ぽんぽこぽーんのおまじない(3)
車に乗せられると優奈に即目隠しの布をされた。
誘拐っぽいなあ…って本当に攫われてるし!私は下手に動くまいとじっと座っていた。
乗車中は冴と優奈の間も会話はなく、車の走るエンジンの規則正しい音だけが聞こえていた。
十五分ほどしたところで車が止まった。着いた場所は和風の一軒家だった。 ドアが開き外へ出るよう促された。目隠しを外されると視界に竹林と和風の立派なお屋敷が映った。
「こっちよ」
優奈に誘導され玄関へと向かった。
艶やかな石畳、そのまわりの砂利は綺麗に整備され、松の木やその他名の知らぬ木々の手入れも行き届いているようで、簡素ながらも和の趣を感じられた。
優奈が玄関のドアを引くとこれまた金ピカの屏風が飾ってあった。描かれているのはアヤメだろうか。芸術に疎い私にはとりあえず、豪華ですごいとしかいうコメントしか出てこなかった。
草履を脱いで上がると、優奈はすぐ左手にある階段を上って行った。私も慌てて後について行くと、すぐ手前にある部屋に案内された。
六畳半ほどの洋室で、ベッド、テーブル、椅子、本棚、鏡などの調度が整然と配置されていた。正面の壁には小窓があり、窓からは竹林が見えた。全体の配色も桜色と若草色を基調とした、かわいくも落ち着いた印象に仕上がっていた。
部屋を眺めていると後ろにいた優奈が口を開いた。
「今は空き部屋だから使っていいし」
「ありがとうございます…」
「まあ、アナタは無謀なことしないと思うけど、脱走とか考えないことね」
「そんな…ここがどこかもわからんのに脱走なんて…」
「わからない?」
「あっ、方向音痴やから無暗に歩いても迷うだけかなって…!」
「そう…」
笑って誤魔化す私を優奈は疑わしげに見つめていたがそれ以上は深く追及しなかった。 危ない危ない。ぽんこなら一度や二度訪れていてもおかしくなかったのだ。とはいえ、まわりに民家があったから辺境の地ではないことは確かだが、何か移動手段がないと街まではスムーズに行けなさそうだった。
「また用があったら呼ぶわ」
優奈はそれだけ言い残すと去って行った。
ふう…私は扉をパタンと閉めた。
小窓からは竹の葉が擦れ合うさやさやという音とともに、爽やかな秋の風が心地よかった。
ベッドに座り心を落ち着けていると、チリーン、チリーン…と廊下からかすかに鈴のような音が聞こえてきた。
扉をそっと開けてみると…
「わあっ!」
「ワン!」
いきなり犬が飛びついて来た。振り払ってみると、ちょこんとお座りして私をずっと見つめていた。
チョコレート色のサラサラの毛並みの小型犬。たしか、ミニチュアダックスフンドっていう種類のはず。彼はクゥーンと何かを訴えるような瞳でじっとしていた。
私は廊下を見回し、誰も探していないことを確認してから犬を部屋の中へ入れた。犬は私にすり寄り、キューンと甘えるように鳴いていた。頻りに床にコロンと転がり、お腹を見せて「かまって〜」のポーズをとった。
(ずいぶん人慣れしてる犬なんやねえ)
私はすっかり気分がなごみ、お腹や首あたりを撫でてやった。抱っこして手足をパタパタ振ったりさせて遊んでいると、急にパッとすり抜けて扉から出て行ってしまった。
「あ、待って!」
部屋を出ようとした瞬間、ドンと誰かにぶつかった。
「すみません!…あ」
顔を上げるとそこには冴が立っていた。犬は彼の足元で嬉しそうに尻尾を振っていた。
「ストロベリー!」
下から優奈が犬を呼ぶ声がした。
ストロベリーと呼ばれた犬は、「ワン!」と返事をすると勢いよく階段を駆け下りて行った。
「全く、誰にでも腹を見せるから番犬にもなりゃしない」
「は、はあ…」
私が気の抜けた返事をすると彼はこちらに振り返った。
「何か言いたげだな」
「えっ、あ、その…」
冴は部屋の中へ入ると窓際へ進んだ。
普通いきなり見知らぬ場所へ連れてこられて放置されていて、何も疑問に思わない方が不思議ではないのか?それとも、ぽんこは頻繁にこの家に出入りしていたのだろうか。追っている者、追われる者の関係上それは考えにくいが、当人同士には何か暗黙の了解があるとか?たとえそうであったとしてもそれでは非常に困る。 向こうは私がここのぽんこだとは気付いていない。ここは自然にナチュラルな流れを演出しなければ。
私はいかにもそれっぽい話題を切り出した。
「えらく手際がよかったなあと」
「お前が以前指摘していたな。読みが甘いと。あらゆる事態を想定した上で仕掛けを作っておいたが、護衛もつけずにやってくるとはな」
彼はくつくつと笑った。
和央と別れていなかったら避けられたことかも…本物のぽんこなら細心の注意を払って外出していただろうが、生憎、一人歩きが慣れている偽ぽんこはそこまで賢くはなかった。
「わ、わたしが貴方の言う通りに予見力を使うと思ってるん?」
「自分で言ったことを破るつもりか?」
「言ったこと?」
私はキョトンとした。その反応がしらばっくれたと思われたのか、彼はやれやれと首を横に振った。
「もしも俺に捕まるようなことがあれば、能力なんてくれてやる!とな」
「あらまあ…」
私はたまげてついつい声を漏らしてしまった。
ぽんこは勢いで言ったのか、はたまた覚悟を決めていたのか。いくら似ているとこがあるとはいえ、考えていることまでは予想がつかなかった。
「予見力だけではないけどな…」
「他に何が?」
「潜在能力、とでもいうべきか」
「そんな秘めた力なんてない」
ここだけは断言できた。
「少々買い被りすぎたか。今のお前は籠の中の鳥も同然。つまらぬことなど考えないことだな」
「脱走なんて…ただ、これからどうなるのかなと思っただけで…」
その言葉に彼ははっとしたようだった。何かヘンなこと言ったかなとドギマギした。
「今日はいつになく大人しいな」
彼は眉をしかめた。
まずい!怪しまれてる!私はぽんこらしい振舞いを想像し、キッと彼を見据えた。
「余計なお世話や!わたしはどこにいたって元気に生きていけるもん!初めはちょっとくらいしょげてた方が姫様っぽいやろ」
ふふんと鼻を鳴らすというアドリブ付きでめいっぱい元気に明るく言った。すると彼はすっかり信じ込んだのか、フッと笑った。
「悪いようにはしない」
彼の右手がそっと私の頬に触れた。ヒンヤリとした感触と緊張感で私は立ち竦んだままだった。
不意に彼はそのままぐっと顔を近づけた。
「え!?」
「俺はお前が…」
鼻の先が触れ合うくらいまでに迫っていた。愁いを帯びた瞳からは目が逸らせなかった。
私が硬直していたせいか、彼はぱっと手を放した。そして踵を返すと、
「疲れきっていては力もでないだろう。ゆっくり休むといい」
と言って部屋を後にした。
私はへなへなへな〜と力が抜け、その場に座り込んだ。
生まれてこのかた、恋人以外にあんなに至近距離で見つめられたのなんて初めてで、ドキドキ感がまだおさまらなかった。
それにしても、「俺はお前が…」何て言いたかったのだろうか。
「お前が…憎い!」強い憎悪は感じられなかった気がする。
「お前が…好きだ!」今言われてももうすぐ結婚するし。そもそも、ぽんこと冴は対立し合っているのだから、好きという感情は出てこないはずだ。
真意は掴めぬまま、けれども冷血漢とばかり思っていたが、意外と気遣ってくれる所もあるのだとかすかに優しさを感じていた。
(あかんあかん!わたしにはリンちゃんがいるもん!それに和央も…あ、でもこれって二股になるんか!?いや、でも、和央はぽんこの彼氏やし、今はわたしはぽんこってことになってるし…)
私は頭をかかえてふるふると振った。
(今頃リンちゃん何してるんやろ。いつも通り仕事してるよねえ)
仕事といえば、明日も会社に行ける気がしなかった。自宅でもできない仕事でもないが、一人で籠って何かするのは息苦しくなってくる。私は椅子に腰掛けた。
机の上にはクラフト製のファイルボックスがあり、そこに何冊かノートが立ててあった。
どれも中身は真っ白。他にすることもなかったので新品ノートに落書きし始めた。

ついつい仕事モードで四コマ漫画を描いていた。タイトルは「温泉犬の大冒険」。
温泉犬といいながら、色味姿形はメロンパンそのもの。「風呂上がりのメロンパンの一かじりは最高!」をモットーに各地の温泉を巡っている。ちなみに、温泉とは温泉犬にとってお風呂のことである。 この温泉犬物語は社内でもそこそこに人気があり、月一の社内報の最終頁に掲載してもらっていた。
気に入ってもらえるのはありがたいことだが、温泉犬なのにメロンパンの見た目、風呂上がりのメロンパン、とメロンパンの占めるイメージが強すぎて、無意識のうちに「メロンパン犬」と呼ばれることになり、作者の私自身も「メロンパン犬…じゃない、温泉犬」と間違ってしまうことが多々あり、物覚えの良いリンちゃんによく注意されたものだ。
「温泉犬は知らないお家へ迷い込んでしまったようです。怖いけど泣いている場合じゃない!元気が出るものに変身!ぽんぽこぽーん!「いらっしゃいませ、ご利用のボタンを押してください」ATMに変身!それは現金が出てくるやがな〜」
ちっとも元気がでない。むしろ意気消沈。
書いていて虚しくなってきた。寂しい時のギャグは余計に寂しくなるということを痛感した。
これは後々のネタにとっておくことにしよう…と開き直った私は、単にイラストだけ描くことにした。ノートの中央いっぱいにおすましした温泉犬を描き、メロンパン食べたいな〜と台詞を付け加えたと同時にお腹がぐうーっと鳴った。
その時、タイミング良く扉をコンコンコンと叩く音がした。
「夕飯要るなら下りてきてよ」
優奈は返事も聞かずにさっさと階段を下りて行った。私はそそくさと階段を下りてキッチンへ向かった。
木のぬくもりが漂うナチュラルなダイニング空間だった。
テーブルの上には、白ご飯、生姜焼き、スープが用意されていた。
「冴のとこ持ってくから」
トレイに夕食を乗せた優奈が出ていこうとしたとき、私は咄嗟に
「あの、これからどうなるんでしょう?」
と尋ねた。彼女は振り返ると
「本人に聞いたほうが早いと思うわよ」
とだけ言うと足早にその場を去った。

夕飯を食べ終えた私は家中探索することにした。
ダイニングキッチンの隣は十畳ほどの広い和室。中央に漆塗りのテーブル、座布団が四つ。床の間には孔雀が描かれた掛け軸、瑠璃色の花瓶には綺麗な花が活けてあった。部屋の隅に一メートルくらいの高さの木棚があり、最上段に和紙の巾着袋が置いてあり、金木犀の良い香りが部屋中に漂っていた。
襖を開けると隣にはまた和室があり、壁に額入りの梅の花の絵が飾られている他は特に何もなかった。和室から廊下に出るとガラス戸の向こうには日本庭園が一面に広がっていた。 私はそろそろと引き戸を開けた。秋の虫々の鳴き声がかすかに響いていた。
広々とした白い砂地に半円を描くように植えられたツツジの緑の対比が鮮やかで、竹垣の前を取り囲むように生えた椛がほんのりと色づき始めていた。
庭の中央左側には円型の小さな池があり、傍には灯篭がこじんまりと立っていた。決して高価で珍しい物があるわけでもなかったが、情緒ある庭園に心が鎮まる思いだった。

扉を閉めて家の奥へ進むと、隣に別の建物があり、屋敷とは短い渡り廊下でつながっているようだった。ちょうど玄関とは反対側の裏口らしき扉が見えていた。私は廊下をそっと渡り、扉を少しだけ開けて顔だけ中に入れると左右を見渡した。
勾玉形の植物模様が描かれた緋色の絨毯、深緑の一人用ソファ、そして部屋を埋め尽くすほどの書籍。
天井に届きそうなくらいの大きな本棚には分厚い本がたくさん並んでいた。暗がりの中を足音をたてぬよう進んだ。
屋敷とはうってかわって洋風のしつらえに見惚けそうになりながら前方にある扉のノブを手に取った。
静かに開けようとすると白衣を着た冴の後ろ姿が目に入ってきた。彼は机に向かって何かさらさらと書いていた。
彼の正面には年配の女性が椅子に腰かけ、その傍らに優奈が控えていた。
「だいぶよくなってきていますね。これならあと一週間もあれば完治するでしょう」
「まあ!よかった!ありがとうございます」
「気になることがあればまたいつでもいらしてください」
「はい、お世話になりました」
彼女はペコリと頭を下げると椅子から立ちあがった。
「おだいじに」
優奈が玄関へと誘導する。
「ありがとうございました」
パタンと扉が閉まった。
彼はお医者さんだったのか。そのわりには普通の病院で見かけるような医療器具などは全く見当たらなかった。立地条件からしても町の病院みたいに頻繁に患者さんが来るというわけでもなさそうだし、何か特殊な病気を治す専門家なのだろうか。
私はそっと右腕に触れた。公園にいた時よりもいくらか痛みがマシになっていた。
パタンと診察室の扉が開き女性の見送りが済んだ優奈が部屋に戻ってきた。
「夕食置いてあるから」
「わかった」
冴は背を向けたまま答える。優奈は訝しげな瞳で尋ねた。
「あのコいつまで置いとくの?」
「用が済んだらすぐに帰す」
「それならさっさとしてよね。こっちも気遣うんだからさ」
「ああ…」
優奈は彼の横を通り過ぎ書斎の扉の方に向かって来た。私は見つからぬよう急いで本棚の後ろに隠れた。
彼女が去ったのを見届けると再び扉をのぞいた。冴は書類の整理をしていたが、ピタリと動作を止めた。
「盗み聞きとは趣味が悪いな」
(バレてたのか…)
私は扉を開けて診察室へ足を踏み入れた。彼はこちらに振り向くことなく作業を続けていた。
「ご飯の邪魔すると悪いから去ります…」
と言って戻ろうとすると椅子ごとくるりとこちらに向けた。
「用事があって来たんだろう」
彼は椅子から立ち上がり私の目の前に立った。まるで私の心を探るかのような視線に気が張り詰めた。
「まあ…予見力ってそれだけ抜きとれるんかなと」
「そんなに容易ければとっくにそうしているし、留める必要もない」
「どういうこと?」
わけがわからず問うと、彼はそのまま私を背に腕をまわしふわっと抱えた。
(えっ!?)
思いがけない出来事にパニックに陥った私は
「やめて!」
自分でも驚くくらい目にとまらぬ速さで彼を突き放した。けれども彼は驚きも焦りもせず、
「今頃では遅かったか」
と意味深なセリフを呟いた。
「遅かったって…っ!」
言いかけた途端、急に右腕が痛み出した。古傷が疼くような不快な痛さに耐えられなかった私はそのまま診察室を飛び出した。

診療所を出て屋敷の廊下に出ると優奈と出くわした。
「浴室はつきあたりにあるから」
相変わらず用件だけをぶっきらぼうに話して去ろうとした彼女だったが、私が右腕をぎゅっと押さえていたのが目に入ったのかして、
「早く治るといいわね」
と憐れむような瞳で一瞥して二階に上がって行った。
私は一旦部屋に戻りベッドの上に座り、腕の痛みが落ち着くまでしばらくじっとしていた。そうして二十分ほど経つと痛みもひいていった。
その後箪笥からTシャツと綿パンを出し着替えてから浴室へ行き、さっとシャワーを済ませた。 部屋に戻る途中、縁側に腰掛けて中庭を眺めていた。月光に照らされた庭もまた格別の風景だった。
私は冴の行動に数々の疑問を感じていた。ただ、タヌキ族を嫌っているだけとは思えない。嫌悪感より悲壮感というほうが近いのかもしれない。彼の瞳にはどこか翳りがあった。いずれにせよ、私はぽんこのことを何も知らない。それはまるで自分のことを知らないと同じように思えてきた。
とりとめもなく悶々と考えを巡らせていると、庭からカサカサ…と何かが蠢く音がした。
(誰かいる!?)
私はぱっと立ちあがり部屋に戻ろうとすると、松の木の陰から一人の男性が現れた。
「リンちゃん!?」
私は大きい声を上げてしまい慌てて口を手で押さえた。
間違いない、恋人の鈴喜…リンちゃんだった。彼は私と視線が合うと小走りで駆け寄って来た。私も嬉しくなり前に進みだすと、反動で携帯ストラップの鈴がちりりんと鳴った。
「わっ…!」
静寂の中に突然音が響いたためかリンちゃんは一瞬静止した。
「あ、ごめん」
私はポケットにスマホを入れ直した。リンちゃんは、白い七分袖のVネックのTシャツに黒いベストをはおり、カーキ系のズボンを履き、首にはライトグレーのストールを巻いていた。細身の上背が高いのでなんでもおしゃれに着こなしてしまう。
「心配したんだよ。電話もつながらないから」
「ごめん…迷惑かけて」
「いいんだよ、無事なら。ちょっと座ろうか」
私は頷くと縁側に二人並んで座った。
「なんでここがわかったん?」
「あの二人が教えてくれたんだ」
「和央と美高が?彼らはどこに?」
私は思わずリンちゃんの両肩を掴んだ。
「どうしたの?」
「あ、ごめん、つい…」
彼の顔が一瞬曇ったかと思ったが、すぐににっこりと笑んだ。
「居場所を聞いた後僕が先に出たから後から追ってきたと思うんだけど、そこまで気が回らなくて」
「そうなんか…」
和央達は道にでも迷ったのだろうか。リンちゃんが心配そうに見つめていたので私は暗い顔はできないと思い、
「明日は来てくれるよね、ありがと」
と明るく笑った。
「そうだね。大切なぽんちゃんだからね…ん?どうしたの?」
「わたしの名前、リンちゃんもわからんのやね」
「ごめんね」
彼は訳がわからない様子だったがなぜか謝ってくれた。
「リンちゃんは悪くないよ。他に知ってる人がいるかもしれへんし」
「名前がわからないの?」
「そうなん。変な世界に来てしまって。タヌキ族のお姫様で和央と婚約者って聞かされたり…わたしにはリンちゃんだけやのに!」
ぐっと握りこぶしに力を入れてリンちゃんを見ると彼はぽかんと口を開けていた。
「ぽんちゃんと和央は婚約中だよ?」
「えっ!?」
私は跳ね上がった。
「僕はぽんちゃんの幼馴染ってだけで…」
「幼馴染なんか…」
「でも、嬉しいなあ。そう思ってくれてたんだ」
「それは、その、まあ…」
私は内心あたふたしていた。目の前にいる彼は見たまま恋人のリンちゃんだったが、ここでの立場は異なっているようで、もし和央が来たら誤解されないかもと感じ、恋人が来てくれたというのに素直に喜べなくなりつつあった。
「そ、そろそろ中入ろ…リンちゃん!?」
立ちあがろうとした私の腕を彼がぐいと引っ張りそのまま抱き寄せた。
「わわわっ!」
「ごめん…抑えきれなくて。叶わないってわかっててもずっとぽんちゃんを想ってたから。だから、さっきのぽんちゃんの言葉すっごく嬉しかったんだ」
いや、それは私の勘違いというか、私の知ってるリンちゃんへ向けた言葉であって…と説明するのも難しい状況だった。
それに何より、さっきから心臓がバクバクいって緊張感マックスでどうやって落ちつかせようかに意識がいきすぎてしまい言い訳を考える余力がなかった。
私が無言で彼の胸の中に顔を埋めていると彼は優しく髪を撫でた。
「サラサラの髪、いいニオイだよ」
髪を触っていた手が次第に首の方へと伸び、首筋をそっとなぞった。
全身がぞぞぞっと反応した。このままじゃイカン!直感的に思った私はバッと顔を上げた。
「ほら、もう遅いし、寝よ…つうか、寝ます!じゃあ!」
彼の手を跳ねのけて廊下へあがった。
私は階段をダッシュして自室に入るとベッドに突っ伏した。
なんでやろ…彼氏に会えて嬉しいはずやのに。元の世界のリンちゃんではないからなのか、この約半日でイケメン達に優しくされたためだろうか。なんて単純な人間。
こんなにわけがわからず精神的に疲れた日は、生まれてはじめてかもしれないと思っているうちに眠気に襲われそのまま眠ってしまった。

体内時計はいつでもきちんと働くものだ。六時半きっかりに目が覚めた。
眠れたような眠れていないような。
ただ、昨日リンちゃんと別れた後の記憶がないので、おそらく身体的には休養できたのだろう。あたりを見回しても昨日と何も変わってはいなかった。目が覚めたら夢だった…という展開に期待した自分がばかだった。
私はあくびをしてぽりぽりとお尻をかいてからムクリと起き上がった。
ああ、姫様ならこんなはしたないことしたらあかんのか…いんや、ぽんこ姫の豪快な性格からして、人目のないところでは案外大ざっぱだったかもしれない。とか呑気に考えながら顔を洗いに行った。
洗面所から出てくると、チリーンチリーンと鈴の音が聞こえてきた。
私は嫌な予感がしてささっと部屋に入った。 けれども、おかまいなしにバシーン!と扉が押しのけてストロベリーが飛び込んできた。
「わふぉっ!」
腹に頭突きを食らった私はその場に尻もちをついた。
「ワンワン!」
ストロベリーは天使のようなかわいらしさで私の顔をぺろぺろ舐めた。
「わっ!くすぐったい!」
クゥーンと甘えるストロベリーだったが、「ストロベリー!」と優奈に名前を呼ばれるとさっと方向転換をして、階段をダダダダ!と下りていった。ストロベリーと入れ替わりに部屋に訪れた優奈は、
「朝食、下に用意してあるから」
短く言い放つとすたすたとそのまま通り過ぎて行った。 なんか、あっさりした人やねえ…でも、囚われの身でありながら、ご飯も寝床もきちんと用意してくれるので意地悪とかではないと思うのだが、微妙な隔たりを感じてしまい打ち解けにくかった。
とりあえず着替えるか。
クローゼットをガラっと開けると色とりどりの洋服が並んでいた。箪笥には小紋やつけ下げの和装が揃っていた。
着ぐるみとか入ってなくてよかった、ホッとした私だったが、姫様的にあまり地味すぎるのも怪しまれないかと思ったため、トレンドを意識したファッションにすることにした。
身軽さを重視するなら洋服のがいいよね。今秋はチェック柄が流行りとか…ポンチョとかもええかな。タダで着られると思うとワクワクしてきて、迷いつつも最終的にはアイボリーの刺繍が入った七分袖のブラウスに、ブラウンチェックの膝丈のひらひらスカート、黒のソックスを履き、レッドワインのフード付きポンチョを羽織った。 まるで現代風元気な赤ずきんちゃんになってしまった。
いつもと雰囲気の異なる服を着ると、不思議と気の持ちようも変わってくるようで「よし!頑張るぞ!」という気合いが入った。

私は身支度を済ませると一階へ降りて行った。テーブルには花びら型のトレイにのったおにぎり、味噌汁、お茶が置いてあった。
私は椅子に座り、いただきますと小声で手をあわせてお箸を手に取った。お味噌汁をすすると五臓六腑にしみわたった。出汁もよくきいていてかつ、大根、人参、ささがきゴボウ、豆腐の素材の味が活きていた。
昨晩の野菜スープの美味さとも合わせて考えると、意外と家庭的な人なのかもしれないと思った。
五分くらいすると優奈が上から下りてきた。デニム生地のレギンスパンツに深緑色のロングカットソーというシンプルな装いだったが、メイクは、というより目の周りはもりもりのつけまつげ、アイシャドウにはたっぷりのラメ、くっきり太いアイラインは和装の時と変わらなかった。
私は「あ、いただいてます…」と恐る恐る声をかけた。
「別に気にしなくていいわよ、ついでだし」
彼女は素っ気なく答えた。
ご飯を食べ終えた私はお茶を一口飲んだ。
キッチンで食器を片付けている彼女の後姿を見ながら気にかかっていたことを口にした。
「あのー」
「なに?」
彼女は振り向かず返事した。
「知り合いとはいえ、他の女性を家に連れてくるって平気なんですか?」
「んまあ、よくあることだし。あたしは束縛するの嫌いだから。あたしへの扱いが悪くなったとかってわけじゃないし。気にしてないわね、今のとこは」
「わたしにはよくわからないです。予見力とか潜在能力とかがどうのこうのって」
すると彼女は一瞬手を止めた。
「あんたと絡んでる時は楽しそうだったわ」
「え?」
「でも、不思議なのよね。だからって嫉妬心が芽生えてるわけでもないもの」
彼女はどこか遠くを見つめていた。
「気にかかる…放っておけない存在なのかしらね」
「いや、でも、そんなんじゃ困ります!わたしは結婚するんやし」
「あたしも逆の立場ならそう思うわね。全く、男ってワガママでいつまでも子供なんだから」
「どういうことですか?」
「力なんてどーでもよかったのよ。あんたさえいればね…」
「むう…これからどうなるんやろ」
私は冴の意図が全く読めなかった。
「大丈夫じゃない?人生、なるようになってるもんよ」
彼女はふと悲しみとも喜びともとりづらい微笑を浮かべた。
結婚して数年も経つと変わってしまうのか、それとも元々この夫婦はこれが普通なのか、私には到底理解できない事情だった。