はっぴぃーす(1)
燦々とベランダに降り注ぐ陽の光。
直射日光を避けた場所に置かれた一つの鉢植え。
彼の名はハッチュウという。観葉植物の彼は通称“トカゲの尾”と呼ばれている。
葉がトカゲのしっぽのように分厚く、切っても切ってもすぐに伸びてくることに由来している。
ハッチュウは、もともと私の祖母の家で世話されていたのだが、今年の春どういうわけか私に引き渡された。
以来このベランダはマイナスイオンに満ち溢れている。
梅雨が明けた夏の今は成長期真っ只中で、毎朝水遣りのたびにどんどん成長し、先月一回り大きな鉢に植え替えたばかりなのに、それもそろそろ一杯になってきた。
暇がある日はハッチュウを前にいろいろな考え事をしてみたりする。
それ即ち妄想というものだが、ハッチュウを見ながら夕飯の献立を考える等ということは決してないから、大半は叶わぬ夢とか現実の壁類を目の当たりにして勝手に語っているだけだった。
もちろん、それも心の中だけで実際にぶつぶつと独り言を言うほどまだ私の神経は弱っていなかった。
ハッチュウおはよう。ハッチュウはいいなあ。ハッチュウは悩みがないもんなあ。
私は一方的な意見を立て続けに投げ掛ける。ハッチュウは応えてはくれないが、だからよりいっそう実感するのだ。
ハッチュウも悩みないわけじゃないよな。ハッチュウにだって言い分はあるよな。
一人よがりな発言に私は毎度反省する。ハッチュウがそれを知っているのかはわからない。しかし、何かしら伝わっているような気もしないではなかった。
私は本末転倒になりかけていた思考をゆっくり戻そうとしていた。ハッチュウは一見単なる植物だが、わが家の家宝である。誤解が生じないように説明すると、ハッチュウ自体は宝ではない。彼が植わっている土の中にはヤイコダマという虫が住んでいる。寄生虫である。
それが実は立川張(たてがわばり)家の誇るべき家宝なのだ。
ヤイコダマは植物のみに寄生する虫で、爪楊枝ぐらいの大きさにしか見えない。体の周りが蒼い球に包まれていて、これが直径六センチぐらいあるので結構大きい。ヤイコダマは植物の根に寄生し、単体で寄生することはなく普通は複数が一つの宿主に寄生する。
けれども、ハッチュウには一匹しかヤイコダマが寄生していない。これは少なくとも周囲では、珍しく貴重な生き物なのだ。その宝を下宿先のマンションの狭すぎるベランダの片隅に放置しておいて果たしてよいのかはわからなかった。思うに、祖母の住む田舎もぶっそうになってきて盗難の被害もちらほら耳にするから預けたのかもしれない、と私はあまり理由を深く考えることはなかった。
(あ…)
私は奇妙な物に目が留まった。
ハッチュウの鉢植えの一部、筒というのかそこがポコンと膨らんでいた。
最近は天気がいいのかしてぐんぐん成長するなあと感心していたが、まさか鉢を突き破る勢いに達しようとはつゆ思っていなかった。これをまた入れ替えるとなると、根がびっしり張り付いている上、根の隙間にヤイコダマが入り込んでしまっているので一苦労なのである。
(まだ大丈夫やんな)
私は暑さとけだるさのため植え替えを断念した。本音を言うと、入れ替えたい気はないことはなかった。ただ、近場にでかい鉢と土が売っていなくて、それらを購入しに行く気力が甚だしく低かったから少々不恰好のままなだった。
私はそっとハッチュウの葉を撫でた。
その真っ直ぐに伸びた濃い緑の葉はトカゲの尾という名の通り、先端に行くほど細くて中は肉厚だった。触った後、私は調子にのって鉢の縁にこぼれていた土を鉢の中に入れ戻していたら、手首から肘にかけて赤い湿疹ができているのに気づいた。
(またやってしもたわ)
手の土を払うと私はベランダから離れて洗面所へ手を洗いに行った。
この湿疹はヤイコダマアレルギーの表れである。ヤイコダマアレルギーとはその名の通りヤイコダマのアレルギーで、ヤイコダマ本体や寄生する土に触れると湿疹やかぶれを引き起こす。一時的なもので命を危険にさらすことはない。十人に一人がヤイコダマアレルギーを持つといわれている。人によって症状の度合いは若干異なるが、私の場合は植物に触れる程度なら痛くも痒くもない湿疹ができるくらいである。ひどい人はちょっと葉に触れただけで全身真っ赤になることもあるらしい。
幸い、私は土を直に触らない限りは他人の目に映るほど痛々しくもおぞましくもならなかったし、二十年近くこのアレルギーと付き合っているので既に慣れてしまっていた。
私はベランダに戻ってくると再び窓際に腰を下ろした。
日は高くのぼり、山からはアブラゼミの鳴き声が幾重にも重なり夏の暑さを倍増させていた。
私は周囲を一通り見てからハッチュウに視線をやった。ズ…と何かを擦る音がした。
(?)
不思議に思いハッチュウの鉢に手をかけると、鉢の膨らんだコブが動いた。
(えっ!!)
とっさにコブに触った途端、鉢の割れ目から青い光がひゅっと外へ出て行った。
(今の何?)
私はわけがわからなかった。しかし、手の甲を見るとまた湿疹ができていた。
何の痛みもかゆみもなく、まるでマジックでわざと点を書いたような感じだった。
その時だった。
「ご主人」
「ハッチュウ?」
私はその声の主が直感的にハッチュウだと判断した。
植物がしゃべるとは非科学的かつメルヘンチックなことを普段から考えていたわけではない。けれども、この部屋の唯一の生物は私とハッチュウだけである。パンダのぬいぐるみがしゃべり出すよりもありえることだと思ったのである。
私は視線を手の平から目の前の植物に移した。
あ!と私は声を上げそうになった。なんと、ハッチュウに足がついているではないか。
足というより靴といったほうが正しい。こげ茶色の紐なしスニーカーが鉢の底から二足しっかり出ていた。私はその異様な光景に、ついに私もイカれたか…と眩暈を起こしそうになった。それでも、ハッチュウは息をしているようで上下にゆっくり動いていた。
「おはようございます!」
「お、おはよう」
私はハッチュウの朗らかな声にたじろいだ。
人間だったら顔をそらすのに、私はハッチュウをまじまじと見つめていた。
彼は急に陽気なテンションをガクリと下げて言った。
「ヤイコダマがどこかに行ってしまいました」
ハッチュウは長い葉を垂れた。おそらく困っているのだろう。
「どこかに…って?」
私はヤイコダマが逃げたという前代未聞の出来事に目を丸くした。
「わからない…けど、そんなに遠くまでいってないはず…」
「探さな」
「ハッチュウも行く!」
「え、あ、うん…」
私はその言葉に躊躇したが、ハッチュウには足があることを見て思い出し聞き返さなかった。

私たちは家を出ると並んで歩いた。しかし、ハッチュウの歩幅は狭かったので私が普通の速度で歩くと小走りしないとついて来ることができなかった。
(なんで急にしゃべり出したんやろう)
私は初めの初めに抱くべき疑問をおまけのような感覚で今更ながら思った。
ハッチュウに追及したところで明快な返答はしてくれるまい。久々にヤイコダマアレルギーが発症したから聴覚、視覚いや、あらゆる覚がおかしくなっているのかもしれないと適当に納得させておいた。
脇道から大通りに出た私は左右どちらを行くべきか、ハッチュウに尋ねようとして目が点になった。それはいつもと変わらない風景、のはずだった。道路を挟んだ向かいには床屋さん、その隣には居酒屋、パン屋さん、八百屋さんと並んでいた。けれども、一つだけ明らかに異なる点があった。
人間がいない。正確に言えば、人間が皆植物になっていた。人間が植物になってしまったのかは定かではないが、道行く“人”ではなく、道行く“植物”だったのだ。
日傘を差して優雅に歩いているのはスズラン。荷車を押しているおばあさんかと思いきや、背(茎というべきか)の曲がった柳。道路を走る車も運転しているのはやはり植物ばかりだった。
(一体どうなってんの?)
私はどこかちがう国に足を踏み入れてしまったのかと勘違いするにもできそうになかった。なぜなら、植物が動いているということを除けば全く日常と変わらなかったため、錯覚とでも説明がついてしまいそうな心地がしたからである。
(これじゃ植物じゃないわたしの方が変やって)
私は植物たちを物珍しげに眺めていた。
目の前をふっと青い玉がよぎった。
「ヤイコダマ!」
ハッチュウは早押し選手権の解答者級に叫び、猛烈な勢いで駆け出して道を左に曲がりその後を追った。私も慌てて彼の後を追って商店街の方へと走っていった。
後を追っているうちに私はハッチュウの姿を見失ってしまった。走る速度からして鉢植えだからそれほど速くはないのに、見失った原因はすれ違う植物に目がいったり、モグラ叩き大会が開催されたかのように、ハッチュウがせまい路地をすばしっこく出たり入ったりするものだから、それを何十回と繰り返されて目が回ってきたためだった。
(どこ行ったんやろ…)
私は諦めてとぼとぼ歩いていると、道路の向こう側に人…ではないがここでは植物を人と呼ぶことにする…のゴミに埋もれて蠢く鉢を目にした。
スーパーの開店時間直前と重なり人も行列を作っていて、更にハッチュウは背丈が低いのでその姿をはっきりととらえることはできなかった。私はとりあえず横断歩道で向こう側に渡ろうと踵を返した。その途端ハッチュウの背が突然高くなった。いや違う。誰かがハッチュウを抱えているのである。
しかも、それは本当の人だった。遠くて顔まではよく見えないが、制服を着ていることと背丈から高校生くらいの少年と思われた。少年はハッチュウを抱えたまま人ゴミを抜けて南に歩いていった。私は「誘拐犯だ!」と叫ぶ余裕なく横断歩道を走って渡り彼に追いつこうとした。
「奥さん、今日はキャベツがお買い得なんですって」
「あら、そうなの。でも、向こうの店でも安かったわよ」
「どっちがオトクなのかしらねえ」
スーパーの付近を通る人の横を通り過ぎると、私は主婦たちの会話を耳にした。
その一人は買い物バックを提げていた。
(さすが、オバちゃんやな)
杖など年齢を想定させる物を持っていなければ、外観からはいくつかさえ全く判断つかない植物達に私は勝手に一人心の中で呟いていた。
そうこうしているうちにもハッチュウと少年を見失ってしまうところだった。
思いっきりすっ飛ばしたくても、商店街というのはだいたい商品が歩道の三分の一まではみ出して陳列されていて、更にそこを一人ならず二人三人並んでかつのろのろ歩くのであれば、十分すぎる壁になりうるわけであって、もっと意地悪いのは歩道にバス停があってそこでバスを待つ人がいれば、その空間のみ通行禁止なのかと通る方が腰低くなってしまい、ムカツクよりも自分自身で徐行を促すほどに足止めを食らうのだった。
何とか切り抜け、人が少なくなったところで町外れの総合病院前で少年に抱えられたハッチュウを発見した。私は小走りでそこへ行き「ハッチュウ」と声をかけた。すると、少年は「え?」とこちらを振り返った。
私は少年の顔を見た瞬間ビクっとした。
見た目で人を判断することは、ほぼないに等しい。でも、何かちょっとでも言ったら反抗してきそうな、クラス内では外れた集団に属する位置にいるような、グレ気味の子に見えたからで戸惑ったのである。
「ハッチュウってこれのことですか?」
「あ、うん多分…」
私は彼の返答の仕方に間が抜けてしまった。彼は見下すことも罵言吐くこともなく、それどころか逆に落ち着き払ったものの言いようだったからだ。
「ご主人!」
抱えられていたハッチュウが私に向かって叫んだ。私は一気に肩の力が抜けた。
「すみません…あなたのだったんですね。間違えてしまいました」
少年は申し訳なさそうな顔をしてハッチュウを私に渡してくれた。
「間違えたって?」
私はハッチュウを受け取ると彼に尋ねた。少年は苦笑して答えた。
「僕も家で植物を育てていて、それが急に逃げ出してしまったから追いかけてたんです。それで、よく似た鉢を見つけたもんだからてっきり…」
「え?じゃあ、ヤイコダマが逃げたっていうこと?」
「あなたはそうなんですか?僕のは鉢ごと…ヤイコダマが逃げてたとしても一匹、二匹ならどうってことないので」
「ああ、そやんな…」
私は冷や汗をかいた。
(そやった。一般ではヤイコダマは山椒なんや。対して家のは鰻。うっかり口を滑らせたらばあちゃんからどんな雷が落ちるか…)
私は内心ひやひやしながらも、彼が植物界で見た初めての人間だったので、妙に安心感を覚えた。
「ここはどこかわかります?人間じゃなくて植物が歩いたり車運転したりしてるやん?」
「あなたは来たばかりなんですか?」
「今日来た、というか見たばっかり…」
私は意味もなく笑いが出た。初心者に返った気持ちになったのである。
「ここは植物側の世界なんです。」
「植物側ぁ?」
「建物や風景はそのまま、つまり人間と植物が入れかわった世界。厳密に代わっているわけでもないのですが、この二つの世界は同時に別々に存在していて何かふとしたきっかけでこちらに来ることがあるらしいんです。」
少年は誰かから教えてもらったような口調で淡々と話してくれた。
「鉢がきっかけで?」
「はい、あなたもそうなんですね。ヤイコダマが問題みたいですけど?」
私は再び焦った。
「ああ…でも宿主を離れたら生きていけへんようになるから、そこは諦めんとアカンよな…」
私は心にもあらぬことを、更に意味不明なことを口にしていささかドギマギした。
ハッチュウに寄生していたヤイコダマはたった一匹。万が一、それが消えればハッチュウの命も危ない。今までの持ちつ持たれつの関係が急に途絶えてしまうことにより、ハッチュウ自身も弱っていく運命になるのだ。ヤイコダマが逃亡することがあるという事柄自体、家族の誰も教えてくれなかった。もしかしたら言い忘れていたのかもしれない。
それならそれほど重要事項ではないということになるが、生命に関わる事態が重要でないはずがない。となると、やはり立川張家家宝史上初ヤイコダマ逃亡事件といってよいのだろう。どういう理由にしろあまり時間はない。
私はちらりと腕時計を見た。時刻は十時三十分を過ぎたところだった。
「ヤイコダマを探しているんですか?」
少年は黙り込んだ私に尋ねた。
「あ、うん。アカンかもしれへんけど、ずっとついてたやつやし。生死はどうあれ見つけ出したいなあと。」
「じゃあ、それがこっちへ来た原因ですね」
「原因?」
私は首をかしげた。
「植物を世話していて何か生じるとこっちへやってくる確率が高いみたいです。一番多いケースが世話を怠って来てしまったというので…それで反省した人は無事帰れたけど、そうじゃない人はまだこっちを彷徨っているとか。あ、でもあなたはハッチュウがなついているみたいなので怠惰が原因じゃなくて性質にあるんだと思います。ヤイコダマとの関係というんでしょうか…」
(そうなんか…)
私は一安心したいところだったが、そこでさっき目にした青色の物体について話した。
「そういえば、さっきヤイコダマが通り過ぎたなあ。方向でいうと南の方やったみたい」
「わりと近くにいるかもしれないですよね。お手伝いしましょうか?」
「え?でも、鉢探してるんやろ?」
私は手を振り遠慮した。しかし少年は愛想良く頷いた。
「僕も鉢を探さないといけないので…ついでといったら言い方悪いですけど、人数多いほうが早く見つかるだろうし」
私は他に頼れる人もないと思い
「あ、じゃあお願いします」
と軽く頭を下げた。
「言い遅れましたが、僕は雨坂(あまざか)キユイといいます。貴いに結ぶで貴結」
「キューイ、キューイ!」
ハッチュウはなぜか喜んでその名を繰り返した。
「変な名前でしょう。」
貴結ははしゃぐハッチュウに笑いかけた。
「そんなことないよ。あ、えと、わたしは立川張未良(みろう)です。未だ良いやから」
私は彼と同じように名前の漢字説明を加えた。
「粋な名前ですね」
貴結は感嘆の声をあげそうな顔で言った。
(あんたのが粋やって…)
私は心の中でそう突っ込んでおいた。この妙な敬語と嘘のにおわない雰囲気がお互いの間にちょうど良い間を保ってくれていた。
「そろそろ学校に行かないと…」
貴結は突然思い出したかのように表情を変えた。
「学校も皆植物やんな」
私は一応尋ねてみると彼は頷いた後少し首を傾けた。
「だいたいは…でも何人か、本当に数えるくらいですけど、人がいますよ。彼らも僕たちと同じなんでしょう」
(本当に気まぐれなんや…)
私は改めて未知なる世界を実感した。貴結は続けた。
「明日もここで探していると思うので、今日はこの辺で」
「うん、どうもありがとう。」
お礼を言うと彼が反対方向に去っていくのを見届けた。
「感じのいい子やったよな」
私はハッチュウに話しかけた。ハッチュウは
「うん、ヤイコダマ早く見つかるといいな」
と弾むように呟いた。

商店街に再び帰ってきた私とハッチュウは、町慣れもかねて情報収集に努めることにした。
「ハッチュウ歩ける?」
「なんとか…」
ハッチュウは葉を大きく一振りした。私は彼が倒れないように前よりも歩幅を狭めてゆっくり歩くことにした。それがハッチュウにはちょうどよいくらいだった。
「なあ、ハッチュウ」
「なんですか?」
ハッチュウはこもった声質で聞き返した。
「ハッチュウはヤイコダマが家の家宝ってことは知ってたん?」
私は彼に振り向いた、かなり目線も下げて。
「ああ、はい。ご主人に引き取られる前、おばあちゃんが世話してくれてた時、よくつぶやいているのを聞いてました」
「じゃあ、ヤイコダマがおらんだら危険っていうことも…?」
「それはヤイコダマがいる時からずっと知ってました。ハッチュウたちは、だいたい自分にくっついている虫がいて、それがどんな働きをしてくれてるかっていうのがわかるんです。暮らしてくうちに。彼らはハッチュウたちに寄生しないと生きていけない。だから、彼らがそれで少しでも長生きできるんだったら寄生されるのも悪くないなあって思うんです。」
ハッチュウは話すとしばらく黙った。
私は今までこれほど植物に対して感銘を受けたことはなかった。しゃべらないということを考慮にいれても私たち人間の生活にどれほど恩恵を与えてくれるか、頭でしか理解していなかった。
植物を前にして「今日もありがとう」と感謝の意を忘れずに心に秘めているかといえば、私含め大半の人々が意識すらしていないだろう。それなのに、ハッチュウはわが身の心配よりもヤイコダマとの均衡関係が崩れることへの懸念を憂慮していたのだ。彼が非常に継続的な視野の持ち主であることに私は自分が恥ずかしくなった。
「でも、ご主人にとっては迷惑ですよねえ。ヤイコダマが寄生していなかったら、今こんなヘンテコな世界に来なくてよかったんだから…」
ハッチュウはしょんぼりした。私は首を横に振った。
「ううん、日頃の行いを反省するのにここに来れたことはよかったかも」
ハッチュウは私を見上げた。葉が伸びやかになったことから「安心」の二文字が読み取れた。
「こうやって歩いてても埒があかんよな。誰かに聞いたほうがええんやろか」
私とハッチュウは交差点で立ち止まった。
「あそこのバス停にいるご婦人に聞いてみませんか」
「ご婦人?」
男女の区別さえ危うい(そもそも植物に男女の差別があるのか?と思うが、植物=人間ということはその区別も生じてくるはず…)私が目をこらすと、ハッチュウは一番右の葉を伸ばして斜め前を指した。
確かにバス停の前には黒い日傘をさしたいかにも金持ちで品のよさそうなピンクのコスモスが立っていた。
(ご婦人なのか…)
生粋と思われる人間の私には、到底区別できない性別や年齢をハッチュウは同胞だったからかいとも簡単にできるようだった。私たちはそのコスモス、ご婦人の傍まで行った。
「あの、すみません」
私はご婦人に問いかけた。
背を向いていたコスモスは徐に振り向いた。
「何か?」
上品な仕草だった。
見とれている場合ではなかった。
「この辺で青い小さいものが飛んでいってるの見ませんでしたか?」
私は敢えてヤイコダマとは口にしなかった。別に深い意味はなかったが、あからさまに寄生虫の居場所を尋ねるのもぶしつけではないかと思ったからだ。ご婦人は小さな頭をゆっくりと傾けると
「すみませんが、存じ上げませんわ」
至極丁寧に答えてくれた。
「そうですか。ありがとうございました」
私はお礼を言ってからまた交差点へ戻った。
「うーん、なんか一言かけるのにもめっちゃ緊張するわ…」
私は植物に話しかけるという行為に対する違和感にまだぬけないでいた。
ハッチュウは途方に暮れたように鉢を前後にゆすっていた。
「信号渡ろか」
立ち止まっていても仕方ないので私たちは向こう側に渡ることにした。
ちょうど信号が青になったので一歩踏み出し、そのまま歩き出すと対路からナズナ軍団がかっとばしてきた。私とハッチュウはハチあわせぬように急いで渡ろうと走り出した。するとドンと下に落ちた。
(何じゃあこりゃ!?)
私は左右見渡しハッチュウの姿を探した。
「ご主人!」
その声は上から聞こえてきた。
「ハッチュウ!」
私はまずハッチュウが無事だったことを確認し一安心した、が落とし穴にはまった自分への心配におそわれた。そのうち穴を覗き込むナズナ衆でいっぱいになった。彼らに圧倒されてハッチュウはどこかに弾き飛ばされた。私はおろおろしていると地上から
「ざまあみろ人間め」
「マヌケ野郎が!」
などと罵声が次々と浴びせられた。
(何ですかよ、これ…)
私は思考回路がおかしくなるほどわけがわからなかった。とにかく上にあがろうと上り出すと何か降ってきた。白い粒粒が口の中に入った。
(しょっぱっ…!)
紛れもなく塩だった。私がむせているとナズナ衆は懲りずに次ぎは落石ならぬ落葉をしかけてきた。緑の葉がバラバラ頭に降ってきて、顔にもあたりちくちくして痛いったらありゃしない。これじゃあ上れへん…と思っていたところに聞き覚えのある声がした。
「大丈夫ですか!?」
んなわけないわ!と真っ先に突っ込んでから目を開けて地上を見た。
予想通り貴結がいて、私に向かって手を伸ばしていた。
「さっき気づいて帰ってきたんです。ここの横断歩道、人が走ると落ちるんです」
説明しながら彼もナズナ衆からしっかり攻撃されていた。しかし、手をひっこめることはなかった。私は彼の手をとろうと自分の手も伸ばしつかんだ。
「しっかり持って下さい!」
貴結はそのまま上へ引き上げようと力を入れた。
けれども、彼の頭や腕にナズナ衆がちょっかいを出すので、思うように力が入らないようだった。その体勢で三十秒。
「重っ…」
という声に私の耳はピクリと反応した。と思った瞬間手が放されて私は穴底に落ちた。
とっさに両手をつけたため尻痛にあえぐことはなかったものの、貴結が軟弱な奴だと思わずにはいられない心地になった。彼は慌てて
「重いって、体重のことじゃありませんから!!」
と大声で謝った。
穴があったら入りたい…もう入ってしまっているけれども、私は穴底にいても恐縮してしまうくらい彼は焦っていた。何だか彼がかわいそうになってきた。
貴結は再び手を伸ばした。私も今度はしっかりと手首あたりを掴んだ。彼は引き上げ始めたが、ナズナ衆の総攻撃を受けるとまたもや途中でぴたりと止まってしまった。彼は苦痛の表情を浮かべていた。そこで、いきなり体がふっと浮いた。
地に足がついたかと思い、前を見ると尻餅をついている貴結がいた。そして、彼の前には見知らぬ背の高い男の人が立っていた。彼は穴に集っていたナズナ衆をひと睨みした。ナズナ衆は同時に震え上がり彼の迫力に負けて後ずさりし出すと、一目散に退却した。男の人はフンと鼻をならすと私のほうに振り返った。
「ケガはないか」
ぶっきらぼうな口調だった。
二十代後半くらいだろうか。 いかつい顔をしていて、ナズナ衆が逃げ帰ったのも頷けるような豪放磊落な印象を受けた。私はその気迫に押されそうになったがハッと我に返った。
「ありがとうございます」
彼は依然厳しい表情のまま「いや」と低く返した。そして今度は貴結に振り返り彼の元まで闊歩した。彼は貴結の胸座をつかんで身体を起こさせた。
「おい、お前。ちったあ強くなれよ」
彼は眉を吊り上げ貴結を睨んでいた。
びびりまくりの貴結は目をぱちくりさせていた。
「す、すみません…」
彼は泣き出しそうに謝った。
(二人は知り合いなんか…)
私は黙って二人の様子を観察していると、後ろからタタタ…とかけてくる音が聞こえてきた。
「ハッチュウ!」
やって来たのは葉っぱが少しへなへなになっていたハッチュウだった。ハッチュウは私の元まで来ると二度頭を下げた。私は彼のしなった葉をまっすぐになるよう伸ばしてやった。
「ご主人、あの人は?」
ハッチュウは右手…これから一番右端の葉を右手、左端の葉を左手と呼ぶことにする、で貴結につかみかかっている男の人を指した。
「さあ、あの人が助けてくれたんや。貴結くんと知り合いみたいやけど。」
私も二人がどういう関係なのか一段落したら尋ねようと思った。が、お説教は未だ継続しており割り込む隙が全くなかった。
(まだかなあ…)
私は二人の様子を伺いながら何気なく腕を触ると、やけにべとべとすることに気づいた。おそらく、さっきの清めの塩のせいだろう。汗と混ざって余計に気持ち悪い感触になっていた。
「行きましょ」
ハッチュウが左手で私の脚を叩くと真っ先に二人のところへ駆け寄った。
「あ、ハッチュウ」
貴結がハッチュウに気づくと男の人も足元に鉢植えがあるのに目を留めた。
「これはお前のか?」
「いえ、違います。未良さん…あの人のです」
貴結は前方にいる私を首で指し示した。
それに促されて男の人は後ろを振り向いた。私は彼と目が合って思わず苦笑いしてしまった。
怒っているわけではないのだろうが、親しみ覚える形相ではないことは確かだった。むしろ、逆に人を怯えさせるオーラのが何十倍も強く漂っていた。
私は彼に発言するのも躊躇われた。しかし、そこでハッチュウが機転を利かせてくれた。
「あなたは誰ですか?」
純真無垢なハッチュウ。そのおそらく愛らしい笑顔で愛想良く尋ねた。
男の人はだいぶハッチュウを見下ろす格好だったが、貴結を掴んでいた手を放すと態度を変えずに答えた。
「翼…区立博物館の守衛をしている」
それだけの言葉なのに、十分すぎるほど納得できるものがあった。これで花屋の店員とか言われていたら、私は失礼でも大声を上げて仰天していたことだろう。どうりで博物館は強盗の被害が少ないわけだと、一人つじつま合わせが上手くいって満足していた。
と、ハッチュウと会話していた翼さんの表情が険しくなった。彼はしゃがみこんでハッチュウの鉢の例のコブに触れた。
「これは…」
「それ、最近できたんです。成長しすぎたみたいで…」
私はあくせくしながら説明した。
「ここからヤイコダマが出ていかなかったか?」
“ヤイコダマ”という単語を聞いて私は一瞬ドキリとした。
「出て、行きました」
正直に告げると彼は眉をしかめた。
「この鉢、他にヤイコダマがいねえのに元気なんだな。」
私はその言葉に誤魔化しの返答用語が見つからず戸惑った。けれども彼は追及することもなく立ち上がった。
「この辺りはさっきの連中がよくきやがる。近くに知り合いの家があるからとりあえずそこで話そう。」
私とハッチュウに向かって言うと、彼は貴結の肩を軽くポンポンとたたいて先を行った。
 
着いたのは区立博物館近くの路地裏の一階建ての白い大きな家だった。今どき珍しい木造建てだった。玄関先の庭は歩かない物で夏が彩られていた。新緑の葉をつけた高木の間に立つ灯篭。伸び盛りの雑草も脇役と心得てよけた所に出た石段の苔。色彩に富んではいなかったものの、草木からは溢れる活気と生命力が自然と心に染み渡ってくる和風庭園の趣が漂う長閑な佇まいだった。
(読めへん…)
私は門の横の表札の文字を読み取ろうとしたが、石に彫られた字が風化していてなんと書いてあるのかわからなかった。
翼さんは門のインターホンを押した。そして、応答を待たずにすぐに門を開いて玄関のドアの前まで進んで行った。彼がドアをノックするとドアが開いて収穫時のイネが顔を出した。彼を見るなり
「こんにちは。親方はまだお帰りになっていませんので、上がってお待ち下さいませ」
とドアを大きく開け私たちを手招きした。
翼さんの後を貴結、私とハッチュウの順に入った。イネは初対面の私とハッチュウに対してか
「このお二人はご友人ですか?」
と尋ねた。翼さんはわたしたちを一瞥した。
「いや、知り合いだ」
手短かつ的確な答えだった。
彼は慣れた足取りで廊下を歩いていた。外から眺めた家もそうだったのだが、家の中は更に木の温もりが感じられた。ぎんぎらな高価品で飾っているわけでもなく、がんがんに冷房を入れているわけでもなく、窓から心地よい風が吹き抜ける素朴な雰囲気に私は故郷を思い浮かべた。
歩いていて私はふと花瓶に目が留まった。花瓶といってもごく小さなものである。白色の地に藍色の破魔矢模様が入っていた。平たいおちょこのような器に雑草のような草が五、六本生けてあるだけだった。
(植物が植物を飾るんか…)
私は奇妙な感じに包まれた。
(植物内にも区別があるんやろうか)
疑問に思った時、突然そこで貴結の足が止まったのでぶつかりそうになりつんのめった。
先頭の翼さんは前からやってきた黄色いスイセンに何やら話しかけていた。しばらくすると彼は私に向き直った。
「スイが洗面所まで案内してくれる」
スイと呼ばれたスイセンは一歩出ると
「さあ、こちらへどうぞ」
と私を案内してくれた。
「ハッチュウは僕らと先に行こう」
貴結は私に大丈夫だと目で言うと、スイは右奥にある部屋へと私を連れて行ってくれた。

「べとべとするでしょう。とんだ災難にあわれましたね。」
私が顔を洗っている間スイは話し続けていた。
声の高低質等から彼女は四十歳前後だと推測した。顔代わりの花があるからといっても人間でいうとのっぺらぼうと変わらないので、そこいらの植物がそのまま喋り、動くといった感覚なのだ。
「人を良く思ってない植物も中にはいるんですよ。恩着は区長が聡明な方だからどんな生き物にでも寛容なんですけれど、反抗するものもしばしば」
スイはさっと私に白いタオルを差し出してくれた。
「あの二人も植物を追ってこっちに?」
私はタオルを受け取ると腕を拭いた。
「貴結さんはそうだけど、アヤトさんは違います。あの方はこちらからあちら、つまり植物と人間の世界とを自由に行き来してらっしゃるんです」
(アヤトさん、翼さんの名前やろか)
拭き終わったタオルをスイは渡すよう緑の手を出した。私は彼女にタオルを渡した。
「そんなことができるんですか?」
「確か、三十回繰り返せば可能だとか…」
「三十回…」
私は頭をかかえて叫びそうだった。
一、二回はともかく十回でも故意に別次元へ飛ぶことなんてそうそうありえることなのだろうか。もしや、植物愛好家で埋もれるほどの植物と共同生活しているとか、そこでしょちゅうヤイコダマを逃がしている…と想像を膨らませておいてそこでやめた。あの超堅物そうな翼さんがそんなそそっかしいとは絶対に思えない。
“ヤイコダマ”という言葉に私はさっきの翼さんの厳しい意味深な表情を思い出した。
「あのー、こっちの人もヤイコダマっているんですか?」
私は聞きづらかった。「飼ってるんですか?」を遠まわしに言いたかったのだ。
ところが、私の配慮も杞憂だったのかスイはてんで頓着することもなく
「寄生虫のことですね。私たちは向こうでのあなたたちですからいませんけど…近頃、あちらのヤイコダマの迷子が多いらしいですね。親方が役所には迷子のヤイコダマが溢れているって困ってましたわ。そうそう、親方は区役所にお勤めしてらして、区民生活部の交流課が担当なんですの。お帰りになったらヤイコダマのことも詳しく説明してくださいますわ」
「はあ…」
スイは言って私と洗面所を出た。

案内された応接間には貴結とハッチュウが並んで椅子に座っていた。
翼さんは窓際に立って外の様子を眺めていた。
「おかえり!」
私が部屋に入ってくるとハッチュウが嬉しそうに椅子の上で跳ねた。
貴結は
「あ、ここ座ってください」
と前の席を指した。
私はハッチュウの向かいに座り一息ついた。窓際の翼さんの目線が部屋に向いた。
「帰ってきた」
しばらくすると彼の言葉通り部屋に近づいてくる足音が聞こえてきた。
コンコンとノックの音がするとハッチュウが気楽に「は~い」と返事した。
ドアが開き一人の人が入ってきた。
「ただいま」
私たちに向かって笑んだ表情の爽やかさは場を一挙に和ませた。
「今日は何匹返したんだ?」
翼さんは仏頂面のまま彼に聞いた。
「結構頑張ったんだよ。三十五匹。でも、その分また入ってきたけどね」
彼は肩をすくめた。そして私たちの座っているテーブルに目をやると貴結に向かって声をかけた。
「貴結君久しぶり!それと…」
言いかけて彼は私とハッチュウに視線をあわせるとニコリと笑んだ。
「君達もヤイコダマを探しに来たんだね。初めまして、オレはななしろまっていいます」
私はしばしポカンとした。首元に緋色のスカーフを巻いていて、瞳は深い碧色をしていた。
翼さんより少し下くらいの青年なのだが、雰囲気口調からしてゆったりとしていた。温厚篤実という言葉がぴったりだった。細身な人で、気丈夫という感じの翼さんと並ぶとイマイチ頼りなさげな正反対の性格にも見えないことはなかった。
私は間の違う雰囲気に酔っている暇なく挨拶をした。
「私は立川張未良です。で、この子はハッチュウです」
私は目の前に座っていたハッチュウを見ながら言った。
「その子にヤイコダマがついていたんだね」
「そうです。それが突然行方不明になりまして…ちょうど商店街あたりで見かけたからその辺探してみたんですけど、見失ってしまったようで」
私はいきさつを話すと、ななしろまさんはうんうんと頷いた。
「今日見てきたところ役所にはいなかったから、死滅かあるいはまだその辺を浮遊しているかだね…それか、儚木で捕獲されたか」
「捕獲はありえないだろう」
翼さんが横から口を挟んだ。
「どうして?」
ななしろまさんは穏やかに問うた。
「いくらあのイカレ主がヤイコダマ病だからって、そこらに浮遊している奴を捕るような面倒な真似はせんだろう。それなら役所に行って盗んできたほうが手っとり早い」
「実際に可能性はあるね。だけど、そのイカレ主はただヤイコダマを狙っているわけじゃないよ。中でも重宝されているムケ種を狙っているんだ」
「ムケ種?」
私は思わずそこで声を上げてしまった。ななしろまさんは丁寧に説明してくれた。
「ムケ種っていうのは、ヤイコダマの中でもとても珍しい種類なんだ。普通、彼らは一つの植物に複数寄生するだろう?でも、ムケ種のヤイコダマは一つの宿主に一つのヤイコダマが寄生するんだ」
(それってハッチュウもそうじゃなかったっけ…)
私は聞きながら次第に嫌な予感に包まれた。しかし、渡された時に「ムケ種」なんという単語は一度も耳にしたことがない。単に「立川張の家宝」であることを再三言われただけで、それ以上の詳しいことは実は謎のままだったのだ。
私は表面では考え込んでいることを感づかれないように、それとなく相槌を入れていた。
「で、植物とヤイコダマの関係はご存知の通り一蓮托生。どっちが欠けても生きていけないっていうことなんだけど、何かの拍子にたま~にヤイコダマが宿主から逃亡することがあるんだ。複数いる場合は少々減っても残りがいるから窮地に至ることはないけれど、一々の場合だとそれが出て行ってしまったら大変なことになるんだ」
「植物は死んでしまうんですよね…」
私はハッチュウを視野に入れないようにして尋ねた。
「すぐにっていうわけじゃないけど、でもだんだんエネルギーがなくなって最終的には死んでしまうことになるね…」
言いかけて彼は少し視線を下げた。
私はキョトンとしていると彼の後ろにいた翼さんが後に続けた。
「まあ、要はその植物の命ともいえるべきヤイコダマは稀っていうことだな」
「そう、ムケ種は植物だけでなく動物、主に人間にも恵みをもたらすんだ」
再びななしろまさんが話す。
「ヤイコダマに触れるとリラックスできたり、噂では人を幸福にする力を秘めているとも。」
(“ヤイコダマアレルギーの人を除いて”なんじゃなかろうか…)
私は彼の突飛なる発言に胡散臭げな目つきになりそうだった。
(まあ、そんな人世間にようけいるからな…)
重症にも及びにくいアレルギーのことなど、私は初耳の連続に疑問文が連なってばかりで口に出すのが面倒くさかった。
「“幸福”は真偽定かじゃないけど、何かしら力はあるらしい。その力を悪用しようとしている人もいるんだ…」
ななしろまさんの表情に影が差した。
「犯人は儚木の区長ってことはもうわかってんだけどな。」
翼さんがやれやれと首を振る。儚木区は恩着区の東隣の区である。
「これが難しい人でね…今まで捕ったヤイコダマのことも素知らぬフリされるばかりで」
「恩着(ここ)の区長が甘すぎるんだ。もっとガツンと言ってやらねえと」
「先日、本人に直接言ったらしいよ。そしたら、どうせ尽きる命を利用して何が悪いと逆切れされたんだって。そこで引き下がったのもあれだったけど、向こうは完全にこっちの意見は無視だよ」
「こりゃ、いつか殴り合いになるぞ」
「その時はよろしく頼むよ」
「俺一人立ち向かってどうするってえんだよ…」
ななしろまさんの揶揄に純人さんは呆れ口調で返した。
(う~ん、これはちょっと異常にマズイなあ。ハッチュウについていたんは今の話によるとムケ種なんやろけど、そうなると隣区の区長に狙われてる可能性が高いってことで、もしかしたらもう既につかまってる事態も…)
どの状況にしろ、ヤイコダマを見つけないとハッチュウの命が危ない。今こうしてハッチュウが元気でいるということ自体奇跡に等しいかもしれぬという点も疑問だった。しかし、ここでムケ種のヤイコダマがついていたということを話せば、必然的にあるいは巡り巡って家宝であることも話さなければならない。
他人に家の家宝を安易に教えてはいけないと祖母から二十一回も言われたからには禁句レベルの単語であるのだが、だからといってムケ種のことだけ述べて家宝を秘密にしておくのはますます怪しい。なんであんたなんかがムケを持ってんのや?と自分ですら突っ込めるのに彼らが問わないはずがない。そういえば、この点もはっきりしない。
私がなぜムケ種のヤイコダマの寄生したハッチュウを育てているのか、根本的なことに対して謎の渦がぐるぐる回っていた。そして、これまでの重要記述を祖母が言ってくれなかったのはどうしてなのか、向こうでは気にもとめなかった事柄が次々に疑問として噴出された。
「でも、ハッチュウは見たところ元気一杯って感じだから、残りのヤイコダマが何とか頑張ってくれてるみたいだね」
「え、あ…はい」
私は曖昧に答えた。
にこやかなななしろまさんを翼さんは一瞥したものの、何も言わなかった。私は平然を装いつつ、内心はどよめいていた。それは科目の単位を落としたために受かってたよと両親に嘘をついてしまったのと同じ罪悪感に似ているのかもしれなかった。
「で、貴結君は?鉢見つかった?」
「いえ、まだなんです」
テーブルの椅子に座って私らの会話を聞いていた貴結は残念そうに首を横に振った。
「見つけたと思ったら、未良さんのハッチュウで…」
彼は力なく笑った。そこに追い討ちをかけるように翼さんが徐に口を開いた。
「落とし穴から一人助けられなかったもんな」
「そうなんです。本当にすみませんでした」
貴結はまた私に向かって謝った。
「いやいや、いいよ」
私はそんなに深刻にされたくもなかったので彼に気にしないよう言葉をかけた。それでも、彼は未だに申し訳なさそうな気を発していた。
「そうなのか…う~ん、もうちょっとしっかりした方がいいね」
フォローのつもりなのだろうが、ななしろまさんのその何気ない言い方が翼さんとは違って彼にプレッシャーを与え、更に落ち込ませる種でもあった。
翼さんも
「お前の場合、根が細いんだよ。鍛えてやっている身にもなってみろ」
と貴結を嗜めた。
彼は大人の二人にあれこれ言われてすっかりしょげ返ってしまった。
「はい…気合入れなおしてきます」
あまりにも自信なさすぎる答えぶりだった。習字の時間に右上がりの字を書けと注意されているのに、右下がりになっていくような感じだった。
(ぜってぇ、気合入れようとしてねー)
私は彼の発言に合いの手を入れたかった。
見た目はそれほど貧弱ではない。ごく普通の高校生である。明らかにどうしようもないオチこぼれ系ではなかった。私のあてにならない洞察力によれば、彼は芯はわりと太いのではないかと思われた。確たる証拠はなかったが、強面の翼さんに怒鳴られて気合を入れなおす余裕があるくらいなら意気地なしのへっぽこ野郎ではないはずなのだ、と私自身そう思いたかった。
「ハッチュウも手伝う。キューイはいい人だもん」
突然ハッチュウが声高らかに宣言した。
隣に座っていた貴結は驚いて
「気持ちは嬉しいけど、ハッチュウじゃあ…」
と言いかけた。
「だいじょうぶ。ハッチュウ、キューイみたいに弱くないですから」
ハッチュウはサラリといってのけた。
図星をつかれた貴結は一瞬止ったが結局は折れた。その様子を見ていたななしろまさんはふふっと軽く笑っていた。私もつられて顔がほころびそうになった。しかし、翼さんの笑ってない目と合うと、その感情はふっ飛んだ。私がどういうリアクションをとるべきか迷っているとななしろまさんも彼に振り返った。
「怖い顔してるよ」
「いつもこんなんだ」
翼さんは冷めた目をして答えると窓際へ移動した。
「まあ、あまり気にしないで。アヤは儚木区長に匹敵する気難しい人だから」
ななしろまさんは、翼さん本人には聞こえぬよう小声で囁いた。
私は思わず笑ってしまった。
「ご主人が笑った!ハッチュウ一安心です!」
ハッチュウの声に私は気分がだいぶ落ち着いてきていることに気づかされた。
信用できそうな人達、ごくわずかな印象から行けば奇人達ばかりだが、妙な安堵感に包まれているのは心の温かい人達ばかりだからなのだろう。私は右手を伸ばしてハッチュウの頭をよしよしと撫でた。
「仲がいいんですね」
傍らでみていた貴結が羨ましそうに声をかけた。
「誰でもそうなんじゃないかな。一人でいる時は優しくなれるもん」
「僕はほったらかしにしてたから…きっと見つかっても無視されるだろうな…」
彼は意気消沈しかけていた。
「そんなことないよ。植物は自分の根持つだけやって」
「ご主人うまいです!」
ハッチュウはまたもや飛び上がった。
私は狙ったわけではなかったが、褒められてちょびっと嬉しくなった。
「あ、アヤ、そろそろ行かないと。」
ななしろまさんは窓際で動かない翼さんに声をかけた。
彼は振り返り
「ああ。」
と短く返事するとこちらへ戻ってきた。
「これから用事で出かけなきゃなんないんだ。昼間は荒くれ植物が出現しやすいからしばらくここで休んでていいよ。適当に時間たったら出て行ってくれて構わないから」
ななしろまさんは微笑むと翼さんと共に部屋から出て行った。