?」
紫音の声にはっと我に返った私は自分のおにぎりをつかんでいる手を見た。
(本当や)
私は無意識のうちに彼女から恐怖でも感じ取っていたのか。それにしても、心はどこか平然としていた。
私がなお隣のテーブルの女の子をちら見すると杏ちゃんが小声で話した。
「あの人越己で学年トップの子やんねえ。蛇羅家(じゃらけ)素持(すもち)とかいう」
「そうなん?」
私は杏ちゃんに顔を向けた。彼女は口に手をあててう〜んとと考えた。
「この前総務課に行ったとき、あの子が奨励金もらうの見たんよ」
奨励金というのは、学年で成績優秀者に送られる贈呈金のことである。
「紫音知ってる?」
私は越己つながりで紫音に尋ねた。彼女はさっきから黙っていたが顔はしかめていた。
「名前は聞いたことあるけど、どんな人かは知らない。授業でたまに見かけることあるだけで」
「怒ってる。」
「別にわたしは怒ってなんか…」
「違う、あの人がさ」
「へえ?」
紫音は私の視線につられて例の学生に目を向けた。
「何で怒ってるの?」
「なんとなく、目つきとか鋭いもん。こう、まるで獲物をプスッと刺してしまいそうな」
「ないない、できる越己者なら感情まかせになんかしないよ」
「そうやんな〜」
私は紫音と一緒に笑った。
(ただの私の偏見かもな)
そう思い直したときガタっと彼女が立ち上がった。
早々と昼食を済ませて食器を返しに行こうとしていた。
そこで彼女は再び私を見た。うん?私を見た? 彼女は一回ゆっくり瞬きをした。私は吐きそうになった。
顔が青ざめた。
あだばぶだあだばぶだと意味不明な呟きが頭の中でくるくる回った。
貧乏ゆすりもちゃぶ台の上に乗った湯飲みをガタガタさせるくらいに激しくなりそうなじれったさ。
今ここでテーブルをガンガン蹴ったら周囲の顰蹙を買うことになるので心の中で悶えておいた。
私の百面相に二人は顔を見合わせた。
「こなっきい大丈夫?」
「うううん、なんでもないよ」
心配顔の杏ちゃんに私は挙動不審なくらいに首を振った。
「今日は帰ったら早く寝た方がいいよ」
「うん、そうしますしもす」
言葉遣いまでおかしくなってきた私は、平常心を取り戻そうと大きく深呼吸した。
幸いなことにもうあの女の子の姿はなかった。一安心した私は遅れた昼食を食べ始めた。


翌日母からメールの返事が来ていた。
「あるよ。庭に。今年もたわわ」
私はこの“たわわ”という三文字でその情景がありありと浮かべることが出来た。
何はともあれ、プチトマトで課題はできそうなので後は紫音の連絡を待つのみだった。彼女の授業が終わるのを待っていようと、文化学部一号館のロビーに飾ってある標本を眺めていた。
普段は急いで階段を昇降するから、端っこにある硝子ケースなんか目にも入らなかったが、じっくり見てみると実に興味深かった。
蝶やトンボからはじまり魚、蛙、蛇、鼠…と進化してくほどに私の目は釘付けになった。
蛙の腹の中は中学生の時に見たことあるが、鼠やウサギの腹の中なんて見たことなかった。
模型の臓物が腹の中にきれいにおさまっているのに私は感動を覚えた。ほ〜う、やへ〜えなど賞賛のため息がおさまらなかった。
「こなきちゃん?」
反動で私はつんのめりそうになり、寸でのところで硝子ケースに手をついた。
「ああ、おはよう」
後ろにいたのは肥代呂(ひよろ)だった。彼は困惑顔になっていた。
「友達を待ってて…珍しいよな、この校舎で授業?」
私は後もう少し標本を見ていたかったが、彼を無視するわけにもいかなかった。
「うん、週に一回あるんだ。こなきちゃんは文化学部だからここが多いのかな?」
「ここより二号館のが多いかも」
私は笑っていたが内心、標本が気になって仕方なかった。
体というのは正直なもので目ではチラチラ硝子ケースを捉えようとしていた。
彼は曖昧に微笑んで立っていた。

彼、夢森肥代呂は体育学部の学生である。
私と知り合ったのは三ヶ月前の創作学科のコンパであった。
学科のコンパ好きな人たちが主催するもので、参加は自由だった。
私は興味もなかったので出席するつもりはなかったのだが、一人欠席者が出て、その代わりに私に出てほしいと学会委員直々に頼まれて渋々参加したのだった。
コンパには道路を挟んだ向かいにある体育学部の学生がわんさかいた。体育学部の三分の二は男子学生である。
逆に文化学部は三分の二が女子学生。
普段は構内をすれ違うことくらいしかない両者が一緒くたになって盛り上がるのは、こういう催しでもないと出会いもほぼないに等しかった。
そのときにたまたま前の席に座っていたのが肥代呂だった。
彼は一番私によくしゃべってくれていた。直感的に「あ、気に入ってもらえたんかな」と思い、私もよく話した。じゃがいもとせんべいを足して二で割ったような彼は見かけ上は決してカッコよい方ではないが、真面目で何かと気を遣ってくれた。
ただ、あまり女の子とは会話したことがないようで、たまに私に「こういう時、女の子はどう思うのかなあ?」と相談されるときもある。
私は「そこまで気遣わんでええし、特別に考えることもないよ。」と軽くあしらうのだが、彼にはどうしてもそれはできないらしい。
私の意見を取り入れてくれるというと聞こえはよいが、それは自分が決めるのが嫌だから私の意向に任せているという楽をしようとしているようにもとれる行為がこれまでに何度かあった。
そんなこんなで、彼は面白い人柄ではあるが、恋愛感情を持つには程遠かった。

「うち、今までこれ見てたんやけどさ…」
我慢できなくなった私は思い切って硝子ケースを指差した。
「うん?」
と言った彼はポカンと口を開けた。
「おもしろくない?特にうさぎとか」
「そうだね、すごいね…」
彼の顔は明らかに血の気が引いていた。
人間、恐怖を感じたりすると青ざめるというが、リアルタイムでしかもこんな間近で見られるとは思っていなかった。
私は仕方なく言い直した。
「アカンのやったらいいよ。そこ座ろ」
「えっ?そんな、せっかくこなきちゃんが言ってくれたのに」
「いいよいいよ、無理せんといて」
本当、無理をして倒れられたら困る。私は慌てる彼を尻目にロビーの椅子に腰掛けようとした。その刹那、
カサカサ
(おう、ヤツか!)
私は俊敏に硝子ケースのある壁の端を見やった。
音は間違いなくそこから聞こえた。まさしくこの不気味で背筋が寒くなる音は家庭内害虫ゴキブリの這う音である。
彼には聞こえなかったのか何事もなく椅子に座った。
私は立ち上がってそっと歩いていった。彼も後についてきた。
カサカサカサ
(出てきた!)
私がケースの下から出てきたヤツを確認するとぱっと移動した。
「ぎゃっ!!」
「わっ!」
彼が私の肩をつかみ後ろに隠れていた。
(え、ヤツが苦手なんか?)
私は彼の行動に疑問を感じた。彼は私の視線に気がつくとぱっと手を放した。
「ごめん!」
「ああ、びっくりした…肥代呂君、新聞かなんか硬い本とか持ってない?」
彼は慌ててカバンの中を探り始めた。
私はヤツが逃げないようにずっと監視していた。
「あった!これでよければ」
「ありがとう。」
「それでどうする…もしかして叩くの?」
彼は恐る恐る私に尋ねる。
「うん。汚れやんようにいらん紙巻いて叩くから安心して」
「……」
彼は黙っていた。おそらく、彼にとって本が汚れるよりもヤツを目にしたことが災難だったのだろう。
私は紙を巻いた本を右手に持ち、そっとヤツに近づいた。
バシン!
廊下に大きな音が響いた。本を話すと見事にヤツは息絶えていた。
私は手際よく紙にそれを包み隅にあったゴミ箱に捨てた。
フィニッシュ。
私は本が汚れてないことを確かめると彼のところまで行って本を返した。
「ありがとう、役に立ったよ」
「ううん、こなきちゃん強いんだね」
彼はこわごわ本を受け取った。
「そう?だって夏場はよく出るやん?まだあれは小さい方やで。故郷やったらでっかくて気持ち悪いもん」
「へえ…そうなんだ。」
彼は固まっていた。おそらく私の言葉を聞いて更に気味悪くなったのだろう。唇が青い。
「あ、さっきはごめんね。いきなり現れたからびっくりして」
「気にせんといて。誰にでも苦手なもんはあるし」
これ毒になってないよな?と自分でも確かめていた。しかし、彼はそれを悔やむように言った。
「今度は僕が退治できるようにならないとね」
「…うん、楽しみにしてる」
私はその場を誤魔化すようにはははと笑った。
「こなき!と…肥代呂君じゃん」
階段を一番乗りに下りてきた紫音は、私と肥代呂を見ると不思議そうな顔をした。
「どうも」
彼は彼女に軽くあいさつをした。
「たまたま会って、紫音が来るまでしゃべってた」
私は敢えてヤツのことは口にしなかった。今ここでは。
「な?」
「あ、はい、うん。」
私が念を押すように笑むと彼は反動で頷き視線を逸らした。紫音は不審な眼差しを私たちに向けていた。
「じゃあ、僕そろそろ行くよ」
彼は頭をかくと階段を下りてくる人たちの集団の中へ突っ込んでいった。
「つーか、何よさっきの?」
「教えてほしいかい?」
私はわざと茶化してみせる。しかし彼女はそれにのらなかった。
「聞きたいところだけど、今日は急いでて。移動の説明だけさっさとするよ」
彼女はカバンを椅子に置き説明し始めた。
「扉は二箇所、一つは学校の五階の私のロッカー。もう一つは茲賀津のこなきが言ってた神社の周辺。ロッカーの前で右に三歩行って前に五歩進んだら扉をくぐることができるよ」
「魔法みたいやな…」
「越己だって」
紫音は笑いながら一枚の紙を取り出した。
「忘れないように書いておいたから」
「ありがと」
「帰ってくる時の方法とか、わからないことあったらまたメールしてくれたらいいから。ほんじゃまた!」
紫音はカバンを肩にかけて急いで校舎を出て行った。
「ありがとう!」
と私がお礼を言ったか言わないうちに彼女は戻ってきた。
何か忘れ物でもしたのかと思ったら、彼女は私の耳元で呟いた。
「彼、こなきにメロメロだねえ。」
「めろめろ?」
私は紫音と目を合わせた。彼女はにやにやしていた。
「さっき念押してた時、彼こなき笑うの見て顔赤らめてたもん」
「ふう〜ん。シャイなんや」
私は特に驚きもしなかった。どちらかといえば、紫音がわざわざそれを言いに戻ってきたことの方が意外だった。
「じゃね」
彼女は今度こそ本当に走って校舎を出て行った。
私は紙を持ったままもう一回標本の硝子ケースへ足を運んだ。今度はじっくりと堪能した。


その日の夕方、私は早速空間越己を利用することにした。
母には今から越己で家に行くとメールしておいたので問題はない。
一号館の五階のロッカーまで来ると私は紫音のロッカーを探した。
(あった、ここや)
“矢北紫音”の名前を見つけた私はそこから右に三歩進んだ。そして前へ五歩…
(壁にぶつかる!!あれ、抜けてる?)
気がつくと横断歩道の前に立っていた。見覚えのある景色である。
(ここ、茲賀津!!)
私は一回転して辺りを見回した。間違いない私の生まれ故郷である。
かすかな潮の匂い、うっすら見える山脈、果てしなく続く田んぼ。それは京の中心では絶対にお目にかかることのできない貴重な貴重な記憶だった。
(家に帰ろう)
私は横断歩道の信号が点滅してるのを急いで渡った。
すぐそばに近年できたばかりのコンビニエンスストアがあった。
通り越しに店の中を覗いてみるとわりと人がたくさんいた。民家の続く道路沿いに突如できたこのコンビニは町の一大シンボルとなった。
二十四時間営業の店がこんな田舎にできてしまってよかったのだろうかと当初は不安だらけだったが、何のことはなかった。真っ暗な夜道だったところに蛍光灯の明かりが灯り、治安改善に大いに役割を果たしているのだった。 私は数分歩いて最初の曲がり角を右に曲がった。その辺りは新町の住宅地域だった。
茲賀津は新町地区と旧町地区に分かれている。さっき渡ってきた横断歩道よりも西を新町すなわち、あとに出来た町でそれより東を旧町、古くからある町と称している。
新町地区は他の地域からやってきた人たちが殆どである。
今通り過ぎた一帯も新居のようで別格の輝きを放っていた。田舎といえど少しずつ変わっていく姿に私は帰郷する度に年を感じた。

家のインターホンを押すと母が扉を開けた。
「ただいま〜」
「早っ!魔法やんか」
母は仰天していた。
「越己やって」
このやりとり昨日の私と紫音と同じである。それはともかく、私は紫音の空間越己の詳細を母に語ると早速庭のプチトマトを見に行った。
「たわわ〜たわわ〜」
ガラッ
「えっ?」
私は目が点になった。
確かにそこにプチトマトはあった。実もたわわである。しかし、赤くない。どれも真緑のままなのである。
向かいでツルをまいているニガリウリの色と変わらないくらい青かった。
「なんで赤くないん?」
私はあわてふためいてトマトを責めた。
「なんでって、今年は日照不足でちょっと遅いんやろ」
母はトマトを庇う。
「そのうち赤くなるやろ」
「そのうちって…」
私はカクンと頭を垂れた。
せっかくすぐにレポートできると思ったのに。青から赤への変化を遂げる様子をドラマチックに観察記録をとるのもいいけれど、一から育ててもないのにそれは微妙だ。
それなら、赤く熟れたプチトマトで直に考察した方が過去に差し障りなくレポートが書けるというもの。私が落ち込んでいると母が言った。
「別に家のじゃなくてもいいやん。朝一で売ってんの見たことあるから、それでも買ってきたらいいんちゃう?形もこれよりずっといいやろし」
「オカンはこのプチトマトに希望を持ってないの?」
母の恬淡とした口調に私は思わず感情的に反撃した。
「希望って…だって、あんた赤いのがいいんやろ」
「うん」
「やったら、これとは別のにせな無理やろ」
「う〜ん、そうか」
私は即座に折れてしまった。
まあ、このプチトマトが熟れてきたらその時で、レポート用にきちんとしたやつを買ってもいいんではないか、という母の案はもっともな意見だった。
それなら、わざわざ茲賀津に戻ってくることもなかったな…と思いかけたが、せっかく紫音が扉を用意してくれたのだから、その朝一に久々に行ってみることにした。
「じゃあ明日行ってみる」
私が立ち上がると母はぱっと振り返った。
「ああ、明日は休みやで。次は来週の日曜や」
「え〜っ、めっちゃ無駄足やん」
再びその場に座り込んだ私はため息をついた。母はふふと笑い台所に戻っていった。