ハイパーフレッシュナブルこてぃすと ~優しさの調和~ (3)
 2階は階段を挟んだ西側に寝室、東側に自室という名の6畳の箏練習部屋があった。
 壁際には3段の白いカラーボックスを置き、楽譜入れとして利用していた。その一番上には黒いコスメボックスが置いてあり、両サイドを開ければどこでも自由にメイクができるような作りだった。
(こんな狭いとこにはないやろな~)
 私はボックスを開けて一応中を覗いた。マスカラ、チークブラシ、アイライナー、アイシャドウなど化粧道具に混じってある物を発見した。
 ステンレス製のリップケース。奥から取り出すと若干熱を持っていた。
 フタがピンクのキラキラビジューで装飾された豪華な入れ物である。フタの内側が鏡になっており、外出先でもさっと取り出して化粧直しが出来る仕様が謳い文句だった。
 今を去ること数年前、婚約記念として私に何か品物をあげたいと仁達の要望があり、高価な指輪は不要なのでその代わりの物をネットで探し、名入れもできることと、何よりもデザインが気に入ったので買ってもらった。
 金額は2,000円弱だったはずだが特別感はしっかり出ていた。
 しかし、いざ使用しようと思ったらフタ内側の鏡が重く、深さが深めなのでリップケースには重たく取り出しづらいという、一見便利な機能が逆に実用性を損なっているという結論に至り、ずっとこのボックスの中で眠っていた。
 一時は箏爪のケースになるかとも試してみたが、出し入れの多いケースなので、あまりパカパカ開け閉めしていると、鏡の重みでフタが外れてしまいそうで、これも実用化が実現しなかった。
 そんな日の目を見なかったケースが今こうして膨らんでいる。直射日光に当たる場所ではないので熱変形ではない。
 私は勇気を出してそっとケースを手に取りフタを開けた。
 そこには小宇宙とも呼べるべき青黒い空間が広がっていた。
(あっ、これアカンやつかも)
 まずい光景を目撃した気がしてフタを閉じようとしかけた時
「待て」
 と止められた。
「あわっ!いつの間に!」
 私のすぐ斜め後ろには龍星が立っていた。
 魔物というのは忍者のごとく気配を消せるものなのだろうか。
 足音一つしなかった。私の驚きには気を留めず彼はケースを覗き込んだ。
「これは…俺の魔力ストックだ」
「え?こんなコンパクトにおさまるものなん?」
 私は最小でもみかん箱くらいの大きさはあると想像していた。
「ストックに繋がっているといったほうが正しいか。やはり爆破の影響で所有者使用者ともに解除されているな」
「うち魔法使えたで」
「この入れ物の持ち主がお前だからだろう。所有者不明の魔力が器等に入ると、器の持ち主が所有者と認識されるらしい」
「魔力ないのになあ…あ、龍月にはあったな」
「その僅かな魔力を察知したんだ。特に思い入れ深い品の場合、使用権限も与えられることがある」
「思い入れなあ…確かに記念品やけど、今の今まで放置してたよ」
 彼は側面の「Forever in love Nintatsu to Kotone」という文字列に目を通した後、コメントしない代わりにひどく呆れた視線を私に送っていた。
「と、とにかく、所有者を星太郎にしたら解決なんやろ。このまま返すよ」
 私は早々に万事解決だと喜び、ケースを彼に渡そうとすると、フタの重みで人差し指が挟まってしまった。
 抜こうと持ち上げると急に中からぐっと強い力でひっぱられた。
「痛い痛い痛い~!ちぎれる~!」
「魔力使って何とかしろよ」
「ええと、ふんぬ!」
 私は左手に力を込めたが、細い糸が2,3本ちょろっと飛び出ただけだった。
「しょぼっ!ムリ!痛くて集中できやんわ!」
「まったく…」
 彼は左人差し指をケースの中に入れた。ボッと小さな炎が上がったかと思うと
「あちちちち~!」
甲高い叫び声がして指がするりと抜けた。
「ふう、ありがとう。って、あれ?今何かいたけど」
「魔物の気配じゃなかった。紅深蝶だろう。しまった。引きずり出して洗いざらい吐かせた方が良かったか」
「いや、こんなとこに出てきてもらっても困るんやけど。っていうか、紅深蝶、勝手に他人のストックに侵入してるやん。泥棒やん、通報せな!星太郎今すぐ帰らんと!ここは見栄張ってる場合ちゃうで。ケースの力使えばすぐに飛んでいけるんやろ?」
 早く帰ってもらいたい一心で畳み掛けるように話す私に彼はたじろいだ。
「待て。さっきも言ったが、この入れ物の所有者および使用者はお前だから俺には使えない。それに…」
 彼はケースを見やった。
「いずれにせよ、手放す力だったから所有者は戻すにしろ、この状態にしたまま使用者をお前と龍月に変更するのも悪くはないかと思い始めた」
「こんな物騒な物持ち歩くとか嫌やで。保管も」
「認証さえ完了していれば他の魔物が近づくこともない。使いたかったんじゃなかったのか?」
「う、それは…」
 私は言葉に詰まった。確かに大抵の子供は憧れる魔法というものを自由に使えたらどんなに素敵だろうと夢見た幼少期を持つ一人だった。
 けれども、成長するにつれ現実に直面してくると、何でもかんでも魔法で済ませられたら人間としての本来持つべき力まで失ってしまいそうだと恐怖感を覚えるようになり、いざ「どうぞ差し上げます」と言われても懐疑心が拭いきれなかった。
 それにお試し魔法の結果通り、普通の人間は特訓しないと容易に扱える力ではない。
慣れて普段遣いまで到達しようと思うと、相当な根気と体力が要ると理解できれば、そこまで欲しくもなくなってきた。
「荷が重そうやからいいや」
「お前は使えこなせそうだからな。それでもいい」
「わりと失礼なことを平然と言ってのけるよなあ」
「魔物はこういうものだ」
「嘘くさい…」
 私はジト目で彼を見つめた。
 彼は悪びれる様子もなく上着のポケットからごそごそと何かを取り出した。
 出てきたのはスマートフォンのような小型のデジタル機器と、万年筆のような高級感あふれる洗練されたデザインの黒色の筆記具だった。
「それ何?」
「タパレットとペンタ。ワーネルを描く道具だ」
「地面に直に描くんかと思ってた」
「失敗したときに面倒なことになるし、タパレットで描けば層(レイヤー)ごとに保存できるから、修正や新規描画時にはその部分のみ変更すれば済む」
「レイヤーって何枚も重なってるってこと?」
「基本は、ワク、エン、カク、ナカの4層で作る」
「それらを重ねると一つのワーネルができるってわけか。出来上がったパネルはどうするん?」
「まずは完成したワーネルを所内ネットワークを経由して、上に図面を送り認証を受ける。その後ワープ元とワープ先に設置する」
「ワープする時にパネルを持ってワープ先に設置するん?」
「それもできるが、万が一移動位置がずれた時や持ち忘れがあった場合、ワープ元に戻れなくなるため通常はワープ元から飛ばし、位置確認を完了させてから移動を試している」
「ワープ元から飛ばすのって魔力要るんじゃないの?」
「基本能力で十分だ。それより問題は地上界から魔界への移動となると、位置情報の特定が難しい」
 流暢に説明していた彼は考え込んだ。
「聞いてるだけでややこしそうやな。それが星太郎の使い追い出し以外の仕事?」
「主に。取所はどこの区も無駄にでかいから所内移動はワープが基本だな」
「でかいってどれくらい?」
「東西に約1キロメートル」
「1キロて…大手ショッピングモールをもうちょい広くした感じか。でも、大きすぎやな。端から端まで歩くのは遠いな。ワープじゃないと疲れるなあ…って何その目は」
「お前なら確実に迷うだろうなと」
「失礼な!」
「嫌味ではなく、弐区所(にくしょ)に来た奴は慣れないものだから迷うんだよ」
 弐区所…文脈から「弐区多種雑多取扱所」の略だと推測した。
「ワープって一箇所に飛ぶだけじゃないの?」
「所内のワーネルは1フロアにつき5つあり、それぞれに位置コードが割り振られている。例えば、今3階のU地点にいたとして、4階のS地点に移動する場合4Sと書き、コードを反時計回りに囲む。
2階のS地点なら2Sと書き時計回りに囲む。同位置の上下階…4階のU地点、2階のU地点に移る時はコードを囲むだけでも移動できる」
「アルファベットはABCて順番じゃないの?」
「西からC、I、S、U、Zと並んでいる。一筆で書けるようにな。「シスズ」と覚える」
「聞いてるだけじゃ、初心者にはちんぷんかんぷんや」
「部外者があちこち飛び回られたりしたら厄介だからな。所内ワープにはペンタを持参していないと飛べない。また上層部の部屋はペンタ其々に割り当てられた暗号を入力しないとワーネルに乗っても飛ばない」
「セキュリティシステム万全のオフィスみたいやな。ペンタなくしたら大変やん。徒歩移動はできへんの?」
「階段もあるが、たまに消えて落ちたり逆に増えたりする仕掛けになっているから殆ど使わない」
「自分達の職場にトラップしかけてるって一体…」
「所内に棲みつく悪戯好きの魔獣の仕業だ」
 ここまでくるとからくり屋敷のようにしか思えてこなかった。
 実際に自分が魔界の取所に行く機会が万一あれば、ワープ迷子になって所内を彷徨っている姿が容易に想像できた。
 突如ワーネルが出てきてうっかり踏まないでも限り、魔界に飛ぶなんてこと生涯ないことだろう。
 生き生きと事細かな説明をしてくれた彼には悪いが、地上界での生活に役立つことでもないので、あったら便利な設備とぼんやり想像しておくだけにしておいた。
「あと、紙を何枚かもらえると助かるんだが…」
「それで描くんじゃないの?」
 私は彼の手にしているタパレットを指さした。
「おおまかな図は紙の方が描きやすい」
「あ~うちもそうやな。バナーとか作るのを適当に描いてそれから画面で作業や」
 作業内容は全然違うけれども、スタイルは似ていると思うと少し興味がわいた。
 ところが彼は露骨に嫌そうな顔をした。
「あんたには他人と気持ちを分かち合おうっていう気はないの?」
「人間とは分かち合いたくない」
「あ、そう。まあ、いいけど。1階に下りよか」
 私はリップケースを持って部屋を出た。少し後から龍星も付いてきた。

 リビングテーブル傍らでは、明日の仕事の準備のため、ビジネスバッグの資料やファイルを整理している仁達がいた。
「星太郎の魔力見つかったよ」
「え?どこに?」
「リップケース。ほら、仁達が婚約記念に買ってくれたやつ」
「ああ、あの中に!?」
彼は仰天していた。私はその声よりもリップケースを覚えていたことに内心驚いていた。
「紅深蝶の爆破の影響で今は所有者フリーになったけど、ケースの持ち主がうちやから魔法使えるらしい。で、新たに所有者認証してもらうには手続きが要るんやって。
星太郎は魔界にワープで帰るためワーネル…移動パネルを描くって言ってた。それで紙もほしいってことやから持ちに来たん」
「ワープってハイテクやね。近未来やね」
「作り方とか説明されたけど、いまいちピンとこんだわ。まあ、うちには縁ないやろからええんやけど…」
 私はテレビ台横のプリンタワゴンからコピー用紙が入った紙袋を取り出し龍星に渡した。
 チラリと台の上の時計に目をやると午後10時半を過ぎたところだった。
「もうこんな時間か。ちょっと仕事してから寝よかな。仁達はお風呂入って寝る?」
「うん、そうするよ」
「星太郎は…」
 視線を龍星に向けると決まりが悪そうに
「迷惑だろうから外で作業する」
 背を向けて部屋から出ようとした。
「ちょっと待って!」
 引きとどめたのは仁達だった。
「家に泊まっていきなよ。夜遅くに危ないよ」
 魔物だからといって差別しないこの優しさは一体どこから来るのだろう。
「そうしたほうがいいよね?」
 彼は私に同意を求めた。
「え…あ、そうやな。その角柿の木っぽいから、家の前の柿の木の横に穴でも掘って並んだら違和感なさそやと思ったけど」
「生き埋めなんて可哀想やよ!」
 人間相手なら冗談でも言わないが相手は魔物、しかも小生意気な奴だ。
「嘘や嘘。その姿で野宿して風邪でもひいたら困るし、もし近所の人に見つかって家に関係する子と知られたら説明がややこしくなる。反省するまで家に入れません!てなスパルタ教育ママやと思われてしまう」
「風邪はひかない…でも、留まらせてくれるならありがたい」
 彼は口ごもりながらも返事をした。
「まったくの赤の他人じゃないし、困ったときはお互い様ってことで」
「琴音ちゃんは心が広いね」
「仁達ほどじゃないと思うよ」
 褒めてくれる仁達に戸惑いつつも、私は右手に持っていたリップケースを差し出した。
「じゃあ星太郎がこのケース見張っといてよ。また何か起きたらあかんし」
「それはないと思うが側に置いておく」
「部屋は和室使って。ここ出た前の部屋」
 龍星は頷いてケースを受け取った。
「僕、先に入ってくるね」
 カバンのチャックを閉めた仁達は立ち上がった。
 いつもはリビングでパンツ一丁姿になるのに、さすがに今日はお客様がいるためか服を脱がずに洗面所まで直行した。
 それにしても、新築後初めての宿泊客が魔物だとはへんてこな気分だった。
 破壊衝動に駆られるような気性が荒い奴ではないから大丈夫だろうと思い、待てよと止まった。
 見た目は子供でも中身は年の盛りの男性。仁達は快く何の疑いもなく宿泊許可を出していたけれども抵抗はなかったのか。自身や私の身を案じてもっと警戒心を抱くかと思っていたのに。
 それを言えば私も今は世話の焼ける子供くらいにしか思わず、奇襲されるとか金品持ち出して逃亡するとか悪事を働くような悪者には映っていなかった。
 龍星にとっても今の状況で私達を敵に回すような行動にメリットはないだろう。

 私は廊下を出て和室に行くと、開いた戸の前で龍星に呼びかけた。
「お風呂は?」
 振り向いた彼は首を横に振った。
「ハミガキは?」
 また同様に首を振ると
「適当にする」
 面倒くさそうに答えた。
「じゃあ、寝るときは…」
「床の上でも寝られる」
「布団は?」
「要らない。だいたい布団は何のために掛けるんだ?」
 おそらく人生で初めて布団の使用意義を真顔で問われた私は自分の感覚で回答した。
「寒いやん。熱帯夜で寝苦しい日ならまだしも、冷えたら風邪ひくよ」
「魔物は風邪とか病気になったりしない」
「そうやったとしても、見てるほうが寒々しくなるからとりあえず出しとくよ。敷布団も。必要なら使って」
 私は事務的口調で言い、押入れから布団一式を出し始めた。ここまでくると世話焼きのおばちゃんではないか。
 子供になってしまったから特に思うものがあったのかはわからないが、何故か放っておけないタイプだった。同情というよりも、人間の常識では考え及ばぬことを引き起こす危険性をはらんでいる問題児と不安に感じたためかもしれない。
 彼はローテーブルの前に足を崩して座った。
「上着脱がんの?もしかして寒い?」
「寒いことはない…」
「ちょっと変わった服やんな」
「フレリの制服(ユニフォーム)だ」
「へえ~前と袖のとこ黄色の縁どり(パイピング)がアクセントになってて洒落てるな。そのピンバッジもかっこいいし」
 首元にある丸に4枚の葉っぱをくっつけた植物のようなデザインの留め具を指さした。
 突然始まった私のファッションチェックにも彼は丁寧に説明してくれた。
「これはフレリの記章だ。色は朱茜(あかね)は赤、呉須(ごす)は青、柚葉(ゆずは)は緑、日和(ひわ)は黄と国によって異なる。配色を変えずフード付きであれば他は自由にデザインを変えることもできる」
「へえ~好きな服装にできるん?」
「基本形着用のフレリが多いが、幹部は全員違うな」
「星太郎も自分でデザインしたん?」
「いや、面倒だからいいと断ったのに、紫蘇に「勝負服だから妥協するな」と何故か叱られて、勝手に3パターンくらい提示されたからその中から仕方なく選んだ」
「熱の入りようが半端ないな…」
 どちらかといえば、イマイチな服よりもお気に入り服を着用する方がやる気も向上し、仕事効率もアップするかもしれないが、ファッションに無頓着そうな彼には意味がなさそうだった。
「…もういいか?」
 タパレットを取り出した彼は作業に取り掛かろうとした。
「ごめんごめん。じゃあお風呂入ってくる」
 邪魔をしては悪いと思い、私は部屋から出ると引戸をぴたりと閉めた。

 風呂から上がってパソコン画面に向かうこと30分。思うように仕事が捗らず苛々しかけていた。
 引越し前までは、収納用品を製造販売する「ハコツクール株式会社」 の通販部門で商品撮影やサイトの更新などで週3日勤務していたが、現在は在宅業務ということで、サイト更新のみ行っている。
 毎日作業があるわけではなく、修正や変更依頼の連絡が来ればその都度作業を行うスタイルにしてもらっていた。勤めに出ていた頃に比べると月収は下がったものの、それでも月いくらかでも収入を得られるのはありがたく、好きな仕事をしながら役立つことができるというのは嬉しかった。
 ただ、順調に進まない時も多々ある。
 例えば、画面上の文字の大きさや行間を変える単純な作業があったとする。特定のファイルに記述を追加すれば済むだけなのに、複数のファイルに同じような記述が指定されているため、全てに目を通し調整をしないといけない時は、一人で唸って画面を食い入るように見つめていた。
 誰かに聞くにしても、大元を制作した会社は倒産、職場にも専門知識を持った人がいないため、自力で解決策を調べ何とか上手く処理させていたものの、使い手のことを考えたファイル構成がいかに重要かを痛感したのだった。
 今も、この複数ファイル関連がらみで悪戦苦闘していた。
 髪を何度もくしゃくしゃと触っていたせいで、既に両サイドの髪だけ「落ち武者化」していた。
「落ち武者化」というのは、髪がボサボサでかつ、全体的に生気が感じられない状態を指す造語である。
 ふうと一息つくと龍星のことが気にかかった。
 さっきから物音一つしないので、もう眠ってしまったのかもしれない。
(ちょっと覗いてみるか)
 椅子から立ち上がってはたと足を止めた。
(すっぴん晒したくないなあ…)
 もし彼が起きていてぱっと顔を見られたりしたら、あの美醜にこだわる奴のこと、ノーメイク顔に関してどれだけの罵詈雑言を浴びせられるかわからない。
 その時ふとあるものが思い浮かんだ。鼻眼鏡だ。
 黒縁メガネにつけ鼻、そこから伸びたハの字髭付き。
 仁達の新人時代、歓迎会の一発芸で一度だけ使用した物がずっと保管されていた。
 宴会芸なんてもう二度とすることもないだろうと処分しようか迷っていたが、そのときが来るかもしれないと待ち続け約13年。ようやく活躍する時がきた。
 1回試しにかけて仁達に見せたら笑いの沸点の低い彼のこと、腹を抱えるほどの大爆笑だった。
 龍星が大笑いする可能性は極めて低そうだが、すっぴんを誤魔化す役目は十分に果たしてくれるはずだ。
 私は2階の箏練習部屋へ行き、クローゼットを開けて棚板の上の小さな箱を取り出した。
 他の物に紛れて鼻眼鏡も入っていた。早速かけてみると、鼻の周りがもぞもぞしたがかけ心地は悪くなかった。
 伸びかけの前髪が目に掛かって鬱陶しかったので横に流し、左右後ろの髪は手櫛でさっととき直した。
 その姿のまま階段を下りて和室の引き戸を引いた。部屋の中は真っ暗。廊下の明かりが差しみ畳を照らすと、うつ伏せになって倒れこんでいる龍星の姿があった。
(えっ?これは大丈夫なんか?)
 大声を出しそうになったのをこらえそっと近づきしゃがみこんだ。傍らには上着が丁寧に畳まれていた。
 彼はくしゅっとした素材の白っぽいインナーを着ていた。首と裾まわりにはグレーとベージュがまざった配色でシンプルなようでお洒落な重ね着だった。
 起こす前に、好奇心から人差し指でそっと角をつついた。
 パチっと静電気のようなものが走るのと同時に彼がパチリと目を開けた。
「うわあっ!!」
「うわぁっ!え?何?」
「お前か…一体何の化け物が襲撃してきたかと思った」
「化け物ちゃうよ。これは落ち武者鼻眼鏡スタイルやで。ついこないだまでは髪の長い幽霊やったけど、落ち武者に格上げしたんや」
 鼻高々にメガネをくいっと上げてみたが
「言っていることが全然理解できない」
 彼は怪訝な顔をして取り合ってくれなかった。
「魔界にだって不思議な生き物いっぱいいるんやろ」
「こんな不気味な生物そうそういない」
「不気味って紅深蝶と同じなんかい」
「…似たようなものかもな」
 異星人と似ていると言われてショックを受けそうになったが、魔物と人間とは感覚が違うのだと思い直すことにした。
「あ、で、倒れてたんちゃうん?」
「眠っていただけだ」
「こんな真っ暗なとこで」
「魔物は暗闇でも十分見える」
 彼は机に置いていたタパレットの画面をタッチした。ほわりと明かりが点いた。
「もー紛らわしいな。心配して損したわ」
「勝手に怒るなよ…」
「そんな締まりのない生活してたら結婚どころか彼女できやんよ」
「結婚しなくても生きていける」
「それを言ったらおしまいやで。だいたいあんた何歳なん?」
「47」
「おっさん…」
「人間とは寿命が違う。同じにするな」
「へん!でもお父さんお見合いさせる気マンマンやで、ええん?」
「断ればいい」
「せっかくの親心を台無しにする~親不孝者!」
 壁際にあった獏のクッションを投げた。彼はさっとかわした。
「龍月なんて相手の人が1人前になったらゴールインやで…ていうても、あと最低10年は修行が必要らしいけど」
「天上界でリリフの世話係か。そんな骨が折れる仕事…想像しただけで吐きそうだ」
「戻したら叩く(はたく)よ。まだ新しいんやから」
 顔色が悪くなった龍星に私はリバース禁止を命じた。
 龍月の婚約者である日向だが、元は龍月の父の後輩だった。
しかし天上界の薬草「リリフ」育成中にいざこざがあり、憤慨した日向は突然神の元を離れてしまった。
 その後、彼は星空で龍月と出会い、彼女が独立して「使い」として生きられる方法を探していたが、彼女の父の存在を知ると同時に復讐を企むようになった。
 夢逢石の継続使用により精神を蝕まれた日向を、私がこてぃすとの力で救い、彼と龍月のお互いを思う気持ちは変わらないということを再確認し万事解決!
 とはいかず、「半人前のお前に娘をやるわけにはいかん!」という父の考えにより、日向は再びリリフ世話係として天上界で修行を続けることになった。
 龍星とは事情が異なるとしても、結婚に関して兄も妹も順風満帆に事が運ばないのは、この家族は何かに憑かれているのだろうか。どちらのお父さんも気苦労が絶えないだろう。
 吐き気は収まったのか彼は未だ気分が良くなさそうだった。
「結婚に興味ないの?」
「何故結婚する必要があるんだ?」
「必要って…付き合ってるとこの人と一緒にいたい!とか子供ほしい!って思うようになるからじゃないの?うちの場合は仁達がもともと結婚願望強かったから。このチャンス逃したら次はないなと思って」
 仁達との付き合い当初の思い出が蘇った。
「紫蘇もそんなこと言ってたな、家庭を持つとより責任感が重くなるが充実感もあるとか…」
「あの人結婚してたんや。あんたも落ち着いたらどうなん?」
「俺を好くような奴なんていない。お前には関係のないことだろう。いちいちつっかかってくるな」
「もっと優しい言い方があるやろ」
「お前が茶化すからだろう」
「茶化してないよ、心配してるんやん。龍月もそう思ってる。あの子は良い子やからな」
「そんなに仲が良かったのかお前達…」
「3回しか会ってないけど、うちがええ人なんやから龍月もええ子に決まってるやん」
「……そうか」
 もっとおどけた返事がくるかと期待していたのに、彼にキレのあるツッコミを求めた私が間違っていた。
「うちも寝るし、あんたも早く寝なよ」
「ああ」
 けだるそうに返事をした彼は再びテーブルに向かった。
 私はリビングに戻った。
 作業データを保存してから電源を落としてパソコンを閉じると、2階の寝室へと上がっていった。

落ち武者鼻眼鏡スタイル