お箏の歴史(簡易バージョン)

お箏は、平安貴族の時代以前から存在しますが
箏曲として大成された(いわゆる俗箏)のは近世以降なのです
奈良時代〜 唐(中国)から伝来。雅楽などの弦楽の合奏に使われた
平安時代〜室町時代 宮中や寺社の儀式、宴遊などに使われ貴族の趣味・教養として広がる
鎌倉時代〜 武家庶民の音楽として平家琵琶がおこる
室町時代末〜 琉球より三味線渡来(1562年)
安土桃山時代〜 三味線組歌が作られる
北九州の僧・賢順(けんじゅん)が雅楽の箏曲をまとめる
筑紫流箏曲(筑紫箏)のはじまり
*高尚で娯楽性は少なかった
江戸時代初期〜中期 箏曲の基礎の大成
筑紫(つくし)流箏曲を学んだ八橋検校がこれを基本として
楽器や奏法の定型化をはかる

段もの…歌を伴わず箏などで演奏される器楽曲のこと
   *段もの三曲:『六段』、『八段』、『みだれ』
組歌…最も古い楽曲形式(箏と三絃がある)
平調子、雲井調子の考案

1630年頃〜庶民音楽として三味線が流行る(長唄、端唄、小唄など)
1650年頃〜三味線組歌衰退→地歌の登場

*世俗的で芸術性の高いものに
三絃との合奏(ただし、パートはほとんど同じだった)

箏曲の停滞
型にはまりすぎた組歌
→箏の作曲が少なくなる⇔厖大な数の三絃の新曲
箏は三絃に便乗して合奏する形で発展していく


<京都>
生田検校箏の合奏範囲を広める、地歌曲との合奏
三曲合奏…箏、三絃、胡弓
(→江戸後期〜箏・胡弓・尺八がさかんに)
三絃の技法(スクイ)に合わせてつめの形状を変化させる
…地歌三絃との合奏→上方の主流になる

<大阪>

・峰崎勾当、三ツ橋勾当ら…地歌の楽曲形式「手事もの」の完成
・市浦検校…元の三味線パートに対して異なった旋律を持つ箏のパートが作られるようになり、合奏効果が高まった(替手式)

<京都>

・松浦検校、菊岡検校ら…京都の地歌を多数作曲
・八重崎検校…箏パート作曲(手付)
「京もの」、「京流手事もの」
*複雑な合奏を楽しめるように発展

<江戸>
山田検校箏の改良(音量が大きくなる)
→江戸に下り、山田流箏曲を創始
(地歌ではなく、浄瑠璃の音楽スタイルを取り入れたもの)

 

江戸時代後期〜 ●箏の再発展●
<京都>

光崎検校…箏を三絃から独立させる
組歌、段ものスタイルに、当時の流行をプラス
『秋風の曲』、『五段砧』
<名古屋>
吉沢検校…雅楽の旋律や技法を取り入れる
古今調子の考案、
『千鳥の曲』『春の曲』『夏の曲』『秋の曲』『冬の曲』の5曲を
「古今組」とよぶ

この頃になると、三絃は追究し尽くされる
箏は三絃からはなれ、箏独自の作曲を目指す
歌詞に古今集の和歌を多用→復古主義

江戸時代末期〜現代 ●西洋音楽の影響と発展●
明治時代
西山検校…三絃なしの箏・尺八曲を作る『秋の言の葉』
→明治新曲

大正・昭和時代
宮城道雄17絃の考案、西洋音楽などの影響を受けた新たな曲
『春の海』
→新日本音楽

現代
…西洋音楽、ポピュラー音楽など幅広い分野の影響を受けている
→現代曲、現代邦楽  
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