はっぴぃーす(3)
 私たちはひたすら南を歩いていた。
区役所というくらいなのだから目に付くおおきな建物がそのうち見えてくるだろうという安易な考えはあまり妥当な案ではなかったらしい。
二駅過ぎたところで通りにお店が多くなってきた。恩着と同じような商店街のようだった。
靴屋さん、帽子屋さんと続く中、私はスーパーの前ではたと足を止めた。
「どうしたんですか?」
先を行こうとした貴結は不思議そうに尋ねた。
「植物の人らってどんな物食べてるんかなあって思って。ちょっと見てきてもいいかな」
「そういえば気になりますよね。でも、僕はあの群集の中には…」
彼が遠慮がちに言った原因はスーパー入り口付近に設けられた激安コーナーに群がる植物達だった。かごを持った主婦植物達が押し合いへし合い商品を物色している姿は人間のそれよりも愛嬌があって頼もしかった。
「無理せんでいいよ。ハッチュウと外で待っといてよ」
「はい、じゃあ出口がすいてそうなのでその辺で待ってます」
「見て回ってすぐ戻って来るから」
私は二人に告げると一人でスーパーの中に入った。
激安コーナーの群集をよければ後はそこそこの人数の植物がいた。
(植物も野菜食べるんや…)
私は朝顔が一玉九十八円のレタスを買い物籠に入れたのよりも、野菜を売っていること自体に奇妙な感覚を覚えた。共食いにはならないのか植物界のシステムも人間界と何から何まで同じというわけではなさそうだった。
魚や調味料売り場も見たところ、特にこれといってめまぐるしい変化はなく売り手買い手が植物だということを除けば全く向こうと変わらなかった。
(儚木っていっても普通の人はいるんやん)
私は主婦の会話や子と思しきタンポポが母親にお菓子を買ってとねだっている光景を見ながら微笑ましく店内を回っていた。
惣菜売り場を過ぎると精肉売り場に来た。対面販売の隣にはパック詰めの肉が陳列されていた。私は他と同じように種類を確認した。
(牛、豚、鶏、鴨…)
そこで見慣れないものが目に入った。私はパックを手に取り値付けシールを読んだ。それを見た途端私は一気に血の気が引いた。
“髪、頭皮つき”黒色の十センチほどの毛の塊が透明なスポンジ状に綺麗に揃って入っていた。それは人間の肉だった。私は硬直した手でパックを持ちながら周囲を見渡した。そこで反対側からやってきた客の一人が肉を選んでいると豚肉をとった。
私はなぜかそこで一息ついたが、手にしているものに再び目をやると次第に手が震えてきた。
ここで動揺してはいけないと何度も落ち着こうとして、私は唾をゴクンと飲み込むとパックを元の位置に戻し対面販売の店員に尋ねた。
「あの、すみません」
「はい、いらっしゃい!」
威勢のよい声でフジが応対した。
「一番左端にある肉っておいしいんですか?」
私は“人肉”とは口にできず位置で示した。
「栄養は豊富ですよ。でも、ちょっとクセがあるので好きなお客さんは好きですけど、嫌いな方は無理っていう方の両極端が多いですね」
フジは弾んだ口調で説明してくれた。そのさっぱりした態度に私はいっそう恐怖を掻き立てられた。
(儚木は人を食うんや…人も植物食べてるけど…)
私は残酷と思いかけて取り消した。それをいえば、牛や鶏を何食わぬ顔で食べている私たちだって同罪なのだ。しかし、この肉はどこの誰なのだろう、この人もヤイコダマを探していたのだろうか、そこで不運にも食料にされてしまったのだろうか…と同胞への哀悼の念は知らず知らずのうちに起こってきてしまうのだった。
貴結やななしろまさんは、この世界は人間と植物が入れかわった世界、と言ってくれていたけれども、実際は人間世界に募る不安と憤りを反映した世界がここなのではないか、と儚木区長の人間嫌いあるいは人間の肉が売られていることを目の当たりにして感じ取ったのだった。
私は一秒でも早くここから出たいと思い、レジのある出口に向かおうとして一人の花とぶつかった。
「すみません」
私は謝って即座に去ろうとするとその花が
「あら?髪?」
とつぶやいた。私は急いで振り返りその人のかごの中を見ると、白い牛乳パックの上に一本の茶色い髪の毛が乗っていた。
(まずい…!)
私はその髪が自分のだとわかった。嫌な空間から早くずらかろうと一歩踏み出すとやはりよくないことは起こった。
「人間だわ!ここに人間がいるわ!」
花は店内じゅうに響き渡る大声で叫んだ。すると店内がざわめき始めた。私は入り口から出ようとどよめく人ごみの中たどり着くと三人の植物が制した。
「待てえっ!!」
そのうちの一人は刺身包丁を振り上げて襲い掛かってきた。
私は慌てて引き返した。
(刺身にされたくねえ!)
私は必死の思いで店内を駆け巡り出口を目指したが、行く人々が走り回っている私が人間と認識すると目はないけれども葉の色を変えて私につかみかかってきた。私はその手を振り払っていると出口から
「こっちです!」
と貴結が群集に突っ込んで手を差し伸べた。
私はがしっっとつかんだ!と思いきや、つかむのと彼が引くのとが同時だったため、彼は私の指先を持って走り出していた。
(いででで…!!)
私は特に第一間接を思い切り握られていてつりそうで顔をしかめた。しかし、今は安全な場所へ避難する方が優先だと思い少々の痛さは我慢した。
店から出て百メートル地点で右に曲がるとそこで止まった。店員と客たちは見失ったと思ったのか諦めて帰っていった。
「ふうー」
私は力が抜けてそこにしゃがみこんだ。
「ご主人、ヒドイ目にあいませんでしたか?」
「うん、大丈夫。ありがとう」
ハッチュウは心配そうに鉢を傾けた。
「すみません。僕がいながら」
貴結は謝った。この少年、事あるごとに謝ってばかりいるような気がする。
「ううん、わたしが悪かったんや。長居してしもたから」
私は密かに小指をさすっていた。
「隣どうしでこんなにも違うんですね。先輩たちがいないと不安です、地理も詳しくないし…」
貴結はあたりに警戒しながら話していた。私は彼が少しだけ成長したふうに感じられた。
「といってもどこにいるのかわからないですけど」
「もう役所に乗り込んでたりして…」
私が何気なくつぶやくと貴結は
「見知らぬところを変にうろつくより到達地に向かった方がかしこいですよね」
と頷き路地から出て安全を確かめた。そうして私とハッチュウにも出てくるよう促した。
私は帽子をしっかりかぶりなおすとできるだけ人ごみを避けて歩いた。商店街を抜けてもう少しで交差点にさしかかるというところで前方から煙が迫ってきた。いや、植物の群集の土埃が舞い上がっていたのだった。私たちは足を止めた。群衆はまっすぐこちらに向かってきていた。
「端へ!」
貴結の声に私とハッチュウは脇の八百屋にさっと避けた。数秒経ってからダダダーッと植物達が一斉に目の前をかっ飛ばしていった。
「一体何?」
私は道の真ん中に出ると前を見て仰天しかけた。こちらへ向かってくる巨大蜘蛛がいたのだ。
「でっかいの!」
ハッチュウは震え上がった。
「どうする?」
私は行く手を阻む蜘蛛の様子を眺めていた。
蜘蛛は道幅いっぱいの巨体を周囲の植物達に見せ付けていた。通行しようものがいればその前足でつかんで民家や茂みの中にほうり投げていた。進む過程に障害物があれば構わず破壊して突き進んでいた。私は緊張しつつ隣の貴結の反応をうかがった。
「放っておくわけにはいかない…」
彼は恐々言ったが、その心意気に何か変化が現れた気配を私は感じた。
「うん、ここで尻尾巻いて逃げるわけにはいかんよな」
私も流れにのって賛成すると彼は
「え…はい。」
と少し躊躇した。
私は彼も葛藤状態にあるのだろうと察し、隣で頷くだけにしておいた。
そうこうしているうちに蜘蛛が目の前に立ちはだかった。
「ハッチュウは隠れてて」
「わかりました。気をつけてください。」
私は足元にいたハッチュウに告げると彼は八百屋の隅に避難した。
蜘蛛は前方に私たちを感知し動作を止めた。
「そこをどけ」
「しゃべった」
私は思わず率直な感想が口をついて出た。
「いや、実行犯を見過ごすわけにはいかない。」
貴結は私と会ってから初めて毅然とした態度を見せた。彼の豹変の要因に私は蜘蛛のすぐ後ろの草むらを見て察知した。草むらの花々が無残にも踏み倒されていたのだった。
「人間の分際で生意気な」
蜘蛛は怒り前足を上げて威嚇した。
しかし貴結はぎゅっと拳を握りしめたまま言い放った。
「僕にもあなたにも植物を傷つける資格はない!」
口答えする人間に蜘蛛はとうとう痺れを切らして
「邪魔だ!」
と前足で彼を蹴散らそうと振った。
「わっ」
彼はすんでのところでそれをかわした。しかし、蜘蛛の攻撃は容赦なく続いた。
蜘蛛の巧みな足さばきに貴結はかろうじてかわし、左足で「えいっ」と蹴ってみたが逆に跳ね返されて地面に投げ出された。
「大丈夫!?」
「平気、平気です。あいたたた…」
彼は笑いながら明らかに痛そうな表情を浮かべていた。
と、急に私たちの上が暗くなった。ハッと見上げると蜘蛛がのしかかろうとしていた。
「とりゃ!」
蜘蛛が前に揺れた。と同時にゴンとぶつかる音がした。
蜘蛛の足の間から見えたのは渋面の翼さんだった。
「先輩!」
貴結は即座に体を起こした。翼さんはくっと唇をしめると
「こんな奴屁でもねえ!」
と蜘蛛をわざと挑発して私たちから気をそらせようとしてくれた。そして、手にしていた石を蜘蛛の尻に投げつけた。彼の狙い通り、蜘蛛は私たちから離れると今度は翼さんに標的を変えた。
翼さんは蜘蛛と対峙しながら言った。
「大きい強い者こそ弱い者をいたわるべきだろう。お前は忘れている」
彼の口調は蜘蛛に語りかけるようでもあった。
「図体がでかいからといって他の者を見下してはいかんのだ。」
彼は戦わずに蜘蛛がこの場を去ることを意図していた、がその願いも虚しく蜘蛛は
「それを行っている張本人に言われたくはない」
と返答するなり彼に襲い掛かってきた。
翼さんはチッと舌打ちし、仕方ないというように身構えた。
そして蜘蛛が足を上げて飛びかかろうとすると、その体の下に滑り込んで腹に一発パンチを食らわせたが、すぐにべコンと戻った。彼は今度は蜘蛛の後ろ足を両手で持ち上げた。蜘蛛はギーギーとうめき声を上げた。翼さんは足を持ったまま蜘蛛を投げつけようとしたが後ろ足で彼の腹をたたいた。その攻撃で不意に手を離してしまった翼さんは蜘蛛に私たちのところまで飛ばされた。
「くそっ」
彼はなかなか蜘蛛を抑えられずに苛立っていた。
そこで彼の表情が一変した。
「シロ?どこ行ってたんだよ?」
その怒り口調は私らの方向に向けられていた。
私は後ろに振り返るとどんな状況下でも笑顔のななしろまさんが立っていた。彼は翼さんが怒って焦っているのがわかっているにもかかわらず蜘蛛を眺めて言った。
「苦労してるようだね。」
「他人事にしてる場合か。お前も何かしろ。」
「えー?だってオレ格闘派じゃないし…いい案ならあるけど」
「なんだ?」
翼さんは微笑むななしろまさんに胡散臭げに問うた。
ななしろまさんは斜め後ろにいたハッチュウに振り返った。
「ハッチュウ、そこのリンゴ一個とってくれる?」
「オッケイ!はい!」
ハッチュウは店先に積まれていたリンゴを一つ取るとななしろまさんに向かって投げた。
「さんきゅ」
彼は右手で受け取るとそれを翼さんに見せた。
「リンゴなんかどうすんだよ」
「だから、これをこうやって…」
ななしろまさんはりんごを持った手を反動つけて投げた。
「投げると、ホラ…」
バコンと額に当てられた蜘蛛はそのままドスンと倒れて気絶した。
「ツボにあたって動けなくなるっていう手がね」
彼は始終笑顔のままでことを成し遂げた。
すごい、というかちょっとインチキな気もしなかった。私は感動したがそれ以上に彼や翼さんがおいしいところをかっさらっていってしまい貴結がまたもや落ち込んでしまうのではないかと懸念した。翼さんは慣れているのか冷めた顔をしていた。
「それ思いつくのお前くらいだぞ」
「ありがとう」
翼さんの嫌味にななしろまさんは素直にお礼を述べていた。
同じ空間に明暗ができるわ…と思った私は隣を振り返ると予想外れ、暗はなかった。
貴結は尻の痛さもどこいったのか、今は二人の活躍に目を輝かせて一連の出来事の余韻に浸っていた。

 蜘蛛を足止めできた後私たちは五人揃って儚木区役所を目指した。
前を行く翼さんとななしろまさんに遅れぬよう私はハッチュウを抱えて歩いていた。貴結は余韻から覚めてまっすぐ前を向いて私の左隣を歩いていた。
「しかし、あんなでっけえ蜘蛛がいたとはな」
翼さんの発言に私も同感だった。なぜ、あんなに大きくてしかも凶暴な蜘蛛が現れたのか疑問だった。
「儚木区長の仕業だよ。人間に対抗するために植物や虫を強化してるっていう噂が役所に流れてきたんだ」
ななしろまさんが答えた。
「人間に敵意を持つのは結構だが、あれじゃあ植物への被害がひでえもんじゃねえのか。まさか同胞まで巻き込むつもりはないだろう」
「つもりはなくても巻き込みざるを得ない状況なのかも。区民の大半は人間は有害との意識を植え付けられてるようだから、それを排除するには少しの我慢も必要ってとこだろう」
「一体ここの区長は何考えてんだか…」
翼さんは憤りを超えてやるせない横顔だった。
私もとても悲しくなってきた。人間を攻撃することもよろしからぬ行為であるが、狙いが人間なのに他の生物や植物を脅かすというのはあってはならない道理に悖る行為である。区民に意識を植え付け正当行為だと言い張り、真意を隠したまま自分たちは陰で犠牲も考えずにただ狙いを消滅させるためだけに猪突猛進している状況…このような世界を私はどこかで見た気がした。
私たちは疑問を抱えたまま儚木区役所前までやってきた。
狭い路地を数百メートル行ったところに林がありその隣に建物が建っていた。つくりは恩着と同じような感じだったが、こちらは三階建てだった。
私たちは役所の中に入った。取調べを受けるわけでもなく身体検査されるわけでもなく、そこには役所のごく普通の光景があった。私があたりをキョロキョロ見渡していると
「区長ってここにいるんですか?」
と貴結が二人に向かって言った。
「午前十一時から午後十二時半は自由面談時間をとってくれてるんだ。多分部屋は…」
ななしろまさんは柱の案内図を見に行き確かめると戻ってきた。
「三階の広間Aだよ」
彼はエレベーターに視線をやった。
私たちは隅のエレベーターに乗るとハッチュウが三のボタンを押した。
「ヤイコダマいるかなあ…」
「どうやろう…」
ハッチュウの問いに私が返答しかねていると翼さんが
「ここにいるな。そんな気配がする」
と腕を組んで言った。
三階に止まると私たちはエレベーターから下りて、まっすぐ歩き四部屋めの広間Aの前までやってきた。ドアは開けてあった。部屋の外から見たところ中はかなり広いようだった。会議用の机が長方形に並んでいてそこに椅子が三つずつ置いてあった。その向こうには両サイドに柱が三本ずつ立てられており、ピカピカの白いタイルが一面に広がっていて、階段を三段上った部屋の左脇には黒いカーテンで覆われた本棚があった。そして、その奥は隣の建物と繋がる廊下が見えた。
「いるぞ。」
翼さんの声に私は首をかしげた。
中には人影は全く見当たらない。いるのは廊下入り口の壁際の机に向かう山茶花だけ…あ、もしかしてあの山茶花が…私はてっきり区長が人間だと思い込んでしまい山茶花を住民と認識していなかった。
私が区長と思われる人物を確認すると、ななしろまさんが
「入ろう」
と先に部屋の中に入って行った。
その次に翼さん、私、ハッチュウ、貴結の順に入った。
パタンとドアを閉めるとその音に気づいた区長がこちらを振り返った。
「これはこれは…ようこそ」
区長は少々躊躇した口ぶりで部屋奥から下りてきた。
ななしろまさんと翼さんが一礼すると私と貴結もあわててそれを真似した。
「固くならなくてもよいですよ。こちらへおかけ下さい」
区長は穏やかに私たちに席をすすめた。しかしそれを
「いや、そんなに悠長にしている暇はない」
と翼さんは即座に断った。
区長は一瞬顔をしかめた。翼さんは単刀直入に話を切り出した。
「あなたが捕獲したヤイコダマの解放を願いに来た。恩着区特別調査によると、人間界から流れてきた多数のヤイコダマを所有者が引き取りにきたにも関わらず、利己のために引き渡さなかったことが証明されている。これは明らかにヤイコダマの生権侵害及びそれの所有者の生命危機を脅かす行為であって憲法に反する」
翼さんはいつもとはうってかわって堅い口調で話していた。
彼は区長への要求を言い終えると区長は手にかけた椅子から離して私たちの前に立った。
そして彼はしばらく沈黙したあと
「利己、とは少し違うな…」
とほくそえむ様につぶやいた。
「対人間の意識を住民に植え付け、反抗勢力として補っているのもわかっています。」
ななしろまさんは真剣な表情で言った。
「ムケを執拗に集めている理由はなんなんだ?」
二人に問責を受けて黙っていた区長だったが、話を聞き終えると急に悪質な雰囲気になった。
「そこまで知られていたなら隠す必要もあるまい」
私はとっさに周りの人々の様子を確認した。
翼さんとななしろまさんは警戒態勢になっていて、ハッチュウは困惑したかのようだった。そして貴結は恐れと怒りとためらいと、さまざまな感情が混合していたのか緊張した面持ちで左足を前に出して踏ん張っていた。私は気持ちをいっそう引き締めて区長の方を向いた。
「あなた方が言うとおり、私は儚木にやってくるヤイコダマを捕らえていた。植物を強化するために」
「強化する?」
翼さんが聞き返した。区長は後ろを向き前に歩きながら話した。
「そう、ヤイコダマは生命力に溢れた生き物。更に植物に寄生しないと生きられぬ運命を背負っている。だから、そこでヤイコダマを分割し雑草と称される植物たちに取り込ませてより強力化させたのだ。人間と対抗させるために。こちらはわれわれが主体の世界。そこでも人間に大きな面をされるのは御免だからな」
区長はぴたりと足を止めた。
「人間を排除したいのなら、人間だけを攻めるべきであってヤイコダマやその他の生き物は関係ないのでは?」
ななしろまさんが静かに問うた。すると区長は笑いを押し殺しながら答えた。
「わかってないな。我々は能力で差別する人間とは違う。皆が同じだ。しかし、その機会を持てぬ植物がいる。空き地や野山に生きる植物も大いに能力があることを教えてやっているのだ。
だいたい、ヤイコダマは植物との相互関係であってその他の生物には関わりない。向こうで植物を大切にしない輩がヤイコダマを引き取りにきてもまた同じことになる。そんな悲劇が続くのならばヤイコダマをより画期的に利用することが得策なのだ。こちらの植物に取り込めばヤイコダマも悲運を辿ることはない。私の計画にも一石二鳥だ。多少の犠牲が出るのはやむをえない」
「同胞を見殺しにするってことか」
「その根源はあなた方なのだ。最も、私はそれを食い止めるために強力化を行っているのだ」
「理解できんな」
「まあ、人間には到底無理だと思うが…」
区長は完全に私たちをけなしていた。
「ここまで聞いて問うのもバカらしいけど、ヤイコダマを解放する気はないんですね?」
ななしろまさんが念のためにもう一度区長に尋ねた。
「もちろん。特にムケ種は他のヤイコダマと違い強靭なる生命力を持っているから手放すわけにはいかない」
区長は断固として要求を拒否した。
翼さんとななしろまさんは顔を見合わせた。
「どうする?」
「どうするもこうするも、大人しく引き下がるわけにはいかんだろう…お前もその気がないなら」
「そうだね」
ななしろまさんは軽く笑った。
「痛い目を見ないうちに早く退出したほうがいい。」
区長は脅し文句を私たちに投げつけてきた。しかし、そんなもので引き下がるつわもの達ではない。
「解放するまで出ねえ」
翼さんが皆の意見をまとめて言ってくれた。
区長はふっと鼻笑いした。
「では出て行く気になるようにしよう。出番だ!」
区長の声とともに廊下から現れたのは顔のついた二人のオニユリだった。
(キモい…)
私は驚愕するよりその容貌に強烈な印象を受けた。
顔のついたというのは詳しく言えば、目・鼻・口等の顔にあるパーツが全て花にくっついているということである。橙色の花に暗紫の斑点、花は平面ではなくでこぼこしているから当然顔も整っておらず顔はあるけれどもバラバラで、福笑いでめちゃくちゃな顔ができあがった時の苦笑がこみ上げてきてもおかしくはなかった。
しかも、そのオニユリたちは通常よりもトレーニングを積み重ねた成果のように葉や茎ががっしりと太くなったおかげで元来の茎にもある黒紫色の斑点模様がグロテスクさを増し、私が葉を手足と呼んでいたのも、彼らには人間でいう手の平と足なる鋭利で頑丈な葉が別にきちんとついていた。見るからに人工物、この場合植工物というべきなのか…とにかく私が数日で眼にした植物たちとは明らかに異なる人間植物だった。
「これらが区の、いや全国に広まる我らの新たな姿だ。もう、人間なぞに劣ったりしない。」
よほどの自信作なのか、区長は二人のオニユリを見て声高らかに笑った。
私たちはこの新奇な植物に初めはたじろいでいたが翼さんが口を切った。
「悪趣味なものを作るな」
その声に区長の耳がピクリと動いた。
「それはどうだろう」
彼は二人のオニユリにあごでなにやら合図を送った。すると右側のオニユリは頷きスッと一歩前に出ると消えた。
翼さんは身構えていた体勢を立て直しオニユリの姿を探ろうと左右を見回した。
「上です!」
貴結が叫んだと思った瞬間、天井を見上げるとオニユリが翼さんの真上から急降下してきた。そして、口を裂けるほどあんぐりと開けたかと思うと白い煙を吐いた。
その煙は翼さんに直撃しそうになった。彼は即座に右腕でそれを防いだ。
煙が晴れて何事もなかったかのように思った私は、翼さんの腕をみてぎょっとした。煙を防いだ腕にはナスの実がボコボコ湧き出ていたのだ。それもどんどん巨大化し、終いには彼の右手首から肘のあたりまでが紫色のナスで埋め尽くされてしまった。その重量に耐えられなかったのか翼さんは左手で右腕を支えた。
一行は区長に振り向いた。彼の隣には元通りオニユリが侍っていた。
「凄まじい力だろう。彼らの息に触れると人間に植物の実がなるのだ」
区長は翼さんを見てクツクツと笑った。
「おい、元に戻せ!」
翼さんは区長に言って左手で右腕のナスを叩いたが、異常な弾力ではじきかえされて爪あと一つすらつけることができないようだった。
「残念だが、戻すにはこの水を振り掛けるしかな。」
区長は左手に握っていた小さなガラス瓶を取り出した。その中には薄水色の液体が入っていた。
「ここで大人しく引き下がるというのなら、これを渡そう」
区長は液体の入ったビンを持った手を私たちの前に差し出した。
「んなことできるか」
翼さんは即答した。皆も同感だった。
徹底的に私たちが下がらないことを知った区長は、笑うのをやめて厳しい表情でオニユリたちに言った。
「では、その気になるまでお前たちに任せる」
そして足早に奥の廊下から部屋を出て行った。翼さんが後を追おうと前に踏み出すと命令を受けたオニユリ二人が行く手を阻んだ。
「とんだことになったな」
支えていた左手を放しなんとか両手を使おうとしていた翼さんにななしろまさんが
「早くケリをつけないといけなさそうだね」
と笑った。
「僕も、僕もやります」
しばらく発言していなかった貴結が学級委員立候補するかのごとく勢いよく声をあげて、翼さんの右隣に出た。その姿は決して勇猛果敢とは程遠く洗練されていなかった。それでも、彼は怖気づくことなく相手のオニユリたちを一身に見据えていた。
そのかわりぶりに翼さんはふっと笑うと
「二分で片付けるぞ」
と駆け出した。貴結は一瞬何かいいたげな顔つきになったが、ぎゅっと唇をかみ締めると彼に続いてもう片方のオニユリに向かって走り出した。
「君達はここで待ってて」
ななしろまさんは私とハッチュウに告げるとこっそりと廊下から部屋を出て行った。液体を持っている区長を追いかけにいったのだろう。
私はやきもきしながら翼さんと貴結の奮闘を眺めていた。
翼さんは利き腕に支障があるにもかかわらず、それが苦となっているのかどうかわからないくらい力強いこぶしをオニユリに繰り出していた。オニユリもそれに負けず劣らず彼の攻撃をかわしながら新しく派生した足で蹴りを入れていた。一方、貴結は勢いは初めだけで、一発パンチを入れて以来ずっと攻め続けられていた。
「わっ、くぉっ、おっ!」
絶えず促音を発しながら上手くかわしていたのは一種の技ともいえなくはないが、かわすだけで体力を消耗しきってしまうのではないかと心配だった。彼が悪戦苦闘している最中、翼さんの方は早くもケリがつきそうだった。彼は隙を狙い左うでをオニユリの腹部に回すとそのまま抱えて上に高く持ち上げた。オニユリはじたばたともがいていた。
「俺は別にお前を殺す気はねえ。大人しくしてるっていうなら下ろしてやるさ」
翼さんは上を向いてオニユリの答えを待った。オニユリは降参、というふうに首をブンブンと縦に振った。
翼さんは確認するとオニユリをゆっくり床に下ろした。貴結よりも扱いが丁寧だった。地上に立ったオニユリはへなへなになって壁にもたれこんだ。翼さんは宣言通り二分で事を成し遂げた。
貴結といえば、まだてこずっていた。パンチのひとつも決めることができていない彼に翼さんが助け舟を出しにいった。
「もう三分たったぞ」
翼さんは貴結に向かって腕を振り上げているオニユリの背後に回り、その腕をがしっと掴んだ。掴まれたオニユリは口を開けて驚いていたが彼は有無を言わせずさっきのオニユリがもたれこんでいる壁に向かって放り投げた。
壁にぶち当たる寸前で着地したオニユリはよろめいてその場に座り込んだ。
「あともう二息だな」
翼さんは防御の達人にはなりつつある貴結に少しほめるよういった。
私はほっと胸を撫で下ろしたその刹那、オニユリたちの不振な動きを視界が捉えた。
(危ない!)
駆け出したときには既に遅かった。私は二人と一緒に煙に巻き込まれた。足首辺りがむずがゆくなってきた。足元を見て見ると、両足首にトマトが成っていた。
(ぎゃ〜!!)
私は心地の悪さに鳥肌が立った。片足でもう片方の足首のトマトをそっとつっついてみた。
出来物のようであるが、皮膚にぴったりくっついてしまっていて蹴った振動が皮膚に伝わってきた。トマトはだんだん真っ赤に熟れて今や足首から約十五センチはトマトレッグウォーマーになっていてそれも相当重くて歩くのも困難だった。
ふと前方にいた貴結を見ると彼は右肩にキュウリを乗せていた。彼は私とは違ってどでかいキュウリ一本が肩から首にかけて覆われていた。そして、翼さんは左足のところどころに黄色のパプリカがついていた。先ほどのナスとあわせて彼は人間植物になりつつあった。
「ちっ、油断したか」
翼さんは前方に並んで経っているオニユリたちを睨んだ。
オニユリの一人が
「これなら難なく倒せる。早く降参しなさい」
と初めてしゃべった。
「誰がするもんか」
と答えたのは貴結だった。彼はもう一度オニユリに向かおうとしたが、肩のキュウリのせいで腕が思うように持ち上がらずオニユリにたやすく跳ね返されて床に転んだ。
「貴結くん!…っておわっ」
私はトマトの重みでバランスを崩した。とっさに両手をついたので顔面打撲は免れた。
「ご主人!」
「だいじょうぶ、だいじょうぶ」
私は後ろにいたハッチュウに振り向き答えた。手で支えてしっかり足で床を踏みしめるとゆっくりと立ち上がった。
煙がすっきりと晴れてオニユリたちの姿がはっきりと目に入ってきた。彼らの一人が一歩前に踏み出すと私の前にいた翼さんは身構えた。が、オニユリはすかさず彼の右足を蹴った。
右足がよろめいた彼は左足のパプリカの重量との釣り合いが取れずに床に手をつき体勢が崩れた。
「先輩!」
後ろで立ち上がった貴結だったが、彼はもう片方のオニユリに足をひっかけられてまた転んだ。さっきの戦いでの体力消耗と実の重みで二人はかなりの衝撃を受けていてすぐに立ち上がることができなかった。そんな彼らにオニユリたちはじりじりと迫った。
(どうしよう…!)
私は足を肩幅に広げ前のめりになったままおろおろした。
「待て!」
そこにはりのある声が響いた。廊下の入り口、即ち前方に目をやるとななしろまさんが息をきらしてそこにたっていた。
彼の声に反応したオニユリたちはそろって後ろに振り返った。
ななしろまさんは私たちに笑いかけた後、オニユリたちに近づいていった。
部屋の中心に来て彼は止まった。
「オレが相手になるよ」
彼は穏やかに言った。
するとオニユリたちは彼とは月とスッポンの差があるブサイクな顔を見合わせると、片方が引き下がった。
「随分余裕があるようで」
オニユリは身構えた。けれども、ななしろまさんは戦う意思がないかのように立ったままだった。
「ここまでやられて黙ってるのも癪だからね。それに…アヤにどつかれたくないし」
彼は翼さんと目を合わせた。彼はあくまでも微笑をたたえていた。
それをオニユリは余裕の表れとみなしたのか意地悪な口調で言った。
「細腕のあなたが私達に勝てるとは到底思えない」
半ば嘲笑も混ざっていた。不本意な発言にもななしろまさんは取り乱すことなく
「それってある意味差別だよね、ハッチュウ?」
前方のハッチュウに話しかけた。
「うんうん!」
ハッチュウは彼に賛成して飛び跳ねた。
「まあ、すぐにカタがつくことです」
とオニユリは言うなり口から例の煙をバッと吐き出した。真ん前にいたななしろまさんはそれを全身に被った。
「ななしろまさん!」
貴結は叫んだ。私もはらはらしていた。
ところが煙が晴れても見えたのは平常どおりの彼の姿だった。それにはオニユリだけでなく私たちもびっくりしていたが、私は彼が無傷なのはなんとなくわかった。半分植物の彼には抗体があって効かないのだ。それかオニユリの煙は人間だけがかかるというのはハッタリだったということも考えられる。いずれにせよ、彼には煙は問題なかったのだ。オニユリは何事もおきていなかったのに対しひどく困惑しているようで目を白黒させていた。
「どうして?」
「さあ?…植物も人間も変わるところがないからじゃない?」
逆に彼は落ち着いていた。
「足止めしなくても同じことです」
オニユリは気を取り直し目前のななしろまさんにつかみかかろうとした。
「ここは穏便にいかないのかな…」
彼は笑顔のままそれをさっとかわした。標的を逃したオニユリは聞く耳持たず、休む暇なく殴りかかろうと勢いをつけ一発を彼の顔めがけた。
パシッ!
ななしろまさんは左手のひらでオニユリのこぶしを難無く受け止めた。
「!!」
「力だけじゃ心まで動かせないと思うんだけどね…」
突然彼の顔から笑みが消えて一瞬冷淡な表情になった。
そして受け止めた手首を掴んで床に振り投げた。反動でよろめいたオニユリだったが、諦めずに立ち上がり今度は喧嘩腰になって彼にかかってきた。ななしろまさんはこれまでにないほど真剣な表情でオニユリの攻撃に身構えた。オニユリが右足で蹴りを入れようとしたその足を彼はさっとつかんでオニユリの頭上を一回転して反対側に着地した。そのかわし方は植物の特質か軽やかで相手の勢いを利用した無駄な労力を使わない方法だった。
体勢を立て直したオニユリは振り返り背を向けているななしろまさんに向かって今度は殴りにかかっていった。直前で彼は後ろを振り向き顔面すれすれで拳を受け止めると、それをそのまま押しやって右足でオニユリに蹴りを入れた。まともに受けたオニユリは鸚鵡返しをしようと足を振り上げた。が、彼は身体を反らしてオニユリの手首を持ったまま、後ろ向きに飛び上がった。同時にオニユリの身体も持ち上がった。彼はぐいと掴んだ手に力を入れてオニユリを床に投げつけた。
ドタッ!という衝撃音の後、ななしろまさんは静かに着地した。
(強っ!)
私は口をあんぐり開けるほかなかった。それは貴結も同じようだった。彼は間抜けた表情をしていた。翼さんが内緒にしておいてほしいといっていたことはまさしくこれだったのだ。通説にはいつも穏やかな人が切れると豹変するというのがあるが、今ここで言葉に依らない怒りをかすかながらも感じ取れたきがして恐ろしく思った。
腰を打って立ち上がろうとしているオニユリの前にななしろまさんは立って見据えていた。
「もういいよね?」
彼は真顔でオニユリに問うた。その気迫は私にも伝わってくるくらい凄まじいものだった。
オニユリは為すすべなく頭を垂れた。ななしろまさんは私たちのところへ戻ってきた。
「聞き分けがいいよね、彼らは」
彼はまたニコリと微笑んだ。

「ところで、区長はどこに行った?」
オニユリたちが降参した後翼さんがななしろまさんに尋ねた。彼は
「館内ぐるぐる追っかけてたけど、また戻ってくるだろう。あの二人は向かってくる気力もなさそうだし」
ちらりと廊下口の壁にもたれこんでいるオニユリ二人に目をやった。
確かにぐったりして青ざめていた。
私たちがしばらく立っていると、廊下口からせわしい足音が聞こえてきた。区長だった。彼はすっかりバタンキューしているオニユリたちに気づくと躊躇したが前を向いた。
「そいつらはあきらめたようだ。ってわけでさっさとこのジャマくさいのをとってもらおうか」
翼さんは指の関節をパキパキと鳴らした。しかし区長は突然声を上げて笑い出した。
「よくできる人間たちだ。だが、私の手元にあるヤイコダマは何もこれだけではない。」
彼は壁にもたれていたオニユリに目配せした。隅よりのオニユリはゆっくりと立ち上がり本棚に続く紐をさっと引いた。カーテンが開きその光景に私は息を飲んだ。
あったのは本棚ではなかった。それは初め海を持ってきたのかと思った。
四角いガラスのケースには無数のヤイコダマが泳ぎ回っていた。恩着区役所で見たヤイコダマたちとは比較にならないほどの数、それに決定的に違ったのは群れをなしているヤイコダマよりも単体で行動しているヤイコダマが大半を占めていたのである。
(あそこにハッチュウのヤイコダマが…!!)
はやる気持ちを抑えて私はこの位置から探し出そうとした。が、それもこれも似たりよったりで近くまで寄らなければ判断できなかった。
「あ、ヤイコダマ!」
その時ハッチュウが嬉しそうに叫んだ。
「あの中にいるんや?」
「はい!」
私はハッチュウの明確な返事に解決の兆しを見出した。
(それかはわからんけど、あそこに必ずいる…)
私は頷くとハッチュウに小声で言った。
「ハッチュウはどれかわかるんやんな。一緒に行って取り返してこよう。でも、こっそり行かなバレるから気をつけて」
「わかりました!」
ハッチュウが飛び上がると私は抜き足差し足で三人から離れようとした。
「あ…」
それに気づいたななしろまさんだったが、何も言わず頷いた。
多分、とっておいでということなのだろうと解釈した。私は軽く会釈するとハッチュウを連れて柱に隠れるようにして本棚、ではなくケースに近づいていった。常に区長と三人の様子を窺いながら足を進めていた。
「なぜあなたたちは抵抗するのか?」
区長は真剣な面持ちで三人に問うた。
「ヤイコダマが数匹いなくなった所で世間を騒がせる事態は起きぬし、ましてや彼らから宿主を離れてやってきているのだ。そこを救ってやっているのになぜわからない?」
「あなたこそわかっていない。ヤイコダマは向こうでの生活が窮屈で逃げ出しているわけじゃない」
ななしろまさんが怒りを込めて答えた。
「では、彼らもこちらに含むところがあるというのか。ならば皮肉なものだな。行く当てもないというのに…各区では保護所を設けているがどこもガラスの水槽に閉じ込められて快適な環境とはいえない。所有者もいつ現れるかわからずじまいが大方、結局ヤイコダマは自ら死に行くようなものなのだ。彼らはあなた方人間と違って賢明だ。己の立場をわきまえている。」
区長はさも自分の計画の正しさを訴えているようだった。
「筋の通った話だが、つまるところあんたの自己満足だろう」
翼さんが突き放すごとく冷たく言った。区長は彼をきっと睨み
「うるさい!」
と声を荒げた。
私は事が大きくならないうちにと速度を上げた。
そしてようやくガラスケース前まで来た。ハッチュウに判定してもらおうともう一歩踏み出したときである。ガタンと音が響いた。
(なになに!?)
私は慌ててケースに目をやった。ケースに電気が流れヤイコダマたちが痺れていた。
「足!」
ハッチュウが叫んで私ははっと右足を引っ込めた。途端に電流はおさまりヤイコダマたちも一命を取り留めた。
(はあ…)
私は胸を撫で下ろした、のもつかの間、右後ろを振り返ると一同の視線がこちらに集まっていた。最も近い位置にいた区長は顔をしかめていた。
(あははは…こりゃまずいわ)
私はめくるめく危機感に襲われた。そしてそれは現実に起こった。
「無謀なことを…その二人を追い払いなさい」
区長が壁際にいたオニユリたちに命令を下すと、彼らはむっくりと起き上がった。オニユリコンビはロボットのように歩幅を揃えて私とハッチュウに向かってきた。
「ハッチュウ、傍を離れんといてよ」
私はハッチュウに呟くと彼は縮こまって頷いた。
貴結たちは私たちを助けに来ようとしたが、オニユリの一人が電流パネルの手前に立ち一歩でも動けば電気を流す体勢だったので容易に手出しできなかった。
(ハッチュウは私が守るんや!)
私はグッと拳に力が入った。もちろん怖かった。そんなの命の危険がせまっているハッチュウやヤイコダマの恐怖に比べれば御飯粒程度だった。
オニユリは近づいても私が尻尾を巻かないのを見ると攻撃をしかけてきた。繰り出した右腕を私は反射的にかわした。彼は次にハッチュウを狙いを定めたが寸前に私はハッチュウを抱えるため滑り込むように鉢に手を伸ばした。
(届いた!)
と思いきやそこをめがけてオニユリが蹴ろうとした。私は伸ばした腕をとっさに抱え込んで攻撃をかわしたが、勢いつきすぎて肘を床に強く打ち付けてしまった。
(いっとぉっわあ〜!!)
私は声も出せないほどの激痛に顔をゆがめた。さっきオニユリを不細工と言ったのは前言撤回、今の私の顔のがヒドイ気がしてきた。ハッチュウを床に置き左手で右ひじをさすって痛みをやわらげていると隣に影が映った。
(あっ!!)
立ち上がってオニユリの叩きをかわそうとしたが、上手くよけきれず手の甲が切れた。切り口から血が滲んでその一滴が白い床に落ちた。
「ご主人!!」
ハッチュウは心配して私に駆け寄ろうとした。けれども、
「大丈夫やから!」
と本来怒るべき相手でないのに、彼にきつい口調とそれに反する笑顔を繕い制した。
ハッチュウは指示通り来る足を止めた。私は再び傷を確認した。
弧を描いた傷口からは血が少しずつ出ていたが、ひどく痛むことはなかった。むしろ肘を打った方のが痛くて今直じんじんしていた。
(こんなとこケガして、恥ずかしいなあ〜っていうか肘なんともないよな。ちゃんと動くよな…ああ、よかった)
私が呑気に思っているのに先方はかまっていなかったらしい。前を向くと助走をつけて走って来るオニユリが目に飛び込んできた。
(ひゃーっ!!)
私はとっさに逃げられず目をつぶった。
ドゴッ!
鈍い音がした。私は恐る恐る目を開けてみた。私の目の前にはとんでもない光景が広がっていた。貴結がオニユリの腹に一発食らわせて静止していた。
「女の子に傷負わすなんて最低だ!」
彼の怒りは最高潮に達しているのか声質も変わっていた。彼は手をどけると、オニユリは相当こたえたのかふらついていた。貴結は深呼吸するともう一度、今度は足でオニユリの足を蹴った。オニユリはその場に崩れた。
「未良さん、大丈夫ですか?」
貴結の呼びかけで現実に引き戻された私は
「あ、うん。ありがとう」
と彼に向かって言った。
昨日までの彼とは違う。あの瞬間彼がとてもカッコよく見えたのだ。
私は彼の変貌振りに驚いてそれでしばらくかける言葉が見つからず彼を見つめていた。その間を彼は何を勘違いしのか
「あ、さっきの男女差別に聞こえましたか?全然、そんなつもりじゃなかったんで!!」と必死に弁明する姿はいつもの彼だった。
「いや、そうじゃないよ」
(バカ正直でもいい奴や、貴結って)
私は彼の純朴さに本当のことを言うのも億劫になってしまってただ笑った。そんな中、私は彼の重荷に目がいった。
「それ大変やったろうに。ごめんな」
肩のキュウリを見やった私に貴結は弾かれるように否定した。
「とんでもないですよ!このくらい。未良さんだって足キツかったでしょう?」
ああ、そういえば…と私は彼に言われて初めて自分も実持ちだったことに気づいた。
「でも、わりと均等についてくれてるから動きやす…」
私はわらった後異変を感じた。自分の足首のトマトを軽く叩くとトマトが萎んだのだ。
(え!?)
驚いて足首を見ると私が叩いた部分がしわ寄っていた。
「どうしたんですか?」
貴結の問いに私は無言で左手のひらを見た。そうして今度はトマトを叩かずに覆うように触れてみた。すると、真っ赤なトマトはみるみるうちに萎み、果てには水分がすっからかんになるまで干からびてコロリと実が床に落ちた。
「それは!?」
貴結だけではない。周辺にいた人々全員がその現象に注目していた。
私は手を離すと確かめるように他のトマトや左足のトマトも同じように触れた。トマトは全て枯れ落ちた。私はなぜだかわからなかったが、何気なく傍にいた貴結の肩のキュウリもつかんでみた。それもまたしわしわになり、仕舞いには彼の肩からポコンと落ちた。私たちは揃って顔を見合わせた。
「未良さん、そんな力があったんですか?」
彼は感嘆めいた声を出した。
「え、いや…さっきいきなり。自分でもようわからんのやけど。」
私は手の平をじっくり見ながらその不思議な現象の謎を解明しようとしていた。
(これで直るんやったら翼さんのもとらんと!)
とにかく真っ先にそう思い立った私は、硬直状態の空間の隙に広間へ駆け出した。
「翼さん、腕と足…」
私は翼さんの傍まで寄ると、小声で促した。彼は少々戸惑っていたものの実のついた腕と足を出した。私は手早くそれらに触れると実はきれいさっぱりしぼんでなくなった。
「楽になった。礼をいう」
翼さんは実がとれて自由になった手足をほぐしていた。
(これでよし、と)
私は仲間の支障を治し終えた後、広間にそろった五人で区長らに対峙した。
五人とも今度は容赦ない姿勢で臨んでいた。区長は笑んで私たちに近寄った。
「あなた方が強いのは十分わかった。私もむやみな争いはしたくないからな。電流パネルを解除しよう。」
彼はケースの前にいたオニユリに合図を送ると、オニユリはパネルを剥がし始めた。貴結にやられたオニユリも後からきて手伝っていた。その作業を私たちはごく普通に観察していた。が、来る更なる危機に私は予知していなかった。オニユリたちが剥がしたパネルを腕に抱えていたということを。
「危ない!」
呟くと同時にななしろまさんは前に出た。その瞬間飛んできたパネルを瞬時に力を入れていたのかグーで破壊した。遅れてきたもう一枚を翼さんが腕で振り払った。三枚目も貴結が根性でパンチをお見舞いしたが、砕けず動きをとめるだけになった。
(あれ?もう一枚は…音がする…)
私はとっさに後ろを振り返った。
「後ろ!」
叫んだ私の目には回転しながら向かってくるパネルが映っていた。
(アカン!)
と思ったその時、ヒュッと目の前を何かが横切った。
バカン!!
「ハッチュウ!」
私をかばってパネルの直撃を受けたハッチュウは床に叩きつけられた。鉢にひびが入り土が周りに飛び散っていた。
「ご主人、大丈夫ですか?」
ハッチュウはいつも通り明るい声で私に接した。
しかし起き上がろうとしていても身体が震えていてできないようだった。
私は急いで土をかき集め鉢に戻してハッチュウをゆっくり起こした。
「まだ大丈夫やんなあ?」
私は半分涙声だった。ハッチュウは私を見上げた。
「あの時、ヤイコダマが出て行った時、ハッチュウはすぐになくなるはずだったんです…でも、ご主人のおかげで元気でいられたんです。」
私はえ?と目を丸くした。ハッチュウは苦しそうでも続けた。
「ヤイコダマとハッチュウらはどっちが欠けてもいけないもの。お互いにエネルギーを受けて与えているのは知ってますよね…ご主人はお世話してくれる度にヤイコダマの力をもらっていたんです。本当に自分ではわからないくらいちょっとの力だけなのですが…」
「じゃあ、なんでわたしは?」
私はあまりハッチュウにしゃべらすまいと思った。しかし、謎を知るハッチュウの話を聞かずにはいられなかったので時折葉をなでながら話していた。
「ヤイコダマアレルギーです」
(アレルギー?)
私は久しぶりにその名を聞いた。それとハッチュウにどんな関係が…
「ヤイコダマアレルギーを持っていると、普通の人よりも敏感にヤイコダマの力に反応するんです。そのヤイコダマ個体としても生命力が強ければ強いほど、与えられる力も強くなるんです。ご主人が葉を撫でたりしてくれることでその力を自ら蓄えられていたんです」
「ハッチュウが元気でいれたんは…」
「ご主人のヤイコダマにもらった力が触れることによってハッチュウに入ってきたからです。でも、それも今の衝撃で限界のようです」
ハッチュウはそこで話を終えた。私は周りの目などとっくに気にせず泣いていた。まぶたに涙を溜め込んでいたら耐えられなくなってきたのだった。
(なんで?ハッチュウが…)
私はそればかり反芻していた。
(結局、犠牲になるんは何の罪もない生物ばかりやんか)
私は悲しみと共に心の底から怒りがこみ上げてきた。そしてすっと立ち上がり前に振り向いた。ハッチュウの弱っている姿が見えているはずの区長はこう口にした。
「飼いならされたものの心理がよくわからない。そこまでして人間を信頼して裏切られるのは自分なのに、向こうではそんな哀れな植物たちがわんさかいるのだろう」
「そうじゃありません」
私はキッパリと言い放った。
確かに、区長の言い分は的を射ていた。
植物にとって人間から得られるものはないとはいはないにしろ、人間が植物から搾取しているのと比較すればそれは被害のレベルに達している。
私たちはハッチュウのような鑑賞だけのためだけではなく、食用にだって多くの植物を殺している。そのたびに「毎日ありがとう」なんて感謝の気持ちを表しているかといえば、そんなの一握りの人数に限られている。植物があたかも人間のための食料と思い込んでいることそれは当然だという無意識を知らず知らずのうちに身につけてしまっていたのだ。
スーパーで見た人間の肉は高慢な人間に対する自覚と皮肉が込められたものだと考えれば、残虐非道は一体どちらなのか一目瞭然である。植物は私たちに抵抗することができない。逃げる足を持たないのだ。だから、でも、彼らは人間のような自由な足を望んだのだろうか。
私は真っ向から区長を見据えていた。
「私は向こうの住人やし、もとから人間ですけど、植物は人間に従って生きているわけではないと思います。たとえ、人がどんなに愚かやとしても彼らが信じるのはアホやからじゃなくて人に希望を抱いているからです。よくも悪くもできるのは今のところ私たち人間やから。植物は“よい”方向へと人が導いてくれることを願ってるんやと思います」
私はチラリをハッチュウを見た。彼は貴結に支えられていた。
「ヤイコダマを返してください」
私は深く頭を下げた。頭を上げて区長の返答を待った。
「そんな弱い植物はこちらでは役に立たない。愚鈍な人間どもを蹴散らすには強くあらねばならないのだ」
嘲笑は部屋じゅうに響いた。私は歯を食いしばっていると後ろから
「そんなの人間と同じじゃないか!」
と力強く叫ぶ声が聞こえた。私は驚いて後ろを振り返ると、ハッチュウの隣にいた貴結が激怒の形相で区長を睨んでいた。
彼はハッチュウを床にそっと立たせると前にやってきた。
「力で相手をねじふせようなんでいう考えは人間だけでまっぴらなんだ。そうやって傷つくのはあなたたちの同胞なんですよ」
彼は怒りを越えて悲嘆を思わせる表情で区長に訴えた。
(そうや、この人らは人間と同じ過ちをしでかそうとしとる…)
私は貴結の言葉で重要なことに気づいた。本当の強さは人を思う心にある、翼さんのセリフも頭の中に蘇ってきた。
「野生植物と一緒にしてもらわないでほしい。彼らとは違う」
区長は腹立たしさをあらわに言い捨てた。私は我慢できず彼に対抗した。
「違うのってそんなにアカンことなん?あらゆる生き物、人間どうしでも一人一人違うんです。植物も、人間以上に複雑やと思う…見た目も性質も全然違うから。でも、その違いで差がないように、違ってもそれぞれを認めていこうっていう姿勢が大事なんじゃないんですか?あらゆる生き物は皆兄弟、なんか胡散臭くて私も好きじゃないけど、違うことから同じ価値を求めることができるんじゃないんですか?人間は愚かです」
私はかねてからの思いを口にした。
「そやから、入れ替わったこの世界では同じ轍を踏んでほしくないんです。誇示するだけの強さに固執して周りの人達を不幸に陥れてほしくないから…」
そう、植物たちには彼らなりの生活を営んでほしかった。
二つの世界があるのは未だに謎だけれども、ここが向こうの分身でないことはいや、そうしてはいけないと直感的に感じたのだ。愛と平和に溢れた世界を作ろう、なんて偽善者めいたことを言える筋合いは私にはないし、言ってもそれこそ短絡的な考えであり永久に虚構化されるだろう。
私たち人間に罪があるのは否めない。しかしだからといって争いを上位手段にもってくるのは間違っている。正々堂々と勝負するならまだしも、ヤイコダマを人質にとりとるだけではなくそれを増強のために利用するなんというあくどいやり方は生物全般において許されるべき行為ではない。見過ごしてはいけないのだ。
私は区長自らがヤイコダマを解放するのを待った。空気は重く冷や汗も流れてきた。
いくらたっても何もいわない区長にななしろまさんが口を開いた。
「植物とか人間とか区別にこだわってるから視野も狭くなるんだよ。あなた達がおろかな人間でないのなら、そんな些細なことで憤慨したりしないんじゃないのですか」
物腰柔らかな言い方だったが、最もな意見だった。
翼さんも
「人間っていったって、全てが同罪とは限らねえだろ。ヤイコダマのことは腹立つがあんたが自分を強化しようとしなかっただけでもまだ立て直す余地はあるんだ」
と区長を励ますような口調で述べた。
四人の切実で切迫した思いを無言で聞いていた区長は噛みしめていた唇を緩めるように、静かに頭を垂れた。そしてその場に泣き崩れた。

 区長に抵抗の意思がみられなくなったことがわかった私は、猛烈な勢いでハッチュウの元へ駆け寄った。ハッチュウの葉はしんなりとしょげていた。私が傾きかけているハッチュウを起こすとハッチュウは
「ありがとう、ご主人」
と力なく呟いた。
(ハッチュウ…)
私は再び涙が溢れるのをこらえながら黙ってハッチュウを見つめていた。そのときである。私の視界に青い光がすっとよぎった。
(?)
私はその光に目を向けた。
天井際は一面青の帯できらめいていた。ガラスケースを見ると傍にいたオニユリが蓋を開けて持ったまま、ケースにいるヤイコダマ達を外に出るよう手で送っていた。ケースから一斉に飛び出しているヤイコダマの群れは再び帰るべきところを目指して部屋から出ていった。
神秘的な光景に圧倒されて眺めていた私は、帯から外れてハッチュウに向かって飛んで来る一匹のヤイコダマを見つけた。
次第にその姿が近づいてくると私はあまりの綺麗さに息をのんだ。大きさは手で包みこめるくらいに小さいのに、ハッチュウの根についていた時とは考えられないくらい存在感に満ちていた。体表が鰻のようにつるつるして胴は細長い。その体を小刻みにうねらせて悠々と空中を泳いでいる姿はまさしく空飛ぶ魚、高尚で温かいオーラを醸し出していた。
ヤイコダマはハッチュウの鉢の縁に下りるとその小さな瞳で彼を見つめた。
「おかえり」
ハッチュウの言葉にヤイコダマは頷いたように見えた。
そしてヤイコダマは土の中にもぐっていった。しばらくすると、ハッチュウの身体に青い光が円状にポコポコと湧き出した。
(キレーや…)
私は全身にいきわたる光に魅入られた。ヤイコダマの力が徐々にハッチュウに行き渡り回復していくのが感じ取れた。
「ハッチュウ?」
光がおさまり私はハッチュウに呼びかけた。
「ご主人!」
ハッチュウは葉を起こすと跳ね上がった。彼は復活したのだ。
「よかった…」
私はハッチュウを抱きしめる代わりに葉をなでた。ハッチュウも元気になって喜んでいた。
「キューイ!」
ハッチュウは前に立っていた貴結に思い切り叫んだ。彼はハッチュウが回復したのを目の当たりにして泣き出した。
「一時はどうなることかと思ったけど…ハッチュウ、元気になってよかった」
「おい、まだ話はついてないぞ」
後ろから翼さんがからかい気味に声をかけた。
ヤイコダマのいなくなった透明のガラスケースを目にして区長はすっかり途方に暮れていた。
「私はもう少し勉強する必要があるようだ…」
こうして区長の目論見は水の泡と化した。

  ヤイコダマも無事解放され、私たちは儚木区を去ることにした。
区長は自慢のオニユリガが二人…いや、三人にこてんぱんにやられ相当ショックを受けたようで、すっかり気力をなくしていたので警察に突き出すことはしなかった。
最初から区長を訴えるのではなくヤイコダマを救うために来たんだから、とななしろまさんは言っていたので二人とも寛容な態度で今回の任務に臨んだのだろう。
役所を出てバス停までの道のりを私たちは晴れやかな気持ちで歩いていた。
(この世界とも当分はお別れやなあ…)
私は道行く植物を眺めながら思った。
二度と来ないとは言い切れないにしろ、ヤイコダマがそうそう頻繁に逃亡するわけでもないので自然と植物界とのしばしの別れを感じ取ったのである。私がそうやって短い思い出にふけっていると、右隣でなにやら貴結が肩を上下にしたり、腕を軽く回していたのが視界に入ってきた。
「どっか大きいケガはせえへんだ?」
私は心配して貴結に尋ねた。彼は姿勢を正して
「いえ!僕はほとんど何もできなかったし…二人に助けられてばかりで…」
と言いかけると前を歩いていた翼さんが振り向いた。
「ホントにその通りだ。まだまだ特訓が足りねえな」
「…す、すみません…」
貴結は申し訳なさ気な顔をしたが翼さんの声は明るかった。
そうして、ふと私は彼の手元に目をやった。彼が右手を左手でさすっているのに気づいた。
「手どうしたん?」
私の問いに彼は首を横に振って
「たいしたことないです。さっき、オニユリの投げたパネルを止めた時、カッコつけて思いっきりバーンってやっちゃったら思ったより痛くて、ちょっと腫れたみたいで…」
と右手の平を私に見せた。
彼の言うとおり、手の平前面が真っ赤に腫れていて親指の付け根は紫色に変色していた。私はその時あることをひらめいた。
「ちょっと見せて」
私は彼に手を貸すように催促した。
「いいですよ、たいしたことないので…」
貴結は手をひっこめようとした。
「いいことないわ。ほら、貸して!」
彼の手首を素早く掴んだ私は無理やり右手を彼の手の平に当てた。彼はその瞬間から固まってそのままの体勢でいてくれたので効果はすぐに表れた。
私が手を当てていると、次第に赤味がひいてくのがわかった。
「よーし。これでマシになったかな」
私が手を放すと貴結はパッと手を離して慌てて自分の手の平を見た。
それは完全に元通り血色のよい皮膚だった。
「ありがとうございます」
貴結は恥ずかしそうにお礼を言ってくれた。
「わたしのおかげじゃないよ。ヤイコダマの力」
私は左隣下のハッチュウに目をやった。
「ヤイコダマって人にも優しいんだ」
ななしろまさんがにこやかにハッチュウと私に向かって言った。
「向こうでも見守ってくれてるんですよね…あ、そういえば向こうにはどうやったら戻れるんですか?」
肝心なことをすっかり忘れていた私は思い出したついでに尋ねた。
「まずは恩着に戻ってからだなあ…それでハッチュウを元の場所に置いといてやったらそこで入れかわるはずだよ」
「元の場所ってことはベランダか」
私は頭の中で想像図を描いた。
何だか、今になってこの世界が無性に恋しくなってきた。
あまり…かなりいい目をみなかったし、危険がつきまとうことだらけだったが、ここへきて人間は普段さまざまなことを見落としているなということを痛感した。
それは言葉を持たぬ植物へは特に激しいもので、人間の影響危うく植物も人間思考化させてしまうところだった。共に生きるって世間では騒がれているけれども、畢竟、人間の一方的な考えで決められ植物がそれにあわせるしかない、つまりどうしても上下関係ができてしまうものだった。
こうなったのも“人間が強者で植物が弱者だ”という人間の偏見と思い上がりに他ならない。
世の中強くないと残って行けない…それは社会の原則である。けれども、強さだけを求めて果たして幸福なのかどうか…“幸福”とは人だけの幸福ではなく、全ての生き物が幸福になれるかどうかということである。
「翼先輩、ななしろまさん、本当にお世話になりました」
貴結の改まって挨拶する声が耳に入ってきた。彼は深く二人にお辞儀していた。
「まあ、短期間では上々の成長だな」
翼さんは照れくさそうに、しかしそれとわからないようにわざと厳しめの言葉をかけた。
それを傍でこらえながらしろまさんは
「君の場合はもう一回くらいヤイコダマ逃がしそうだから、その時はまたしごいてもらうといいよ」
と彼にしては毒舌なる発言に私がぞっとしてしまった。
貴結は苦笑いしていた。
バス停に着くとちょうどバスが来るところだった。バスが来て止まり入り口が開くと
次々に植物たちが乗り出した。
「オレ達はまだやることがあるから、ここでお別れだね。三人ともどうもお疲れ様」
ななしろまさんは私たちが列に並ぶと言った。
「いえ、こちらこそ!どうもありがとうございました!」
「ありがとう!」
私とハッチュウはそろって彼らにお礼を言った。
横を向いていた翼さんもななしろまさんにさりげなく肘鉄を受けて私たちの方に向いた。
「気をつけて帰れよ。それと、貴結!」
「ははは、はい!」
貴結は名前を呼ばれて緊張して返事した。
「お前、もうちょっとたくましくなれ!」
翼さんは言うと、不意に笑みをこぼした。貴結はポカンとしていたが
「はいっ!」
と力強く返事をした。
「もしかしたら、向こうでも会えるかもしれないけど…その時は皆でゆっくり話そうね!」
ななしろまさんが最後にそういうと私たちはバスに乗り込んだ。
戸が閉まって発車すると、ななしろまさんは私たちに向かって手を振った。
私とハッチュウは彼らに手を振り替えした。翼さんは笑みを浮かべて私たちを見送ってくれていた。

  バスに乗ると私と貴結は並んで座った。ハッチュウは私の膝の上に置き、貴結のゴムノキは足元に置かれた。
「お疲れ様でした。でも、無事に済んでよかったよな」
私は貴結に言うと彼はまたもや首をぶんぶん横に振って
「いえいえ!もう僕も一人じゃ生きて帰れないところでした」
と告白した。
「まあ、二人と比べたらあれやけど、でも貴結くんこの何日かで変わったと思う」
「そうですか!?」
彼は本心からびっくりしていた。
「うん。助けてもろたりして…あの時はかっこよかったよ。ありがとう」
私は少し言いにくかったが感謝を表した。そうして彼を見ると彼は顔を赤らめて
「あ、え、いや…僕の方こそありがとうございます」
と口ごもった。
「わたし貴結くんより何もできてへんだって」
私が仰ぐと彼はゆっくり首を振った。
「いえ、未良さんが区長に言った言葉、人間は生物の未来をよくも悪くもできるっていうことを聞いて、ああ、僕たちの責任って重いものなんだなあって思ったんです。僕は世界を左右するほど強大な能力を持ってるわけではないけど、それでも人として生きていることに変わりはない。悪くするのは簡単だけど、それからよくしようと思ったら何倍もの労力がいるわけですし…でも人間が努力しなければ何も変わらないんです」
そう述べた彼の瞳は澄み切っていた。
私は彼が今とても強い人だと思った。
「わたしさ、ここへ来て思ってたんさ。ヤイコダマアレルギーのこと、何でお母さんたちは話してくれへんだんかなって」
貴結はうーん、と考え込んでから言った。
「これは僕の推測なんでホントかはわかりませんけど、ここに来て人間の驕りを知ってほしかったんじゃあないんでしょうか?事前に言っておけば未良さんはどうにかしようとしてしまうからとか…ああ、わけわからないこといってすみません」
「臨機応変に行動しろってことやったんかな」
私は貴結がしどろもどろになっているのを心の中で面白く思いながら聞いた。
「うーん…それともっと大事なこと、僕がこっちへ来て改めて感じたことでもあるんですけど…」
彼は語尾を伸ばした後こう続けた。
「植物を大切にしなきゃいけないって伝えたかったんじゃないかと思います。どんな境遇に遭ってもそれに対応する力と受け入れる器を持ってほしかったんじゃないかと…」
彼は最後に行くにつれて自信なげになっていった。しかし私は彼が案外親心を解せる大物なのかもしれないと悟り頼もしく思われた。
そうか、と腹のうちがバレぬように頷いた私は唐突な質問を彼に投げかけてみた。
「人と植物が分かり合えることってできると思う?」
彼は
「できないといけないんだろうなあ…いつかは」
とつぶやいてから言った。
「僕には大それたこと思いつきません。でも、すぐにできることといえば、こいつを大事に育てるっていうことかなあ…」
貴結は手元の鉢植えを見つめた。
私もふとハッチュウに目をやった。ハッチュウは疲れたのか休み体勢に入っていたようだった。
「自分の幸せだけじゃない。他の人々、生き物の幸せが叶ってこその平和なんかもなあ」
私は貴結を見た。彼も私を見た。二人して声出さずに笑い出した。
全ての生き物が幸福になれる道、それはどこにあるのか存在するものなのかわからない。
けれども、心の入れ替え次第で時間がかかっても必ずうち解け合える日が来るのだと願っていたい。陰にひっそりと生きる命でもその輝きは眩いのだから。私はその輝きをこの手で養い守って行かなければならないのだ。

  バスはもうすぐ恩着にさしかかる所だった。
窓の外を見れば、お日様は選り好みなく地全体を優しく照らしてくれていた。

-終-