ししゃも白昼夢(4)
問い詰める口実ができたことはできたが、さあいざとなるとどうやって相手に声をかけるか悩んだものだった。
あれだけ黒い気を発しているのだから、キレて手に負えなくなったら…と想像するだけでどんな仕打ちを受けるか恐ろしいったらありゃしない。
とりあえず、今は試験期間ということもあり、大人しく学生らしく本業の試験を片付けてから打つ手を考えようと紫音と相談してそうすることになった。

例のプチトマトの課題は不調だった。まだ肝心のプチトマトが手に入ってないのだから。いや、もう朝一にプチトマトが出てくることはなかろう。そんな気がした。こうなったら家庭菜園のプチトマトにかけるしかない。しかし果たしていつ熟れてくれるのか。
私は気長に待とうと腹をくくったところだった。携帯が震えた。
送信者は母だった。
「トマト赤くなったよ」
(えっ!それだけ?)
私は目を疑った。けれども、母のこの抑揚のないメールは一体何だ。
絵文字をつけたところで変わるわけでもないが、感動と喜びが画面いっぱいに伝わってこない。
実は感動しすぎて文字では表せないくらいという場合もありうる。可能性は限りなく低いが。
私は熟れれば話は早い、と今から家に帰ることにした。幸いにも午後から授業はなかった。
正門前の駐車場目指して私は早歩きで行った。一号館を通り過ぎる所で見慣れた横顔に出くわした。
「肥代呂くん。テストやったん?」
「ううん、補講。今から授業?」
肥代呂は姿勢を正して私に問う。
「昼からはないの。今からちょっと用事で」
私は空間越己を利用するとは言わずにぼかした。
「あの…」
「うん?」
「よかったら、今度の土曜日一緒に食事に行かない?」
「いいけど?どこに?」
「学校の近くに見つけたんだ。案内するよ。」
「うんわかった。じゃあ正門に六時半でいい?」
「うん、それで」
「じゃあ、また。バイバイ〜」
私はさっさと約束を取り交わした後忘れないように携帯にメモった。
駐車場まで来ると私はあたりをキョロキョロと見回した。
誰もいないことを確認して右に三歩、左に五歩、前に四歩行くとすっと扉を抜けて横断歩道に出た。

点滅している信号を急いで渡りいつものようにコンビニの前を通り過ぎた。昼時を過ぎていたためか、客は一人もおらず店員さんが暇そうに突っ立っていた。
「ただいま〜」
「お帰り」
三度目ともなると、超マッハ帰宅にも母も慣れて“早い“の言葉は出てこなくなった。私は洗面所で手を洗ってから、庭に出た。
そこには真っ赤に熟れたプチトマトがおいしそうに実っていた。 「わ〜全部赤いやん」
「最近天気いいから一気に赤なったわ。食べんの大変」
母は一番熟れたプチトマトを引きちぎって持っていたザルに入れた。
「観察するんやろ」
「うん、先に写真撮っとこ。デジカメどこやっけ?」
「居間の引き出しの一番上」
私は居間に行ってデジカメを持ってくると、プチトマト鉢がうまく入るように写真を一枚撮った。
「余分に撮っときなよ」
「でも使うかわからんし」
「一枚やったら消えた時困るやろ」
「消えることはあんまりないと思うけど」 と文句を言いながらも母の言いつけに従い、もう一枚撮っておいた。
「こっちのが写りいいかも」
「ほれみ」
“ほれみ”って今のは単なる偶然やろ、と突っ込みつつデジカメをケースにしまった。
「テストようけあるん?」
「ああ、うん、まあまあ。期間中には五つだけ」
プチトマトを摘み終わった母は台所にザルを置きに行った。私は床に上がり網戸を閉めた。
「授業もないんやったらその間暇やな」
「暇じゃないよ。勉強せなあかんやん」
「そうか」
「それに、ちょっとした問題もあるし…」
「問題?」
母はその言葉に食いついた。私は何気なく神様のことを話した。
「この前、しその葉神社に行った時、神社の神様に会ったんや」
「へえ」
母は特別驚きも否定もしなかった。
「んで、近頃神狩りっていって越己者が神様の力を盗ってしまうっていう事件が起きてて、その犯人がいろいろ検証の結果、うちの大学の同級生ってことがわかって、その人に話しを聞こうとしてるんよ」
「その何が問題なん?」
「その同級生、蛇羅家さんっていうんやけど、その子は学科でもトップで越己も抜群なんや。うちが近寄るとめっちゃ重苦しい感じになってあんまりよくない気を発してるんが伝わってきて…そんな人にどうやって狩りをやめさせたらいいんかと思ってさ」
「紫音ちゃんがいるやん」
「そらおるけどさ…」
母はてんで気にしていなかった。
私が紫音は越己を研究している勉強家だと口にしているせいか、彼女は何でもできる人と勘違いしているのだ。
「まあ、いきなりあんた犯人やろ!って言っても気まずいからな。何人かで言ってこそっと聞いてみればいいんちゃうの?」
「何人かで」
「そう、何人かで」
私たちは“何人か”を復唱した。
一人でするほど私も無謀者ではないが、団体で行くのもなんだか気が引けた。
やっぱりこっそり行くべきなのか…と私が未だに対策を考えているとオカンはテーブルの椅子に腰掛けた。
「あんた、彼氏できたん?」
「何、いきなり?おらんよ」
私は本心から驚いた。何の前触れもなしに話題を変えるのがオカンとの会話では日常茶飯事である。
突然何を聞き出すのかという驚きと、そして“できたか”という可能表現。普通なら「おるの?」になるはずなのに、それまでいなかったことを見抜いていたかのように、このできた表現は意味深長なるものととらえた。
そうであったとしても、残念ながら今のところはできていないのだが。
「ううん。いや〜こなきもそろそろカッコいい人連れてくる頃かなあと思って」
「そろそろ…って。そんな頃合見計らってたん?」
「だって、あんた二十歳にもなってそういう話の一つや二つないやん。まあ、そんなんオカンには言えやんのやと思うけど」 オカンの前半の意見はどんぴたりだった。恋はしたことあってもそれは憧れとかそういうレベルのもので、誰かを本気で好きになって告白しようと意気込んだことは全くなかったからだ。
「学校にはそんなオカンのいうカッコいい人はおらんよ」
私は自嘲交じりに断言した。
ちなみにオカンのいうカッコいい人というのは、頭がよくて金持ちで性格も悪くなく見た目も悪くない人のことである。単純なわりにかなり理想が高めである。
しかし、それはもちろん映画スターの影響を受けているからであって、どれ一つ欠けてもオカンは受け入れてくれるはずだろう。
「紫音ちゃんに紹介してもらいなよ」
ほらまた来た。頼みの紫音ちゃんが。
「あの、そういうのは自分で見つけます〜」
わざとらしく母に言ってのけると、オカンもそれ以上詮索しなかった。
「そう、じゃその時にまた紹介してよ」
「はいはい」
私はぐっと伸びをした。
(久々に神社に行ってこよかな)
「ちょっとしその葉まで行ってくる」
「そう、じゃあ神様によろしく」
母はそう告げると私は玄関に向かった。

神社に行く足取りも慣れたもので、きっかり二十分で着けるようになった。私はいつものように本殿にお参りに行った。
そこである変化を目にした。 なんと、賽銭布がなくなっていたのだ。
だからといって賽銭箱が復活したわけでもない。
無人でもお賽銭を投げられるように大きな格子戸に変わっていた。どうやらその間から中の布の中にお金を入れる仕組みらしい。
私は試しに五円を取り出し格子の間めがけて投げた。チャリーンと他の硬貨にあたるいい音がした。そして鳴らない鈴を鳴らした。
ガランゴロン
これは前のままらしい。非常に不快音だった。耳の奥がかゆかった。
お参りをすませた後、私は奥の方に人がいるのを発見した。水色の袴をはいたおじいさんだった。
(神主さんかな)
私はそっと近寄っていくと人物は気づいてゆっくり会釈した。
「こんにちは」
「こんにちは。いい天気ですなあ」
神主さんは竹箒を持った手を止めた。
「わしは土本頑兵衛いいます。皆ガンさん呼ばわります」
「ああ、えと、野木です。ガンさん、神様がおっしゃってた方ですね」
「神様?」
ガンさんは首を傾けた。
「ええと、ここの神様…春恋空助さん。この前偶然会って」
「おお、コイちゃんに?」
「はい」
コイちゃんというのは神様のことだろう。ガンさんの発音からすると魚の鯉のように聞こえて仕方ならない。
「コイちゃんに会えるなんてあんたさんもついてるねえ」
「そうなんですか?」
「そや。気向いたときしか下りてきてくれはらへんからね。今日はコイさんに会いに来たんかいな?」
「いや、たまたま…あ、ガンさんは神狩りのこと知ってますか?」
「狩り?なんやコイちゃん新しい趣味でも始めたんか?」
気安くガンさんと呼べるくらい人懐こく感じがよいガンさんに、私は事のあらましを話すのは何だか気が引けてた。
「いや、知らなかったらいいです」
私はそれ以上を詳しく語らなかった。どうやら神様はガンさんに神狩りのことは話してないようだった。ガンさんは特に詰問することもなく春夏殿を見やった。
「今日は供物が備えてあるからきっと来るやろ」
私は神主の長年の勘とみた。春夏殿の後ろにあるしだれ柳は行儀よく葉を垂らしていた。
「コイちゃんはな、いつもあの柳の木のとこに下りてくるんや。昼間やったらええけど、暗いときなんか柳と合わさって、まるで幽霊みたいでそら肝抜かれるんやわ」
「へえ…」
確かに幽霊の“正体見たり枯れ尾花”って文句がように、お化けの木に人影があったらぎゃーっと悲鳴沙汰になりそうな予感がする。現に紫音がなりかけていたし。
「わしは向こう側履いてきますわ」
「あ、止めてしまってすみません」
「ええよ、構へん」
ガンさんは垂れ眉毛を更に下げると、本殿を横切り社務所の裏に行ってしまった。

私は柳の木を一瞥してからくるりと御神木を見上げた。私の身長の何倍もある杉は枝を四方に伸ばしてこの神社一帯を包んでいるかのように壮大だった。
(神様おらんし帰ろかな…)
私がそう思い再び後ろに振り返ってみると、柳の木の下に神様がいた。
「あ!」
驚いた私はそっとそっと抜き足差し足で近づいていった。
神様の前へやって来てしゃがんだ。柳の葉っぱが彼の頭を撫でていた。彼は木を背に片膝立ててすやすやと眠っていた。
(さっきの間に来たんか…)
しかし寝息まで立てている様子は、あの何分間のうちに起こったものとは思えなかった。
私は神様をじっと見つめていた。
(キレイやなあ〜)
私は恍惚感に包まれた。白く清い肌に漆黒の長い髪が一段と眩かった。
ふと彼の手に視線を落とした。地面についた手の甲には、あの模様が刻まれていた。
私は素持のことを思い出した。あの時彼女の腕にこれと全く同じ模様が確かに浮かび上がっていた。
そっとその手に自分の手を伸ばそうとした。
しかしさっとかわすと私の目のまん前に出された。開いた手のひらはぎゅっと握られた。
私は手の向こうに視線をやった。神様は目を覚まして私を無言で見ていた。 「寝込みを襲おうなんて百年早い」
「…襲おうなんてしてない」
私はむっとなって言い返してやった。すると神様はふっと笑んだ。
その一瞬私はどきっとした。
「困ってることがあるな?」
「うん、例の越己のことで…」
私は全て見抜かれている気がして正直に話した。これまでのいきさつや、素持がもこもこ神社の神の力をとりまくっている事実も。
話し終えた後、神様はしばらく柳にもたれて黙って考え込んでいた。
ぱっと日差しが差した。私は眩しくて手を額にかざした。前に座っていた神様は日の光に照らされて、まるで透き通ったかのようにきらめいていた。私がそれに見惚れる間もなく神様は切り出した。
「やっぱり私が京に行くしかないのか…」
「え?」
行くって?
「ここから動けないんじゃないん?」
「動くのは自由だ。どこにだって行ける。ただ、京に行けば兄姉達に怒られる。絶対に来てはならないと。しかし、いずれここもかぎつけられるだろう。そうなれば京もここも同じ。せめて人間たちに被害が及ばないようにしたい」
神様は真っ直ぐ天を仰いだ。
私の心は揺れていた。
このまま素持を説得せずに放っておけば神社自体の機能だってなくなる恐れもある。
人一人の我侭で神様やそれに神様を信じる人たちを不安に陥れるなんてあまりにも理不尽だ。
こういうとき切に思う。越己がなければどんなに平和だったかと。
私はぎゅっと唇をかみ締めた。神様は私の気持ちの変化に感づいたのか視線を私に合わせた。
「なんで自分のためだけに越己を使いたがるのかうちにはよくわからん。大きな力があるなら、もっと別の、世間のために使えばいいのに…って昔から思う。でも、実際うちがそやったら、自分勝手にしてるかもしれへんし、世界を変えるのは越己じゃないんよな」
神様は黙って耳を傾けていた。
「その人の心を変えやんと越己だけなくしても変わらん。やからうちは蛇羅家さんと向き合ってみようと思う」
不思議な気分だった。困難な道を選んだにも関わらず心は晴れやかだった。
「あなたには己内がしっかり身についているようだな」
神様は静かに口を開いた。
「神狩り犯の気配を重いと言ったのも、己内の働きがあなた自身に知らせてくれたのだろう」
己内…久しぶりにその言葉を聞いた気がする。私は半分頷きながら半分疑問だった。
「私は神狩り犯に気づかれぬよう京に行こうと思う」
「でも…」
「行ってみてみないとわからない。わからないままでどうにかしようというのは無理だ。わかった上でどうすべきか手段を考える。なるべく誰も苦痛を伴わなくてすむように」
神様はにこりと笑んだ。私はまだ心配だった。
「たとえこの身が滅びようとも茲賀津は守る」
「それじゃあ困る」
私は彼の言葉を遮った。
「神様は茲賀津にいてもらわなあかん。だって、うちは…ううん、ここにおらんようなったら誰が神様やってくれるんさ」
私はめちゃくちゃにしゃべっていた。それでも神様と目は逸らさなかった。
だってこの人は茲賀津の人たちにとっても私にとっても大事な存在、唯一無二なのだ。
「そんなに怒らなくても…」
神様は躊躇していた。
「怒ってない。心配してるだけ」
「ありがとう」
私はがばと顔を上げた。彼がお礼を述べてくれた。それもとても温かい言葉だった。
「何があっても死なない」
彼は私の肩に手を置いた。
「うん」
私は力強く頷いた。


「何そんな深刻な顔して。便秘にでもなったん?」
「違う。便秘になったら黙ってないし」
家に帰ってくるなりオカンはデリカシーのないことを平然と言った。それにきちんと答える私も私でオカンのペースにのってしまうことが悲しい。
「前に言ってたやん?神狩りで神様が困ってるの」
「うん。解決したん?」
「まだ」
私は顔をしかめた。
「でも、誰の仕業かってのはわかったから後は問いただすだけ…ってのがどうも。あんなすごい越己者に恨まれたらどうしようとか。紫音もおるけど」
ソファにごろごろしながら私はオカンを見た。
「そんなややこしいこと大丈夫なん?」
「多分」
「多分って…起こってからでは取り返しつかへんのやで。だいたいそういうこと特別に力あって立ち向かえる人でもないあんたがやることなん?」
「う〜ん…」
「ちょっとぐらい協力するってのならまだいいけど、相手は越己使うんやろ。丸腰なんて危ない。それに神様も人間にやられてばかりじゃないやろ?自分でなんとかしなさるさ」
「でも…」
私はその先が言えなかった。神様に執着していると思われるのが嫌だったからだ。
けれども、母の言葉はそれを引き出すかのようにきわめつけのものだった。
「ずっと付き合ってる友達ならわかるけど、得体の知れやん人ってまあ神様やけど…になんで一生懸命なんさ?」
「…だって神様好きやもん」
あ、言っちゃったなと私はあまり驚きはしなかった。だって、神様を嫌う人なんか少なくとも茲賀津にはいないと思うから。
オカンはどう思ったのかしばらく黙っていた。
確かにオカンの言うことは一理ある。蛇羅家素持に素手同然で向かってくなんてそれこそ自滅行為である。おこがましい。
それも賽銭箱が使えないような荒んだ神社のため神様のために働こうとしているなんて他にもっとすべきことがあるのではないかとプチトマトの課題ではないけれど、疑問の渦が私の中でも巻き起こっていた。
「いいや、うちはあんまり関わらんようにしとく。紫音にも言っとくわ」
「ならいいけど」
オカンは安心したのか口を開いた。
「今日夕方から補講あるからそろそろ行くわ」
「うん、気つけてな」
私はソファから下りて戻る支度を始めた。


バタバタバタ
階段を上がるけたたましい音が廊下一杯に広がる。
塗屁先生の補講を受ける学生たちが急いで教室に向かって走る姿はいささか奇妙だった。
私はチャイムが鳴ったというのに悠長に歩いていた。先生はいつも十分遅れてくるからそれほど急ぐ必要はない。
しかし、周りが焦っていると自分も焦らねばならないような衝動にかられてついついペースを上げてしまっていた。
教室にはそこそこ人が集まっていた。自由参加だから一桁ぐらいの人数かと思ったらざっと見たところ二十人はいた。
講義室は言語の授業で使う四十人用の狭い教室だった。きっと先生も受ける人数を見越してこの教室にしたのだろう。
私は前から二列目の端っこに座った。前の席の通路側に一人、隣の隣に一人座っていた。
(何するんかな…)
と講義内容を気にしつつも、私はさきほどのオカンとのやりとりにまだすかっとしないところがあった。
(後で紫音に言わなあかんなあ…ふう)
私はカバンから筆箱を取り出した。
チャイムが鳴ってちょうど十分後、塗屁先生が教室に入ってきた。
先生は教室がほぼ埋まっているのにハッとした。こんなに来るとは思ってもいなかったのだろう。けれども、その後満足げな表情をすると教壇に上がった。
「え〜では授業をはじめます〜」
いつもの間延びするしゃべり方は変わらなかった。
(寝やんようにせな)
私はそれだけしっかり心得た。
塗屁先生はタオルで額と首の汗を拭いていた。急いでやってきたのかなかなか汗が引いていかない。めがねを外して何度も顔の汗をぬぐった。
そのたびに頬がぐにょぐにょと曲がる。
教室内にかすかな笑い声が漏れた。先生はそれに気づいてか気づかなかったのかはともかく
「今日も暑いですねえ〜」
と一言言うと早速授業を始めた。
「今日は前回お話したように、己内について詳しくお話しようと思います〜」

(己内…)
私は神様の言葉を思い出した。
貴方は己内がしっかり身についている…あれはどういうことなのだろう?私は塗屁先生の話にじっと耳を傾けた。
「己内は人間本来備わっている基礎能力だということはお話しましたね〜そして己内を磨くために努力してきた歴史も説明しました。しかし、越己の利用によって己内は隅に追いやられてしまい、越己の悪用によって四条河原に出るような凶悪な越己者の出現もあったわけです。
でも、凶悪な越己者の心配はいりません。あれは誇張表現です。学生生活センターが注意を促すために大袈裟に“凶悪な”をつけただけで、四条に行って殺されるようなことはありませんので、それを最初に言っておきます〜」
(掲示板の威力はすごいな、うちはまんまとひっかかったよ)
私は心の中でカラ笑いしながらも、誇張でもしなければ学生に気づいてもらえなかっただろう学生生活センターの人たちに同情した。
「で、本題ですが、越己の利用は非常に効率的でした。創作学科には越己研究専攻もありますが、ここでは日々将来の生活に役立つ安全で健康な越己研究に力を入れてます。
が、世間にはよい越己ばかりではありません。凶悪までとはいかずとも、己の利益のために他人を陥れて利用する越己者もいるんです。これは許しがたい行為です。己を越えた以上に罪深きことです」
(またはじまった)
と大半の学生は思ったにちがいない。

塗屁先生は己内贔屓だ。そして反(アンチ)越己でもある。
だから、ヒートアップすると越己をめちゃくちゃにけなす。
もちろん、越己でも被害が及ばなければよくて悪用に関してはもうほら、頭から湯気が立つんじゃないかというくらい腹を立てている。
学生の一歩引いた目線に気づいたのか、先生はコホンと咳払いをして気を取り直した。
「とにかく、世間にはそういう悪い越己者もいるということです。それで、今日はそんな越己者から身を守る方法を伝授したいと思います〜」
先生は教卓の横に置いてあった紙袋を持ち上げて中から白い束を取り出した。
「今から一人三枚この札を配ります〜余ったら前まで持ってきてください〜」
前から札が回ってきた。私は九枚とると後ろに回し隣に六枚回した。
何の変哲もない白い少し厚めの紙だった。大きさは千円札くらい、表面はざらざらしていた。
全員に札が行き渡り余った分を一番後ろの席の人が先生のところまで持ってきて返すと先生は再び教壇に立った。
「これは一見ただの紙にしか見えませんが、実は己内によく反応する札なんです〜」
己内に反応する?
「名づけて塗屁札です」
(それ名づけた意味あるんか?)
他の人たちも不思議そうに札を眺めていた。先生は自分も札を一枚取り出した。
「じゃあ、まず私がお手本を見せます。よ〜く見ててくださいね」
私は先生の札に注目した。
先生は筆ペンを取り出してさらさらと札に何か書き付けた。
そしてそれを私たちに見えるよう向けた。札には“ひかり”と書かれていた。すると文字がぐねっとうねったかと思うとそこがぴかっと光った。
ザワザワ
学生達は皆わあ〜とかへえ〜など感嘆の声を洩らしていた。
「あ、蛍光灯切れてる」
後ろで誰かが言った。振り返ると確かに蛍光灯が消えかけていた。
「今のが“おすそわけ己内”です。あ、正式にはもっとむつかしい名前なんだけど、こっちのがわかりやすいでしょう」
「越己みたい」
前の女の子がボソリと呟いた。
「そうですねえ〜実はこの己内は越己を利用してるんです。越己は他から力を借りて己のものとする。それを己内でやってみたわけです」
「でもぉ、それじゃあ己内って言わないんじゃあないですかぁ?」
このダミ声と語尾延ばしはまさか、と思い列一番前の通路側に目をやると例のギャルが真っ直ぐに手を上げて先生に質問していた。
今日は頭に真っ赤なハイビスカスを付けていた。
「一見したところ越己に見えますねえ。でも、ほらこれを見てください〜」
と先生が再び札を持ち上げた。すると今度はみるみるうちに文字が広がり“ひかり”と元に戻った。
「あ、点いた」
という声通り蛍光灯も元の白昼色になっていた。
「そうです、越己は取り込んだら自ら願わない限り元に返すことはできませんが、己内は一定の時間を過ぎると有無いわさず元の場所へ戻ります。己内は力を借りるだけなのです」
先生の小さな目はキラキラと輝いていた。
「己内というのは生まれたときからその最大量は決まっています。一時的に減り一時的に増えることはあっても全体から見ればその量は同じです。だから、一度使っても一晩寝ればまた元通りになっています」
「環境にも人にも優しいんですねえ」
ギャルはふむふむと頷いた。
「今は単に光でしましたが、実際繁華街で越己者に掏られた時、とっさに“大きな音”と書けばクラクションの音かなんかが出てきて犯人(ホシ)はびっくりすることでしょう」
(それって車が困るやん)
私は使えるのか使えないのか微妙な己内にう〜んとうなっていた。
「わあ〜いいなぁ。わたしもやってみたい。この札もらえるんですかぁ?」
(ええ?まじ?この子えらい単純やな…)
ギャルの隣の席の子の視線は明らかに考えられないという目つきだった。
しかし先生も学生にうけて喜んでいたのか笑顔だった。
「はい、足りなかったらあげますよ〜でも、もう一つこの己内と組み合わせて使うと効果的な己内があるのでそれをお教えしましょう〜」
(またロクでもないのんじゃないやろな…)
私はそろそろ疲れてきた。
周囲の雰囲気もギャルを除く二十数名もぎこちなかった。
先生はまたひかり札を出した。今度ははさみを取り出して一文字ずつ文字の半分くらいまで切り込みを入れていった。
暖簾になった札を先生は“ひ・か・り”と一文字ずつ指で軽く叩いた。すると同じように文字がゆがんで消えた。
パパバン
弾ける音がした。
「わっ!」
と教室にいた学生全員が声を上げた。
ピカッ
最後に札が光って文字が元通り浮かび上がった。
一同しーんとしているところに先生は話した。
「今のはすごかったですねえ。これは分配己内というものです。この札に切り込みを入れることによって一つの光を複数にわけたのです。一回で相手が退散しなかった場合、この分配己内は非常に効果があります。個人の己内にもよりますが続けて威嚇できます」
「さっきぃ、蛍光灯が消えなかったのはなんでですかぁ〜?」
ギャルがまた手を上げた。手を上げて当てられる前に発言していては挙手する意味がないように思えた。しかし先生はそんなことは気にも留めない。
「実はあの一番後ろの蛍光灯は越己でついてたものなんですね。多分、急に切れてたまたまそこにいた越己を使える先生が点けたけども、取り替えるのを忘れていたのでしょう。」
「越己だと効き目が違うんですかぁ?」
「己内と越己は相反する力です。おすそわけ己内や分配己内は越己そのものを吸収することはできないのです」
「だから、越己じゃない蛍光灯は消えたんですねえ、わかりましたぁ〜」
ギャルは納得した。私も心の中で頷いた。
なにやら難しい原理に私もギャルと同じ思考レベルだったのかもしれない。
「みなさんにもやってもらおうかと思ったのですが、こんなに多くてはちょっとしづらいですねえ。まあ、これはまたそれぞれで試してみてください。決していたずらでしないように〜」
(んなんしたら恥ずかしいったらありゃせん)
その後は先生のいつもの己内がいかにすばらしいかという話で占められ、そのほとんど私は寝ぼけて聞いていなかった。
授業終わりの十分前にやっと正気に戻った私は、そろそろ授業が終わる気配を感じた。
「というわけで、前期はこれで終わりです〜レポートはレポートボックスに提出してください〜」
塗屁先生の声が近くに聞こえる。
(やっと終わるや〜)
気を休めようとすると先生は最後に言った。
「いいですか、皆さん。己内は決して越己に劣るものではありません」
(まだ続くんかよ〜)
私は長話に頭を抱えそうだった。
「己内は己の内、即ち自分の心なのです。その心一つ次第で越己にはできないほどの力をもたらすのです。休みの間にじっくり自分の心と向き合って己内を磨くのもよいかと思います」
(心次第か…)
私はそっと自分の胸に手を当ててみた。心臓は正常に脈打っていた。
「では、皆さんまた後期に〜!札がほしい人は置いておくので取っていってくださ〜い」
先生はいつもの口調に戻ると教壇から下りた。
皆は片付けて席を立ち始めた。
帰り際、私は札が入っている紙袋を見つめた。
「いっぱいもらってもいいですかぁ〜?」
「どうぞ〜」
ギャルはその言葉通り一気に十枚くらいつかんで無造作にピンクのカバンにつっこんだ。
「ありがとうございましたぁ〜」
軽やかに教室を出て行った。その後で私も何枚か札をもらっていった。
(役に立つかもしれへんしな…)
そうして廊下に出た。むわっとした空気が鬱陶しかった。