つっこみ思案
「称好(ニイハオ)」
「…再見(ツァイツェン)」
「何だよそれ」
私はそっぽを向いた。
そして曲の続きを弾き始めた。
私は訪ね人を完全無視して、練習に集中しようとしていた。
しかし、相手は嫌がらせのつもりか、私の視野に入る位置に移動しやがった。視野の隅であっち行ったり、こっち行ったりしているブツに気をとられて私は筝を弾く手を止めた。それからため息をついて
「何か用?」
と立ち上がった。
すると、奴は歩くのをピタリとやめて言った。
「用がなきゃこんなとこにこねえ」
「用がなくても来るとこじゃないでしょ」
「あー、そうだっけ?そーうだったっけ?」
(コイツ……)
私は、わざとらしく反復する奴の言動に爪をパチパチと鳴らした。
「ほれ、この前の。」
「ん?」
私が苛立っているのも気にとめず、奴は白くて薄っぺらいものを私の目の前に出した。
「ティッシュじゃんか」
私は顔を上げ、訝しげに奴を見た。
「この前借りたからさ」
奴は私に受け取るよう促すように、ティッシュ一枚持つ手を振った。
「んなもん返さんでいいよ」
「でも、“貸して”って言ったんだし」
「ならもらっとく…もしかして、これだけに来たってわけじゃないよな?」
「うん、これだけに来たよ」
「アホや。」
あっさり言い放つ奴に、私は呆れてこれぐらいしか即座に言葉が浮かんでこなかった。
しかし、奴はてんで頓着せず
「いつものことじゃん。偵察、偵察」
とケラケラ笑った。
「一歩間違えれば犯罪よ」
私はその笑いがムカついたため、怒りをあらわにして言った。
「…ていうか、侵入する自体かなりな問題だと思うけど」
「なーに、誰もわかんないよ」
「私がバラせばあっという間に知れ渡るよ」
毒気を含んだ私の発言に、奴はしばし戸惑ったようだった。
私は今日の相手の装いをまじまじと見やった。
小星がキラリと光るシルバーのネックレス、脇を絞った白地に青黄赤のドット柄のタンクトップ、黒いブーツカットパンツ、ピンクのミュール。
案の定、奴は女装してきていた。

奴は名を椿綾(つばき りょう)という。どこかの中国料理店の名前みたいだ、とクラス名簿を見たとき初めて思った。しかし、私に言わせてみれば絶対名前負けしている。
奴とは高校からの付き合いで、今年でかれこれ3年にもなるのか…。当時はもちろん、女装なんてしてなくて普通の男の子、第一印象は”好青年っぽいな”だったのだが、大学生になって一変も一変。そこそこに仲良かったわけだから、気の置けない仲と称せたかもしれない。
でも、受験間近になってくると、ある程度の節度というものがいるなあと私も自覚してきたから、今年の春休みに久しぶりに会った時には、ぎょっとした。開いた口がふさがらないとはまさにこのこと!で、扮する理由を問うてみれば、「女子はどれだけ得か試してみてるのさ」ということらしかった。
といっても、それも真偽さだかでない。私は奴が変装しようと、別段忌避の念を抱くわけでもなかった。奴はもとから変人に近い部類に入るし、それに何より女子に扮することを、私も実はちょこっーとだけ関わっていたのだ。

たいしたことじゃない。高2の夏休みに奴と一緒に映画を見に行った時に、「レディースデイはいいよなあ」と奴がいうもんだから、私は「じゃあ、女装してこればいいんじゃない?」と冗談交じりで、でも、案外それを期待していた…という出来事があったのだ。まさか、それを真に受けて試みたことではないだろうけど、でも女装の動機からして十分ありえるきっかけだと私は思っている。それに、理由がどうであろうと、奴には似合っている。そんな私情はともかく、最大の問題はここが女子大ということである。女子大に男が侵入していたなんぞ世間(小さい世間だが)に知られたらどうなるか分からないし、その場合、私は被害者としての言い訳が可能だとしても、奴の処分がとんでもないことになりそうで、そこが心配なのだ。しかも、女に化けて侵入しているのだから、猜疑心は深められてしまう一方で、とんだ濡れ衣までも着せられそうな予感がしてならない。
奴は大学の前をうろついているようなロクでもない男とは違う。だからといって正直者のいい奴というわけでもない。私が知る限り、奴はただ、”人を引き寄せるお人好し”だということである。

「んなコトできないよ」
「なんでよ?」
目くじら立てているわけでもないのに、奴が変装して来ると、ケンカを売っているみたいな口調になってしまい、自分でもキツくなっている理由がわからなかった。
「さっこの脅しは現実にならないもん」
奴はその憎らしい程きれいな顔でクツクツと笑った。
私は小ばかにされている気がしてならなく、
「笑うな!」
とピシャリと言い放った。
すると、奴は意外にもその言葉に従い、窓際に置いてあった丸イスに腰掛けた。
「今日はいつもより不機嫌みたいだな」
私は的を射られた感じで、返答に戸惑ったものの、
「だって、半押しで一音さがるんだもの」
と私側から見て箏の右端の平らな空間、すなわち龍角を叩いた。
奴はその様子を見てうーんと考え込みだした。

私には奴がナゼそこまで考えこむのか理解できなかった。筝のことは長い付き合いだから、ある程度は知っているので、難しいことを言ってはいない。なのに、奴はかき氷のシロップをイチゴにするかレモンにするかで迷っているかのごとく、何度も首をかしげていた。
私はその間に付き合いきれず
「はぁーあ…」
と小さくつぶやき、練習再開しようとした。
するとそこでちょうどよく奴が
「あー、そうか!」
と一人納得して声を上げた。
私は親指を弦に当てる2,3センチ上でピタリと静止した。そして、今度は満足げにえんでいる奴が妙に気持ち悪くて、手を龍角に置いて尋ねた。
「何が“そうが”なん?」
「あー、いやー、なんでも…。」
奴は何事もなかったかのように惚けた。
私は真理追究する意欲もなかったので、プイと下を向いた。
「用が済んだら帰った方がいいよ。誰か来たら怪しまれる」
「怪しまれるって、女友達が来るのは普通じゃねえの?」
「普通?そう見れないこともないけど、違和感ある」
私は語尾を強調して言った。

けれども、この”違和感”という言葉、意義どおりではなかった。
もちろん、背の高い男が長髪にし、メイクもバッチリしているのはいささか不気味である。それは私が奴の素顔を知っているからなのかもしれないが、それでも、こんな女の私が羨むほど綺麗だなということが発覚すると、私は、この面下げてられないというか、何かもう恥ずかしくなってきてしまう。本人は「中身は変わらないんだから同じように接すればいい」って言ったものの、こんなにギャップがあったんじゃあ、直前になって普段どうやって接していたかスッパリ忘れてしまうのがいつものこと。だから、変装の奴には怒りっぽい口調になってしまうんだろうな…。
ぶちあけてしまえば、単なる嫉妬なのよね。女子大だから、紛れれば男だなんてことは全く分からないんだろうが、中には勘のいい人もも何人かはいて、そういう人らは簡単に見破ってしまうだろう。だから、長居は危険なのだと私は、奴に少々ヤな奴と思われたとしても伝えたかったのだ。

「それはないと困るさ。変装ってもんには」
私の願いとは裏腹に、奴には全く去る意思が伺われなかった。
私が返答しかねて黙っていると、奴はイスからすくっと立ち上がった。
「それより、朝っぱらから練習なんて熱心だな」
「昼から授業詰まってて来れないの。毎日そんなんだから、朝か日曜しかできない。」
「ふーん。でも、それだけやってたら結構な量になるよな」
「なってないよ、全然」
私は部活の中身に触れられて本音を言ってしまいそうになった。
それを私は顔をふいっとそらして暗示したから、奴が何かあるなと問い掛けることを見越して私は自分から正直に話してやった。
「週に4日来てもまだ足りない。5月に強化合宿があってさ、その時はけっこう上達したなって実感したの。でも、それから2ヶ月経って、あれはただの妄想だったのかもって思ってさ…高校でもやってたっていうのに基礎が中途半端で、初心者の子と変わらないなって…
いや、たまにその子らの方が上手いって思うときがある。だからなんか焦ってしまって。抜かされたらどうしようって…抜かされるより置いてかれるほうがコワイんだけどね。そうならないようにうんと練習しなきゃって思うけど、これでいいのかわかんなくなってきた。」
「さっこはいつも気にしすぎなんだよ。」
いつの間にか筝のまん前、つまり私の正面に移動して座っていた奴は励ますように言った。
私はさりげなく爪を鳴らして
「気にしないでいられる方がヘンだよ。最近ね、自分には向いてなかったんじゃなかったのかって・・・ふと思うんだ。だから弾いてて虚しくなってくるのよね。自分は下手なんだってのは重々承知しながら向上してくもんなんだろけど、私は全く上がってない気がする。数ヶ月の間で、たいした練習もしてないのに、伸びるわきゃあないんだけどさ。」
私は泣きたくなってきた。
こんな弱音を吐くとは、甘ったれたヤツだなと情けなく思えてきた。
話す相手も相手で、期待する答えを決して与えてくれないことはわかりきっているはずだった。
しかし、口に出してしまったのは忍耐力が極めて小さかったからなのか、それとも相手が奴だったから気を許してしまったのか…どの理由にしろ、この邪魔くさい靄を一掃したい衝動に駆られて、私は奴にいらだっていたのかもしれない。

私は奴の様子をうかがった。
奴は困惑したカオでじっと私の方を見ていたようだった。
(こんなこと言われても困るよね…)
私はこのことを考えるのをあきらめかけると、奴が口を切った。
「下手なら下手なりにがんばればいいじゃん」
私はその言葉に反応して奴と顔を合わせた。
奴は真剣な面持ちのまま話を続けた。
「上手いとか下手とか、オレにとっちゃ何でも構わないんだけど、まあ、さっこが上手くなりたいなら練習するしかないだろうな…部に入ってる限り上達するものなんだろうし。とにかく、向いてなくてもやり続けることさ。さっこはまだ2年ぐらいしかしてないんだろ?だったら、まだ向いてるか向いてないかなんて正確にわかんないよ。
それに、向いてるからって上手くなれるかは、その人の努力しだいじゃん?逆に不向きでも一所懸命努力して上手くなれる人もいるんじゃあないかな。さっこにはさっこの成長の仕方があるんだよ。経験してるのに、初心者の人と変わらないっていったけど、”基礎がなってなかったな”って反省できる時点で、その経験は無駄じゃなくなってる。さっこはよく分かってるよ。だからさ、思いつめんなよ…って泣くなよ 」
「泣いてない!」
私は思いっきり鼻をすすった。
ドバッと涙腺口から塩水が流出する直前で、ぐぐっと飲み込んだ。多少の鼻水も一緒に飲み込んだため、喉に不快感がはしった。
「…何笑ってんのさ」
私は横目で奴を睨んだ。
話し終えてから奴は、ニヤニヤ笑っていて、綺麗なんだけれどもキモかった。
「今日、やっと笑ったな…って」
「……」
私は言われて初めて顔の筋肉がゆるんでいたことに気づいた。
「そろそろ帰らないと、また大変だー」
「またって?」
私はだいぶ落ち着いた気分で彼に問うた。
「ここで泣かれたらオレには始末つけられない」
「人前で泣いたりなんかしないもん」
全くの鼻声だと実感しつつも、私は奴の言葉に断固拒否の姿勢で臨んでいた。
しかし、さっきよりも楽観的な気持ちが心の中に少しずつ広がっていくのがわかり、泣きたいけどでも、笑いもしたいという実にヘンテコな感覚に包まれていた。
奴は始終私を見ながら話していたと思われたが、少し間をおいてからさらりと言ってのけた。
「さっこは笑ってる方がずっと似合うよ」
私は反射的に奴のほうに振り返った。
奴は形容の仕様がないほどの美顔でにまりと笑った。私は“じゃあ、私以外はどうなのよ?”とツッコむ余裕もなく、頬の辺りが通常より0.2,3度上昇した気がして言い返しようがなかった。多分、素顔で同じこと言われたら、私は顔から火を噴いて奴にむかって筝を放り投げていたかもしれない。

私と奴の間に数分の沈黙が流れた。
すると、ギイィーと扉の開く音がした。
私はドキリとして入り口を見た。
「おはようございます」
「あ、おはよー」
やってきたのはユンナ先輩だった。
ユンナ先輩は3回生で、この部では副部長を務めている。
先輩は荷物を部屋の隅の色あせたソファに置き、譜面と爪を取り出すと私らの方へやってきた。
「友達?」
「あ、はい。」
先輩は見知らぬ存在に気づき首を傾げたのに対し、私は慌てて返事をした。
「背高いねー」
先輩は可愛らしい笑顔で言うと、部屋の奥においてある立奏台をとりに行った。
私はバレやしないかドキドキしながら、さっきの緊張とは違った言ってみれば危機感というものを抱きつつあった。そういうことで、奴に早く帰れの合図を目線で必死に送った。さすがの奴もこれには同意したものとみられ、
「じゃあ、帰るよ。」
と立ち上がり、立奏台を持って出てきた先輩に軽く会釈すると、そそくさと退出していった。
私はほっと一息ついた。まだ心臓が二重にバコバコいっている。

「どう?進んでる?」
ひょこっと先輩の顔が私の視野に入ってきた。
私は突然問われて
「はい、なんとか」
とどもってしまった。
「この曲簡単でしょ?」
「えっ?」
私は目を丸くして先輩を見た。
先輩は中腰になって手前にある楽譜に視線をやっていた。
「1パートは単音が多いし、押さえも少ないし。超難しいっていうところはないでしょ?」
「あー…はい。でも、間の取り方が難しくて」
私も譜面を注目していた。
「ゆっくりだと慎重さがいるからねー」
というと先輩は姿勢を戻し、自分の箏の用意をし始めた。
私は慎重さか…とおよそ自分にはふさわしくない言葉に気落ちしていた。しかし、ずっとそうしているわけにもいかず、練習を再開しようと思い始めたそのとき、
「上手くなったよね」
と先輩の声が耳に入ってきた。
私は手を絃の上に置いて先輩を見た。
先輩は愛らしく微笑んで言った。
「強化合宿の時はホント、びっくりしちゃったよ。これからもっと上手くなるよ。今の曲はさゆこちゃんにとっては物足りないと思うけど、でも、簡単なほど基礎がしっかりできていないと駄目だから。嫌になるくらい弾きまくれば、次に難しい曲がきてもすぐに弾けるようになるよ。だから、今はつまんないなあって思っても、練習した分、絶対に上達するからがんばろっ !」

私はただもう恐縮するばかりで「はい…」とかいって曖昧に頷くことしかできなかった。ちゃんと見てくれてる人はいるんだ・・・なら自信もって続けなきゃ、そうだよ、これからだ、と心の中の靄がスッと晴れていくのが感じ取れた。
「さぁてと、私も負けてられないね。」
先輩はニコリと私に笑んでから向きを変え、調弦を始めた。
私は絃を見つめながら、まぶた河口に押し寄せられ溜まっていた塩水が、ほんの少し、頬をつたうのを左手の甲で拭った。
そして、気を取り直したところで、再びギィと扉の鈍い音がしたのを聞いた。その方向に振り返ると、扉がわずかに開いていて、そこから人の姿が見えた。

(立ち聞きしてたな…)
私は泣いていたことがバレぬように、左手で頬を軽くパチパチとたたいた。そうして、奴を見ると奴は穏やかに笑った。
あの笑顔は作り面(ウソ)なのに、とても爽やかでキレイな笑顔だった。私はつられずに
「アホ」
と二音を口パクではっきりと伝えてやった。
奴はそれがきちんと読み取れたようで、一瞬顔をしかめたが、手をひらひらと振って階段を下っていった。
私は軽い気分でふふっと笑むと、扉を閉めに立ち上がった。

ボロい扉の横の小窓から外の景色を眺めた。
青空に浮かぶ一つの雲に、いくつもの雲がゆっくり歩み寄って滑らかな曲線を描いていた。

-終-

中国語挨拶で始まったのは当時中国語の授業をとっていたので…
覚えてみると使ってみたくなるのです。えへ。
それはともかく、言葉の威力は凄いなあと改めて実感。
声をかけてもらえること自体に喜びを与えられるのかなと思います。