〜六段の調〜
ちょうど一年前のことだ。再び楽譜を手に取りページを繰ると、当時の苦戦の様子がありありと頭の中に描かれた。
 箏の基本ともいうべき六段の調。はじめ、単音ばっかで簡単だろうと甘くみてかかったら、それはそれは大きな痛手を負った。
カタブツ、一筋縄では上手く弾きこなせない曲で、その頃の苦難の状況が日記の一ページにこう記されていた。

 「2003年5月24日 中間試験も終わって、満足に箏が弾けると思ったらわりとそうでもなかった。指が滑る。音もなんとなくぎこちない。”かたはらいたきもの”に書かれていたのが納得できる」家だと空間が狭く音がこもってしまうので、いつでもスタッカートみたいな音がするのかもしれない。
二、三段は押しが多いから無理にすると骨にあたって弾くどころじゃない。正座がもたない。一段に集中力使い切って最後は適当になる。優雅に弾けたらなあ。久々に爪をはめたけど、シャシャテンのとこで爪がぶっとんでいきやすい。爪の輪っかの黒い部分がほとんどはがれていた。

自分はそれだけ頑張ってきたんだ・・・と褒めようと思いつつ、微妙に奏法が間違っているのかもなあと疑った。基本を教えてもらってないから、自己流でつっきってきた気がする。
「音は入部当初よりもちょっとはマシになった感じ・・・」
この杞憂も舞台上では速さにかき消されてどこかに飛んでいっていた。
本番で、音間違えしてはいけないと思って先々意識がいくと、スピードが普段よりも速くなる。典型的な緊張の表れだ。

あれやこれやと回想し、閉じた楽譜を見つめた。
今、もう一度この曲を弾くチャンスが訪れた。
おぼろげな記憶を頼りに弾くと、途中でつまったものの通して弾くことが出来た。
1年という間があったから、曲の感覚を忘れてしまい、音けれど、この指は手は昔のことを覚えていてくれたのだった。それが何百回弾いた努力の成果なのかどうかはわからない。一生懸命が報われるとは限らない。人は努力に報われもするし、裏切られもする。

この世は無常だ。
六段を練習しながら、この曲にも無常観が溢れているなあと感じたことがあった。一段、二段と似ているようで少しずつ違うように、今日と明日も同じようで変化しているのだ。
だから、努力の報われようも日々変化するもので、絶対的な結果なんて本当は存在していないのかと思うのだ。それゆえ、報われても裏切られても努力してみようという心構えであり続けたい。時には無駄な努力があっても、それは必ずしも損にはならない。
もしも損をしても次に損しなければいい。次も損したら、それは損じゃないと思えばいい。
損得感情抜きの視点に立てば、そもそも「努力は報われるかどうか」ということ自体問題になってこないはずだ。それに、食料を買うんじゃあるまいし、いちいちどれが得かなんて考えていたら億劫だし、それに気をとられ過ぎて無味乾燥な心持ちを持った人間になるのは嫌だ。

あの頃は一人で悩んでいたけれど、今度は仲間と一緒だ。
志を同じにするもの同士での演奏からは、また一味違った調べが生まれるだろう。

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