はっぴぃーす(2)
 三人取り残された後、なんとも言いがたい雰囲気が漂っていた。
ハッチュウはとにかく、私はぼんやり過ごすのが嫌じゃなかったし、貴結も接してみたところ内気な部分があるので互いにどちらかが口をきるという状態ではなかった。
沈黙があっていきなりハッチュウが声を上げた。
「キューイの友達はどんな子?」
ムードーメーカーハッチュウ。ここに君がいてくれてよかったと二度目にして感じた。
“友達”というのは貴結が育てている鉢植えのことだろう。話のきっかけを作ってくれたハッチュウに続いて私も彼に質問してみた。
「そういえば、あの二人とは知り合って結構経つの?」
貴結はしばらく、えーっと、と考えてから話した。
「鉢は本当にハッチュウとよく似てるんです。もうちょっと僕のが大きかった気がするけど…あの二人には僕が二週間前ここに初めて来て、落とし穴にはまった時に助けてもらいました」
「へぇー、だいたい同じコース辿るんや」
「二人とも向こうの世界とこちらの世界を頻繁に行き来していて、ヤイコダマが無事に帰れるよう仕事の合間に調査してるらしいです」
「大変そやなあ」
「ええ、はい。儚木区長の元には強力な精鋭部隊がいるそうですし、でも僕なんかとは違ってあの二人は強いですから…」
貴結は自分で言って落ち込み始めた。
「強い?」
私は即座に問い返した。
“強い”というのもいろいろな意味があるのだけれども、文脈からいくと精鋭部隊と戦う強さとしてよいものであり、そうすると翼さんはともかくななしろまさんはどうしても気迫に欠けるところが合って信じがたかったのだ。貴結は私の問いに深く頷くと
「とてもかないません」
と仕方ないふうに笑った。
私は落とし穴での彼と翼さんとのやりとりを思い出した。
「強くなろうって思ってもすぐになれないんですよね。努力はしているものの、成果がなかなか表れなくて…」
明らかに彼のテンションは下がっていっていた。
この状況を見て「こんなくよくよした男は嫌いだ!」という女子が続出するかもしれない。けれども、私にとってはよくできるということをやたらと自慢する奴よりも、呆れるほど素直で放っておけない純朴さの子の方が話に耳を傾けたくなる人物だった。
別にそんなに歎くこともないのに…と心内で思ったことがつい口をついて出てしまった。
「強くなくてもいいやん」
貴結は飛び上がるかと思うくらい「えっ?」と声を上げ私を見た。
私はそんなに気に障る発言をしでかしてしまったかと驚いたが、ここは正直なところを述べた。
「強い人がいるならその人らに任せればいいことやん。人間強いからってええっていうもんじゃないし。弱いからわかることもある気がする…弱いってのはこの場合、体力とかその類のことで、多分翼さんやななしろまさんが言うてるんは内面的なものもあると思うで」
「内面的なもの?」
「例えば…貴結くんは自分が弱いて分かってるなら、それは自分の弱さを認められてるよいことなんやから、卑屈になる必要もあらへんやろって。人にはそれぞれ得意分野があるからそこを磨いたほうが無謀な挑戦して失敗してうだうだ悩むより伸びると思うんさな。」
話し終えてから私は独りよがりな見解をしゃべりすぎただろうかと不安になった。
白いテーブルに映った自分の顔をみつめ黙っていた貴結は顔をあげた。
その表情が私には今ひとつよくわからないと私には見て取れたので私は追加した。
「あ、やから、それぞれの足らんところは誰かが補ってったらいいんじゃないかなあって。私ら一人で生きてるわけじゃないしさ」
「そうそう!キューイは一人だけど一人じゃない!」
ハッチュウはお気楽なわりには深いことを口にした。
私は彼に伝わったかどうか窺うように彼を見つめた。
「ありがとうございます…」
何の返答が来るかと思ったらいきなり虚を突かれてしまった。
彼はたいそう感銘をうけたような、一方でひどい恥辱を受けたような顔とが混在していた。私は慌てて首を振った。
「お礼言われることじゃないよ。それと敬語使わんでええよ。」
為口でいいよ、とは言わないけれども世間話する程度なら「です・ます調」を使うこともなかろうと思った。しかし彼はめっそうもないというふうに目を丸くした。
「いいえ!年上の方には常に敬意を払って…特によい助言をしてくださる方へは感謝の気持ちを表さないといけないのでそれはできません!」
「あ、そうなんや…」
私は彼の言いように噴出す寸前だった。
馴れ馴れしくされるよりは敬われるほうが気分がよいし、本人の成長のためにもここは敬語を許可しよう、なんて偉そうなことを思った私だったが、結局のところ彼は既に敬語体質だったので私ごときがどうにかできる事柄ではなかっただけだった。
「あ、そういや部活は途中じゃなかったん?」
「いいんですよ。植物と一緒に走り続けてるのって気持ち悪くなってきて…それって僕がまだここに慣れてないってことなんでしょうけど」
貴結はため息をついた。
それを真似してハッチュウもため息をついた。
「そうか、帰れるまでずっとこのままやもんな…あ、」
私は言いかけて思い出した。貴結は首をかしげた。
「明日、テスト最終日や。持ち込み可やからどうにかなりそやけど」
「大学の試験って難しいんですか?」
「科目によるなあ…でも、単位落としたくなかったらだいたい皆真面目に勉強するよ」
「そうですよね。受験から解放されたっていっても学業第一ですもんね」
貴結は納得というようにうなずいた。
「そうそう、でも高校生が一番青春満喫できる時やから今楽しんどいた方がええよ」
私は遠い昔を顧みるごとく彼にアドバイスした。
冗談で言ったつもりだったのになぜかそういう自分に悲しくなった。その時にしか体験できないということは若いうちには山のようにあるらしい。
「来年は受験なので、勉強に追われる前に鍛えなおしも兼ねて充実させようと思います」
貴結は私に宣言した。
「キューイファイト!」
ハッチュウも喝を入れてやってくれた。
「じゃあ、そろそろお暇しよか」
「はい」
私たちは席から立つと揃って部屋を後にした。

  翌日わたしは昼前に大学に向かった。
いわなずもがな。人間はいない。いるのは植物だけである。昨日三人に出会ったことが夢だったのではないかと思ってしまえるくらい植物の日常が違和感なく成立していた。信号を待っていると向かいに犬を連れて待っている蓮が目に入った。
信号が青になり歩き出すと蓮は犬と並んで普通に渡っていった。奇怪千万に思いつつ私は大学校舎までの道のりを進んだ。大学に向かう学生もやはり植物ばかりで女子大だから色鮮やかな花々を想像していたらこれは大きな間違いだった。目に飛び込んでくるほど綺麗な色合いの花々も中にはいたが、圧倒的に地味系が占めていた。
キュウリ、カボチャ、ニンジン…野菜類が多かったのは田舎の女子大学だからだろうか。これで全員カボチャ頭になっていたらホラーの館化としていたが、そこはきちんと差別なくほかの植物と同じように根・茎・葉あるいは花を主体とした生き物として存在していた。
彼らのには顔がなかったからよかったものの、私は疎外感を覚えずにはいられなかった。
試験教室に着いた私はそっとドアを開けた。
私はもう何も期待してなかった。米びつに潜むコクゾウムシを探し出すよりも、植物の中に人間を探すのは徒労だとあきらめていたからである。
一席置きずつ座っている植物たちを見渡した後黒い頭が見えた。私は後ろからスッとそこまで行くと見覚えある横顔に目を疑った。
「つか子ちゃん!?」
声をかけられて人物はビクッとしてこちらを向いた。
「未良ちゃん?…未良ちゃんもこっちに飛ばされたの?」
「うん、そうなんや」
私はそれまでの不安と緊張が一気に解消されていくのがわかった。
つか子ちゃんは私と同学年同学科の友人である。たまたま万葉集の授業が同じで席も隣同士に座ることがあった。
私は地獄に仏といった眼差しでつか子ちゃんに尋ねた。
「鉢のヤイコダマが逃げてしもて。つか子ちゃんも?」
「うん。一昨日急に。よくわからなかったから役所へ行って…そしたら迷子のヤイコダマが預けられてるかもって言われたんだ。それで行ってみたら三匹全部いたから今日引取りに行くつもり」
「でも、試験こっちで受けるんや」
「帰ってからでもよかったんだけどね。記念に」
つか子ちゃんは楽しげに話した。そして私に
「未良ちゃんは見つかったの?」
大きな瞳で尋ねた。
「いや、それがまだで…でも役所に届けられてるかも」
「そっか…早く見つかるといいよね。あ、それなら一緒に行こうよ。テスト終わってから」
つか子ちゃんは私を励ますように言った。
「ごめん…次もテストあって」
「ああ、なら別々になっちゃうね」
彼女は残念がった。
「大丈夫さ。植物っていっても皆が危害加えてくるわけじゃあないし」
「うん。それは私も救われたところだよ。だって、隣の儚木は人間にたいする仕打ちはひどいっていうから」
つか子ちゃんは心配そうに言った。私は上擦った声を上げた。
「そんなに違うの?」
「交番の人が言ってたんだけど、隣の区長は人間嫌いで人間をやっつける策をいろいろ練ってるとか。それと、迷いこんできたヤイコダマを捕まえてはくれるんだけどそれが区長の目に留まってお気に入りにされたら、持ち主が来てもすぐに返してくれないとか」
つか子ちゃんは眉をしかめた。
彼女の発言に私はめくるめく不安を覚えた。ここまで聞いて、ハッチュウのヤイコダマが隣区に行ったとしてそこで区長の目にとまらない可能性を期待するのは当て外れであることは予想された。私は再びここで、ムケ種のことを暴露しようかしまいか悩み始めた。
「でも、それが本当だったら可哀想だよね。ヤイコダマも合わない生活を強いられて…るかはわかんないけどそれに近い状態になってるんだから」
つか子ちゃんの言葉に私の脳裏に閃光が走った。
(そうや、大切なのは家宝がどうのこうのじゃなくてハッチュウやヤイコダマの命なんや)
ヤイコダマが家宝とばれたからといって大洪水が起こるわけでもなく、大地震が起きるわけでもない。泥棒に狙われたとしてもその時は警備強化対策を万全にすればよい。私にハッチュウやヤイコダマの運命を左右する権利があるとしてもそれを濫用する権利はないのだ。このまま死なせてしまったら「家宝」も何もありゃしない。こんな基本的なことになぜ今まで気づかなかったのか…私は自分に腹を立てるとともにつか子ちゃんに会えたことを心から感謝した。
つか子ちゃんは黙りこくっている私に
「どうしたの?」
と尋ねた。私は余計な心配はさせまいと思い口角を上げた。
「ううん、ありがとう。がんばって探してみるよ」
ちょうどそこで授業始まりのチャイムがなり始めた。

 植物に混じってテストを受けるという後にも先にもない奇怪な体験を終えた私は、植物女子大生のゴミの中をかきわけて帰路を歩いていた。
家宝のことを言うと決めたにしろ、まず誰に話すべきか悩むところだった。これはやはり専門家に相談すべきなのだが…とあれこれ考えているうちにいつの間にかある家の前まで来てしまっていた。
ここは覚悟を決めて…私は深呼吸してからインターホンを押した。すると
「はい、どちら様でしょうか?」
と前日案内してくれたイネではなくスイの高い声がした。
「あ、こんにちは昨日おじゃましました立川張ですけど…」
「ああ、少々お待ちくださいね」
彼女は私は面識人と分かると急いでドアを開けてくれた。
「こんにちは」
私はスイと顔を合わせると会釈した。
「こんにちは。親方はいらっしゃいますよ。ささ、どうぞ」
スイに言われるままに私は家の中に上がらせてもらった。
昨日と同じように応接間まで来るとスイが扉をノックした。
「失礼します。お客様です」
「どうぞ〜。」
ななしろまさんの声を確認した彼女は扉を手前に引いた。テーブルを挟んだ向かいに彼が座っていた。
「こんにちは、未良ちゃん」
彼はいつものにこやかな笑顔で迎えてくれた。
そして彼の前に座っていた大柄の人物もこちらに顔を向けた。
ギョッ!
「こ、こんにちは」
私は翼さんに愛想良く挨拶した。
出目金でもあるまいし、なんでギョッ!なんかしたのか反射行動に一瞬疑問を抱いた。
「ハッチュウの調子はどう?」
ななしろまさんに尋ねられて私はどもった。
家宝のことを告げるために足を運んだのだが、いざ二人を前にするとどうしても思い切ることができなかった。しかし怪しまれてはまずいと思い、一応何か言う素振りを見せようと顔を上げると彼は浅く頷いた。そして
「今日は天気もいいし、庭で話そうか」
と翼さんに一笑み目線で送ると席を立った。
彼が扉から出て行くのについて私も部屋から出でいった。
その途中、「はあ…」と翼さんのため息が耳に入った。

玄関を右に曲がり廊下を突き進むと左方に広い庭が見えてきた。
ななしろまさんは庭へ下りるドアを開けると素足のまま芝生の上に下りたった。
「う〜ん、日差しが気持ちいい〜」
彼はぐっと伸びをした。
光を受けた髪はキラキラと輝いていた。彼はドアの手前に突っ立っている私に
「ここに座りなよ」
と傍にあった石を指した。
私は彼が座った石の隣に腰を下ろした。
「さて、この場所だったら話しやすいかな」
彼は微笑をたたえたまま私に言った。
「すみません」
私の挙動不審は見抜かれていたかと彼の心配りに感謝してから話し始めた。
「ハッチュウのこと、いや、ヤイコダマのことなんですけど、あれはムケ種です。多分。ハッチュウにはヤイコダマは一匹しかついていなかったので。それと、そのヤイコダマはうちの家宝なんです。ひょんなことから祖母から譲り受けて…」
「そこまではさすがに予想つかなかったや」
ななしろまさんは驚いた口調で答えた。私は目を丸くした。
「ってことはハッチュウのヤイコダマがムケ種っていうのはわかってたんですか?」
「うん、後でアヤに聞いたんだ。彼は植物の中のヤイコダマを見通す能力があるから。そこで、ヤイコダマいないのになんでハッチュウは元気なんだろうねって話にもなったなあ。」
「そう、それも疑問なんです。ヤイコダマがいてへんのにハッチュウは生きてるんか。」
私は前方の小さい池を見つめた。鯉が三匹隅を泳いでいた。
「二人は離れてもどこかで繋がっているのかもしれないね。調べないとわからないけど…」
「そうですか」
私は霧がまだ晴れないで少しがっかりした。
しかしななしろまさんは気落ちさせないかのように優しい眼差しを向けてくれた。
「でも随分悩んでたみたいだね」
「あ、やっぱり家宝って言われたくらいやから他人にベラベラしゃべるもんじゃないかなあって…でも、ハッチュウやヤイコダマのこと思うと、家宝がどうの問題じゃないって、ハッチュウたちのが優先せなあかんって気づいたんです」
私はあけすけに彼に話した。
彼は深く頷き、
「わかった。このことはアヤ以外には絶対言わないから安心して」
と穏やかに言ってくれた。
私はその言葉にひとまず安心すると、ななしろまさんは思いついたかのように話題を転換した。
「思ったんだけど、未良ちゃんはアヤが怖いって思う?」
唐突かつ直接的な質問に私は即答しづらくなった。
「怖いというか、近寄りがたい印象が…悪い人じゃないってのはわかってるんですけど、何となくこう、話しかけやすい人ではないと」
私の微妙な心境を説明すると彼は笑った。
「初めは誰でもそう思うんだよね。オレがアヤと知り合ったのは三年前のことだけど、打ち解けるまでに半年かかったよ。なんせ御覧の通り口数少ない上、感情表現も見知らぬ人には殆ど面に出さないから、その言動から気持ちを読み取るのはホント苦労したよ」
(気の長い人やな…)
私は聞きながら呆れに似た感情を抱いた。
「貴結君に対する態度からもわかるように、わりと厳しいところもあるね。男はいつでもどっしり構えてないとダメだ!っていうのが彼の信条らしいからね。だから意見が食い違うときもたくさんあったけどそこは互いにうまくやってきたなあ…話してると面白い奴なんだよ。口下手なだけで。
貴結君にもそう、彼のことは弟のように思ってる。厳しいのは可愛さゆえってことだよ。貴結君がこっちの世界に来た日だったか、役所にヤイコダマが届けられてないか確認しに行った時、彼のはいなくてさ、それで彼が諦めそうになったときにアヤが言ったんだ。“お前が諦めるのは勝手だが、ヤイコダマは一生諦めねえんだぞ”って。アツい奴だろう。貴結君はアヤの気迫に怯えあがって泣き出してたけどね。
でも、なんとなくこの人深いなって改めて感じたんだ。多くを語らないけど肝心なところは掴んでる。そこがアヤの持ち主であり長所であり…惹かれるところなのかもしれないな…ということを本人に話してもシカトされるだけなんだけどね。
まあ、だから君も普通に接すればいいよ。外見怖く思うのは慣れればどうってことないからさ。」
ななしろまさんはひととおり話し終えると念を押すようにもう一度微笑んだ。
私は彼は人を見抜く目が養われていると思った。穏やかで和やかな雰囲気がいつでも彼の周囲に漂っているのは、こういう気の長い懐の表れなのだととってよかったのだろう。
「はい、ありがとうございます」
私も彼につられて自然と顔がほころんでいた。

  それから三日後、私は区役所にヤイコダマが預けられていないか確かめに行くことになった。
ハッチュウを連れて商店街へ足を運ぶと、案の定貴結の姿は簡単に見つけられた。私はハッチュウに貴結を指差すと一緒に横断歩道を渡った。
「おはよう」
「あ…おはようございます」
貴結はボケっとしていたのか少し驚いたようだった。
「役所は向こうやったよな。」
私は北にくるりと首を向けて確かめると彼は頷いた。
「そうです。あの二人は先に行きました。場所はわかりますか?」
「だいたいの位置はわかるけど行ったことがないんさな…」
「じゃあ、待ち合わせしといてよかったですよね。僕はこの前一度見に行ったから場所は覚えてるので…」
「ああ、うん。わたしとハッチュウだけやったら迷子になってたかもしれへんからな」
私は彼が変なところで得意げになっているのが微笑ましくて、ハッチュウに向かってこっそり笑った。
「それでは行きましょう」
貴結は歩き始めると私とハッチュウも後について歩き出した。
地図で場所を確認したところ、区役所は商店街の連なる大通りを北にまっすぐ一キロほど行って、筋道の交差点を左に曲がった奥にあるようだった。
前もって地図で確認しておいたのはもしもに備えてであった。彼は時たま後ろを振り返って何かを気にしているようだった。
おそらく私がはぐれてないか心配してくれていたのだろうが、一本道で迷うことの方が至難の業である。しかし、気遣いとしてはなかなかよかったので、それに振り向く角度もこれが横向きか後ろ向きなのか本当に微妙な上手い具合の角度で、見ていて面白かったのであえてやめるように言わなかった。
十五分ほどして区役所らしき建物が視界に入ってきた。
特別厳かでもなく、各区共通の四階建てのコンクリートの建物だった。
私たちは玄関の自動ドアを開いて建物内に入った。中は適度に冷房が効いていて涼しかった。
「こっちです」
貴結がホール奥にあるエレベーターへと足を進めた。私とハッチュウがその後についていくと、彼は先に乗るように促した。私はハッチュウを先に乗せてから自分が乗った。そのあとで貴結が乗って四のボタンを押した。
四階に着きエレベーターから下りると貴結は廊下を右に曲がった。そしてつきあたりの部屋まで来ると立ち止まった。
その部屋は透明ガラスで中の様子が見えた。植物たちがせっせと書類整理やパソコンに向かってデータ処理らしきことをしているのが目に入ってきた。
貴結はドアを開けて中に入った。私とハッチュウも戸を押して彼に続いた。
「この階は向こうでも催しのなどの案内を掲示してくれてる所なんです。こちらではそれと迷子のヤイコダマも預けられてるんです。」
彼は歩きながら説明してくれた。私はそれを聞きながら周りを観察していた。
植物が本を読んでいる…何度も“人間=植物”と意識しようと思ってもやはり植物らしかぬ光景にはそんなに早く馴染めるはずがなかった。
私はそんなことばかりに気をとられていると、前方に青い光が見えてきた。
「ヤイコダマ?」
私はハッチュウを連れてその光の方向に駆け寄った。
ガラス越しに無数のヤイコダマが飛び交っているのが視野の中心に広がった。
青い光を纏いながら優雅に舞う姿。その空間だけ実に幻想的だった。ヤイコダマが複数で浮遊している所なんて、日常では絶対に等しいほど見られない光景だ。
大小は多少差があるものの、頭と胴部分の境目についた小さな羽を小刻みに動かし飛翔する姿は妖精を連想させた。
私がヤイコダマに見とれていると、貴結は低く「いた!」と声を上げた。
私はパッと彼の方に振り向くと、彼は嬉しそうな顔でガラス戸の一点を指差していた。
「あの隅にいる鉢植えが僕のなんです」
鉢植え…そういえば、ヤイコダマが飛んでいる下には何人か鉢植えも座っていた。貴結が育てているという鉢植えは…ハッチュウに似ても似つかない容貌であった。
(あれ、ゴムノキやん…)
私は遠くからでもわかる背の高く丸い葉に、どうしたらハッチュウと間違えるものか不思議でならなかった。かろうじて鉢の色が同じだっただけである。葉の色も同じようなものだが、だからこの植物がハッチュウに化けるとは異常気象にでもならない限り考えられなかった。私は疑惑の眼差しで鉢を見ていたが、貴結は嬉しそうに
「係の人呼んできます」
と、急ぎ足で近くにいた植物の職員に声をかけていた。
そして、職員がガラス戸の鍵を開けて中に入ると、貴結の鉢を持って出てきた。
「これでよかったですか?」
「はい」
「では、ここに受け取りのサインをお願いします」
職員は紙とペンを貴結に渡した。彼はそれに名前を書き込むと職員に返した。
「ありがとうございます」
彼がお礼をいって鉢植えを受け取ると、職員はその場を立ち去った。
満足げな表情の彼に私は
「よかったな」
心から共感したつもりだったのだが、彼はそれが嫌味と取り違えたらしい。彼はあわてふためいた。
「あ、すみません。自分のことに気とられてしまって…未良さんはいましたか?」
「ううん…おらんな」
私は数あるヤイコダマの中にハッチュウ付きヤイコダマはいないと判断した。たいていは群れで動いているからハッチュウの場合、単独行動しているものを探し出せばよいのだが、ここには一匹も見当たらなかった。

「お、ようやく来たか」
私たちがガラス越しにヤイコダマを観察していると後ろから声がかかった。
「おはようございます、先輩」
「おはようございます」
貴結に続いて私もすかさず挨拶した。
翼さんはいつものようにいかつい表情をしていたが、貴結の抱えているものに目をやると少々眉をしかめた。
「見つかったのか?」
「はい…!今日届けられてました」
貴結は翼さんの問いに素直に返答し素直に喜んだ。
けれども翼さんは決して喜びを共にわかちあうという気はさらさらなかったらしい。すぐに本題に入った。
「そうか…。ところで、役所の掲示板に儚木でのヤイコダマの目撃情報の書き込みが数件見つかった」
「それはハッチュウの…」
「だろうな、おそらく。」
翼さんは確定付けるとさっと身を翻した。
「向こうの部屋にパソコンがある」
言うとさっさと行ってしまった。
私たちはせかされるように彼の後についていった。
「情報探索コーナー」と書かれた標識が天井から吊り下げられていた。パソコンが二十台、四列に並んでいて最右端の一番奥には印刷機も置いてあった。パソコンは一台ずつ仕切りがついていて、隣の人に覗かれないようになっていた。翼さんは手前から二番目の椅子に座りマウスをクリックした。すると、「ヤイコダマ掲示板」という見出しの画面が表示された。
(こんなんあるんや…)
私は「尋ね人」ならぬ「尋ねヤイコダマ」なるものがあることに感心した。植物側からしてみれば、“鬼畜人間”と掲示板が荒れまくっていてもおかしくないのに、この区の区長はさぞ賢明な人なのだろう。翼さんが最新記事のリンクをクリックするとツリー状に何件もの情報掲載されていた。その最新欄の発言はこうだった。
“今日歩いていたら、目の前をヤイコダマ、それもかなり大きめのが一匹通り過ぎたんです。”
それへの返信。
“私も見ました!あれはきっとどこかの植物にくっついてた奴ですよね。宿主は大丈夫なのかなあ…”
「この他にも似たような発言が昨日、一昨日と連続している。発信元はどれも儚木だから、ヤイコダマは区外にいるってことだな」
翼さんは画面を見ながら話した。
「儚木ではここみたいに預かってくれてないんですか?」
私は彼に尋ねた。
翼さんは画面をホームに戻すと椅子ごとクルリとこちらに向いた。
「あることはあるが…一週間以内に宿主が現れなかったら処分されることになっている。処分っていっても区長の所有物になるってことだ」
「一週間…」
「このヤイコダマが向こうの役所に捕まった日が三日前だとすると、無事に取り戻すには明後日までにどうにかしなきゃならねえっていうことだ。でも、掲示板の発言から行くと浮遊目撃が古くて一昨日だから、まだいくらか余裕はあるな」
私は頭痛で頭が痛いと二重表現したくなるほど頭が痛くなってきた。
ヤイコダマがゼロ匹の今でも、ハッチュウにとっては危険状態なのに、ヤイコダマ自体が死滅してしまったら元も子もないのだ。
「早く区役所に行かんといけないですよね…」
私は不安げにつぶやくと翼さんは立ち上がった。
「いや、一人で乗り込んでいって容易には帰してはくれんだろう」
彼はひときわ険しい表情になった。
さっきから「捕まる」だの「乗り込む」だの攻撃的な単語を使っているけれども、儚木はこちらではそんなに危ない所なのだろうか。私が躊躇していても彼は続けた。
「ムケを取り戻しに行こうとして成功したやつはゼロに近いからな」
脅し文句に私は言葉を失った。
(そんな…)
私は即座にハッチュウに向かって「ごめん」と誤りたい気持ちで一杯になった。
ここに来たのは私のせいではなかったけれども、皆無とはいえない。背後には人間の身勝手さ無責任さが関係していたはずだ。そのせいで他の生命を危機にさらす羽目になってしまったのは否めない事実だった。
私はすっかり意気消沈していた。傍にいた貴結も気の毒そうな瞳で抱えた鉢を見つめていた。ところが翼さんはふうと一息つくといった。
「諦めるのはまだ早い。これはハッチュウだけじゃなく、全植物いや全生物に関わることだ。見過ごしていいはずがねえ」
私はとっさに彼を見上げた。その瞳の置くにはまっすぐに光ものがあった。
「そろそろ役所も年貢の納め時だからな。俺たちも手を貸すさ、なあ貴結?」
「えっ?」
貴結は突然話を付られたからか挙動不審になっていた。
「まさか、お前、自分の鉢が見つかったらさっさと帰るつもりだったのか?」
純人さんに睨まれて貴結はどもったが、正直に
「はい…」
と答えた。するというまでもなく翼さんはガッと貴結につかみかかった。それもよほど怪力のようで片手で持ち上げているというのに、貴結の足が宙に浮いていた。
翼さんはなく子も黙る鬼の形相で目をむいていた。
「このバカ野郎!そんなんじゃあまた鉢に逃げられんぞ!植物はなあ、人間をよく見てるんだ。いい所も悪い所も全て。それと、主人を信じてやまない。だからそんな愚鈍な主でも傍を離れないんだ。ええ?聞いてるか!?」
彼は泣く寸前の貴結をつかんだ手を前後に揺らす。貴結は必死に何度も首を縦に振った。
「植物に足がない、とこの世界で言えるなら言ってみろ。人間自分のためじゃなくてもやらなきゃならねえことがあるんだよ。帰るのは構わないがな、それではお前は一生この鉢には好かれんだろうな」
彼はパッと手を放した。
貴結は落ちて尻餅をついた。痛そうに尻を抑えている貴結に翼さんは冷淡な目で見下ろしていた。
「今日もアツイねえ〜」
緊迫した空気でもマイペースで入り込めてきたのはのは、ななしろまさんだった。
予告なしにさっそうとやってきたのには一同びっくりしていた。彼は一部始終見ていたようで何だか楽しそうだった。
「遅かったじゃねえか。おかげでいらん体力使ってしまった」
翼さんはななしろまさんに愚痴った。しかしななしろまさんは表情変えることなく
「だって、わりこんじゃあ失礼かなと思って」
悪戯っぽく笑った。
「俺はコイツの教育係じゃねえんだよ」
翼さんは呆れてパソコンの机にもたれた。
「それよか、役所に行くんだろ」
「事は迅速に、だからね。とはいったものの、今日は五時まで仕事だから行くのは明日だね。」
「じゃあ、朝一で直行だな。わかったか?」
翼さんはようやく立ち上がった貴結に念を押した。
「はい、行きます…」
彼は脅されて強制的に答えさせられて硬直していた。
「未良ちゃんもそれでいいかな?」
「はい、お願いします」
私は快く返事した。
「あ、そうだ。帽子を持ってくるの忘れないようにね」
(帽子…?)
「はい…」
私はとりあえず記憶にとどめておいた。
予定が決まるとななしろまさんはぐっと伸びをした。
「さあてと、あと十五分休憩あるし、ちょっくら外に出よう。皆は行かない?」
彼の誘いに真っ先に
「行く行く!」
とハッチュウが申し出た。
「三人は?桔梗が綺麗だよ」
ななしろまさんは窓の外を指した。
この階からだと高くて花の様相は鮮明ではなかったが、役所前の広場には噴水を中央に休憩している人や通りかかった親子連れなどでにぎわっていた。私は気になったのでハッチュウに続いて前に出た。
「三人で行こうか。」
私とハッチュウに言うとななしろまさんは翼さんと貴結に向かって
「気が向いたら来なよ。」
と手を振って部屋から出て行った。

 広場に出た私たち三人は、門から役所入り口までの直線通りの両側に植えられている桔梗に見惚れていた。決して派手ではなかったが、脇にひっそりと咲く紫と白の花々は風に吹かれたせいか内側に体が沿っていて、それが道行く人々にお辞儀をしているようにも見えて奥ゆかしく、しかし、その地にしっかりと踏みとどまり凛と存在していた。
散歩がてら気軽に寄っていく人もいるようで、中には写真撮るのを目的に来た人も見られた。
広場はちょっとした桔梗祭になっていた。
「あれキレイ!」
ハッチュウは叫ぶとタタタと噴水近辺の特に桔梗が密集して咲いている地帯めがけて走り出した。
私は追おうとするとななしろまさんがすっと私の前に出た。
「オレが行ってくるよ」
彼は微笑むと軽やかに走っていった。
(あ、ああ…)
私は言われたままに動かずそこで二人の様子を見ていた。
ハッチュウは桔梗に喜んでピョンピョン飛び跳ねていた。そこにななしろまさんが駆けつけてしゃがむと、ハッチュウと一緒に話を始めていた。
私が一人遠くから眺めていると後ろから
「やれやれ、どんなことになってるかと思えば…」
と翼さんの声がした。後ろには貴結をしっかり従えていた。
(結局来たんや…)
私は思いながら再びハッチュウたちに視線を変えた。ハッチュウとななしろまさんは新たな見物人に気がついて彼らに手を振った。
「キューイ、おいでよ!」
ハッチュウが大声で叫んだ。
貴結は「え?僕?」という顔をして自分を指差していたが、他に“キューイ”に相当する人物はいなかったため、彼は恥ずかしそうに頭をポリポリかいてからゴムノキの鉢を抱えたまま、私たちに軽く頭を下げ走って行った。
「あいつも自主性が足りんな」
翼さんは貴結が二人の元にたどり着くとポソリつぶやいた。その声は少し笑っていた。
私は会話の波に乗れるよう続けて言った。
「ハッチュウはマイペースですから…ななしろまさんとは結構気が合うみたいですね。」
「まあ、あいつは半分植物だからな」
「ええ!?」
私は耳を疑った。
「ああ、母親が人間、父親が植物なんだってよ」
翼さんの言葉はなぜか重たく感じられた。
「だからって別に理由をつける気はねえけど、本人は向こうより植物世界のが住みやすいんだと。割りにあうとか…でも、内心は複雑だろう。双方の血を受け継いでるってのは人間の世界では困ることが多い。人は二分化が好きだからな」
彼の言葉は人間世界に対する皮肉に聞こえた。彼は前方の三人を眺めながら話していた。
三人はハッチュウの冗談かなにかに笑って楽しそうだった。
「ああやって何も悩みなくへらへらしてても、その裏には俺も計り知れない強さがある、と思う。ヤイコダマとは直接関わり無い課にいるってのに、これが絡む問題になると黙って見られんタチらしくてな。
二年前になるか、役所の預かり所にいたヤイコダマが三匹、職員が目を話した隙に逃げてしまった時があった。そのときあいつは夜通しそこらへんを走り回って三日かけてヤイコダマを連れ戻して帰ってきたんだ。窶れた顔見てぜってえこりごりしてるなって思ったら、案の定あいつは笑って言ったんだ。“死なせなくてよかった”と。それ聞いたときは正直呆れたけどな…でも、自分のことよりも他人を優先するのを見て肝の据わった奴だと感じたんだ。心から強い、と。
強いっていうのは単に力のことだけじゃない。強い者がいれば必ず弱い者が存在する。強さは時に権力と結びつき弱者を支配する。そんな強さは誇りにはならない。真の強さは、思いやる心ではないかと思う。自分が完璧でなくとも他人を思いやり気遣う…そんな基本的なことを人間たちは自分たちだけしか眼中にないから自然との関係も気まずいんだ」
彼は間をおいた。
私は後ろに小さなカラスノエンドウがちょこんと立っているのに気づいた。翼さんの目には入っていないようだった。
「堅い話して悪かった…まあ、要は貴結は高慢な奴にはなってほしくねえってことさ。俺も言える筋合いではないが」
彼は言い終えて初めて笑顔、といっても完全に顔をほころばせたわけではなかったが明るい表情を見せた。私も心が晴れやかになった。
「翼さんもななしろまさんも広い目を持ってるんですね」
私は二人の固い絆をかすかに感じ取った。
「いいや、俺は…あいつにはかなわんよ。これ、あいつには言うなよ」
彼はふっと笑った。
そこでさっきから立ち聞きしていたカラスノエンドウが、私たちの前に転がるようにして飛び出てきた。彼は翼さんをじっと見つめた後
「兄ちゃん、かっこいい」
と言って走り去った。
ポカンとしていた私たちだったがすぐに翼さんは照れくさそうな顔になった。
「植物はな、正直だよ」
傍らにいた私は今にも噴出しそうだった。


 翌朝私とハッチュウは彼らとの待ち合わせの時間九時半にバス停で待っていた。
ベンチには女子高生パンジーが座っていた。女子高生と判断できたのは下げているカバンに恩着高校とかかれている上に、いかにもジャマくさそうなどでかいぬいぐるみのキーホルダーが数個付けられていたからであった。
そんな植物の光景も徐々に見慣れてきた。私がハッチュウと行きかう車を眺めていると
「おはようございます」
やけに意気込んだあいさつを右耳がとらえた。
「おはよう」
振り返った私は心でも入れ替えたのかと仰天して貴結に返した。見たところ、昨日よりパワーアップした気配は全く見られなかった。
彼がやってきたのに続いて反対方向からでこぼこコンビがやってきた。
「遅れてごめんね」
小走りで手を大きく振りながらやってきたななしろまさんと、むっつり顔の純人さんの格好に私は度肝を抜かれた。二人ともくすんだ色の上着を着ていておまけにフードもかぶっていたからである。
「おはようございます…辺境地にでも行くみたいですね」
私は率直な感想を述べた。
「これは人間ってバレにくくするためだよ。恩着では必要ないけど向こうでは危ないから」
ななしろまさんは隣にいた翼さんを見上げた。
「ああ、植物は視覚は殆どないかわりに触覚が異常に発達している。だから対面しただけでは向こうも人間と認識しないが、触れるとすぐにばれる。とりわけ髪の毛は彼らにはないからな。それだけでもう豹変する奴らも多い。儚木には」
「それで、色も派手じゃない素材も綿や麻が目立ちにくくていいんだ。君たちに帽子持ってくるように言ったのもそのためだよ」
二人は交互に説明してくれた。
「何かぶっそうなところみたいですね」
私はかぶっていた帽子をぎゅっと飛ばないように押さえた。
「人間には特にな」
翼さんは声を低くしてボソリといった。
(う〜ん、結構これはうかうかしてられへんみたいやな…)
私は晴れた爽やかな日だというのに、背に悪寒が走った。
「バスが来たよ」
ななしろまさんの声が底抜けに明るく聞こえた。
バスに乗り込むとちょうど一人席が二つ、横向きの二人席が空いていた。翼さんとななしろまさんはそれぞれ一人席に座り、私と貴結とハッチュウは横並びに椅子に腰掛けた。
「降りるのは儚木区役所前だよ」
ななしろまさんが後ろから私たちに教えてくれた。
バスが発車し、動き出すと周りの風景が奇妙だった。歩いている人達が道に点在する植物のようでともすれば歩道は誰も歩いてないようにも見えたのだった。私は興味深く窓の外を眺めていると、一駅目でバスが止まった。そこでは一人の大きなリュックサックを背負ったケイトウが乗ってきた。ケイトウは座る席がないのを見ると前までやってきた。
「あの人のカバン、蟷螂ついてますよね」
ボソリと貴結が私に言った。
彼の発見したとおり、ケイトウのリュックサックに一匹の蟷螂がついていた。ケイトウは知らずにバスの一番前のつり革につかまった。貴結は蟷螂が気になったようでうずうずしていた。しかし、声をかけてとってやったところでその蟷螂を窓の外に放り出すわけにもいかない。と彼が蟷螂から窓へ視線が動くのを見て私は推測した。
そのうち蟷螂はリュックから背中をつたって下に下りてきた。バスの床に足をつくと一旦とまった。そうして出口方向に歩き出すとバスが揺れて蟷螂がふらついた。が、すぐに体勢を立て直すとまた一歩ずつ進みだした。私も貴結につられてその様子をじっと観察していた。蟷螂が出口の階段の段差まで来るといきなりキキーッ!とバスが急ブレーキをかけた。
「あ!」
と言った時には私はハッチュウの鉢をつかんでいた。
バタン、バタン、ガン!
バスから投げ出された私とハッチュウは地面に手をついた。貴結は顔面から直撃して突っ伏していた。
私は急いで後ろを振り返った。バスは既に遠くなってしまっていた。
(何が起こったんや…)
私はつい数秒前の出来事を思い返した。
(急ブレーキかかったときに貴結が蟷螂を守ろうとして飛び出していったら、そこでちょうどよく出口のドアが開いてしもて反動で落ちそうになった彼をハッチュウが両手で彼の腕をつかみ、そんでわたしが反射的にハッチュウの鉢に掴まって…バランス崩して三人とも外に放り出されたわけか)
冷静に分析し終えた私はここがどこなのか確かめようとバス停の標識を見た。“儚木九条”と書かれていた。
「あ、蟷螂…」
つぶやいた貴結の声に私は前を向いた。
起き上がった貴結は両手の中につかんだ蟷螂が無事なのを確認して喜んでいた。彼は蟷螂を手の平に乗せたまま立ち上がると道脇の草むらに行き蟷螂をはなしてきた。
私は心温まる思いで眺めていた。ところが、彼が満足げに微笑んでこちらに戻って来ると彼は私とハッチュウの存在にすごんだように血相を変えた。
「すみません、すみません!僕のせいで先輩たちとはぐれてしまったのに!呑気なことしててすみません!」
彼はしつこく何度も頭を下げた。
「ええ…そ、そんなことないよ。貴結くんはエライことしたよ。それに一人おいてかれるより三人でよかったやん」
私まで謝ってしまいたいくらいフォローに煩った。彼は自分で自分をしかるように右拳で頭をコツンとやるとあたりをキョロキョロ見渡した。
「ここは区役所の近くなんでしょうか…」
「バス路線図見るとこっから南にずっと行くらしいよ。歩いていってもええんちゃう。」
私が提案すると彼は
「そうですね。そのほうが先に着いた先輩たちとも会えるだろうし」
とまだしょげた表情だった。私はそんな彼を励ます手段に出るためハッチュウを一瞥した。
「じゃあ、行こう」
「どんまい、キューイ!」
「はい…すみません」
私らが言葉足らずだったのかそれとも彼が小心者すぎたのか、とにかく鼓舞激励は限りなく失敗に近い状態に終わった。