ぽんぽこぽーんのおまじない(1)
桜色に染まった一面。
春でも訪れたのかと目をこすり、ぼんやりとした視界がクリアになるとパチリと瞼が開いた。自分の部屋には存在し得ない配色に戸惑いを覚えた私はゆっくりと上半身を起こし、爪を立てて両頬をつねった。 痛い。どうやら現実らしいということを悟った私だったが、今いる部屋が自室とは異なるテイストであるのは一目瞭然だった。ナチュラルカラーを基調としたインテリアが、洋風デザインの白フレームタイプのシングルベッド、ピンク地にイチゴ柄がプリントされたフリルたっぷりのカバーリング、バラ柄のシャギーラグ等、白を基調としたアンティーク家具が並び、いかにもプリンセスに憧れる女の子部屋仕様に変貌を遂げていたのだ。 ただ不思議なことに、家具、書籍、小物類等は普段使用している物がそのままあり、別の部屋に中身だけ入れ替えたようだった。私はベッドの上で体育座りをしながら現在の状態について振り返った。 私は中小メーカーに勤める、もうすぐ二十六歳になる二十五歳。半年前に恋人の河野鈴喜(かわのりんき)にプロポーズされ、来春挙式予定。 今はまわりから一番楽しい時期と言われるくらい悩みなんかなかったはず。 昨日も早く床に着いたから体調不良が原因とは考えられなかった。むしろ逆にいつもより頭がさえている気がする。 枕元に目覚まし代わりに置いてあるスマホを手に取り電源ボタンを押した。「圏外」という二文字が不安を倍増させた。 私は壁際に追いやられていた犬の抱き枕のワオをギュッと抱きしめ目をつぶってみた。 十秒数えてから目を開けてみたがやはり何も変わってはいなかった。 (こんなにきちんとした意識があるからやっぱり夢じゃない…) ベッドから起き上がると、アイボリーカラーのフリルカーテンをひいた。外の様子は日常と何ら変わりなく人々が忙しく行き来していた。 (とにかく着替えよう) 足元側にあった白い箪笥の一番上の引き出しを開けると、引き出しいっぱいに着物が綺麗に畳まれて入っていた。 花柄もあれば千鳥格子柄もあり、色も鮮やかなピンクからシックな紺色までさまざまで、ほとんどがちょっとしたお出かけ用の気軽に着られそうな感じのものだった。 念のため下の三つの引き出しも確認してみた。二段目に着物、三段目、四段目には帯や帯締めなどの小物類が揃っていた。 箪笥の引き出しをそのままに、反対側に設置されたクローゼットの扉をガラリと引くと、そこには色とりどりのドレスがズラリと並んでいた。 一瞬眩暈がした。一般庶民の私にとっては、衣装だけで総額でいくらするのか見当もつかなかった。 (カジュアルファッションはせんのか…) なんだか今着ている紺色の無地のパジャマがひどく場違いな気がしてきた。 どうやら普通の服はないので、着物かドレスかのどちらかを選ばなければならなかった。 二段目を引き出していた時、ほんのり薄赤い地に、袖や身ごろにかけて濃紅の菊のような花が刺繍されたレトロな雰囲気の着物を見つけた。落ち着きもあり、それでいてかわいらしい柄に惹かれた私は着てみることにした。 滅多に和装することはないが、幸いにも以前着付け教室に通っていたことがあったので、特殊な着物でない限りは自分で着ることができた。また、何より助かったのは、仕立て帯のおかげでもあった。リボンやお太鼓の形などに作られたクリップ付きの帯を、お腹に巻きつけた帯に挟み込み、背中側にまわすことで簡単に出来上がるスグレモノである。 ふっくらとしたリボン型に仕立てられた白地の帯を手に取り、着物に合わせてみた。 (うん、いい感じ) 帯締めをちょっと華やかにすれば…と、中央が花型になっている赤と緑の帯締めを選んで最終確認した。 着物一式をベッドの上に出すと、着る前に顔を洗いにお風呂場に行った。 うわ〜ぁ…!と思わず声が出てしまいそうなほど、お風呂場もお姫様仕様だった。 シャンプー、トリートメント等のボトル類は全て洋風高級ホテルで見かけるようなシックなデザインで、白地に紫とピンクの小花柄が描かれたシャワーカーテン、ステンレスのおしゃれな白いハブラシ立て、チューリップの形をしたピンク色のプラコップ、赤いバラの花びらのせっけんとせっけん入れ。 すみずみまでぬかりないプリンセス仕様だった。狭いユニットバスもここまですると華やかにできるのだと感心した。 ローズの良い香りが漂う中、顔を洗い終え部屋に戻って来た私は先に化粧をすることにした。 これだけお姫様なら、どーんと豪華な鏡台でも置きたかったのだろうが、あいにくこの七畳ワンルームの部屋にはきつかったらしい。木製の白いメイクボックスがちょこんと姿見の前に置かれていた。 私はびっくり箱を開けるような期待感と緊張感でぱっと開けてみたが、普段と同じ化粧道具が入っていた。 少し気落ちしつつも化粧を済ませ、髪の毛も整えた。肩あたりまであるパーマのとれかかった髪を一つに束ね、アイボリーの小ぶりの花型のクリップで留めた。 その後、なんとか無事に着物を着られた私はベッドに座って一息ついた。 ぐうーっ。 着付けに集中しすぎて朝食を食べることまで気が回っていなかった。お腹ぺこぺこの私はキッチンに向かった。 (どんな美味しいもの入ってるんやろ〜これだけゴージャスプリンセス部屋ならアワビとかウニとか!?) 期待に胸をふくらませながらミニ冷蔵庫を開けた。 マヨネーズ、ケチャップ、青紫蘇ドレッシング、わさび、しょうが、からし…調味料だけしか見当たらなかった。 (ひどすぎる…) 勝手に期待して勝手に落ち込んだが、部屋の中央にあるミニテーブル上の置き時計が視界に入ると焦り始めた。 時計の針は八時二十分を差していた。 (遅刻や!) 急いで支度をしようと思いつつも、こんな格好でいいのか…という疑問が生じてきた。でも、他に着るものがないので仕方ない。大慌てで準備をして部屋を出ようとドアを開けた瞬間、 「ドドドドドドン!そーれっ!!」 けたたましい音が鳴り響いていた。逆コの字型の廊下には、青い半被を着てハチマキを巻いた老若男女が八人ほど並んでヘンな踊りを踊っていた。 ポカンと見つめていた私はフルフルと首を振ってエレベーターに向かった。すると、エレベーター隣の階段から踊り子たちがわらわらと上ってやってきた。 「ドンドンドーン!うほほーい!祭りだ祭り!」 太鼓の音がやかましく響く。 (こんなとこで祭りって!通れへんし!) 私は内心苛々しながらも、部屋へ戻りしばらくして落ち着いてから出ることにした。 (ふう…) 手提げかばんを置いて、ベッドに仰向けになって寝転んだ。 (一体何が起きたんやろう…この部屋といい、祭りといい、おかしすぎる) 私はベッドの壁際に追いやられていたワオの手を引っ張り、体の上に乗せ両腕で抱えた。そして静かに目をつぶった。 ふわふわもこもこのワオの頭を撫でていると次第に感触が滑らかになってきた。 (うーん、こんなに重かったかなあ…毛もこんなサラサラしてたっけ?) 違和感を覚えた私はうっすらと目を開けた。 「ぎゃっ!!」 ぶったまげて飛び起きた。私にかぶさっていたのは和装をした見知らぬ男の人だった。 歳は私よりも二つ三つくらい上に見えた。人懐っこそうな顔にぱっちりした瞳。まとめて言い表すとするなら、爽やかで明るいハンサムといったところか。 柿色と橙色の中間色の着物に、海松色の小さなドット柄が刺繍された羽織を着て、細い縞模様の褐色の袴を履いていた。 「やっと目が覚めたか〜隣にいたのにずっと気付かないんだもん」 彼はニコリと笑った。 「隣にいた?」 「そうそう」 「あれ?ワオは?」 そういえば、抱き枕のワオがいない。私がきょろきょろしていると、 「何言ってるんだよ〜おれならここにいるよ?」 「え?ワオ?」 私は思わず彼を指差してしまった。 「うん、和央(わお)。おれのこと」 「あ、うん…ええっ?ぬいぐるみが人に!?」 「その逆逆!寝すぎてボケたのか?」 「そ、そうかも。なんだか、よくわからんくて」 私の頭の中は混乱していた。けれども、和央は不思議そうに首をかしげた。 「よく化けてたじゃんか。ぽんこにも教えてあげてたよ」 「化けてた?」 「えーっ!そのへんも忘れたのかー?」 和央は困ったようにため息をついた。 「じゃあ、予見力のことも?」 「うん、さっぱり…」 「ぽんこには予見力っていって、一瞬の未来を見る力があるんだ。といっても、いつでもってわけじゃなくて、危険が迫ってるときじゃないと見えないらしい。タヌキやキツネにはもともと備わっている能力だけど、ぽんこは特別に高いんだ」 「タヌキ…って、わたし妖怪なん?そもそも、ぽんこって名前じゃないし」 「何言ってるんだ?」 「だって、わたしの名前は…あれ?」 なぜか自分の名前が思い出せない。職業、恋人の名前はすぐに思い出せたというのに。 (そうや!名前が書いてあるものを見れば間違いってわかる!) 私はカラーボックスに立ててあったグレーのクリアファイルを取り出して、納品書や領収書が入れてあるページを捲った。 ある領収書の氏名欄には…「鹿萩(しかはぎ)ぽんこ」と。どの明細書、請求書にも全て同じ名前が記載されていた。 私は愕然とした。 (名前、確かに違うはずやのに…) 黙り込んだ私を見かねてか和央も心配そうにしていた。 「名前、ぽんこであってただろ?」 「う、うん…」 腑に落ちない顔つきのまましょげていると、彼はそのまま正面からぎゅっと抱きしめてくれた。 「えっ!?」 私は突然のことに体が硬直してしまった。 「大丈夫。喋り方もなんかおかしいけど、すぐに元通りになって一緒になれるからさ」 「元通り?一緒?」 「おれたち結婚するんだよ」 「…ええ?ええーっ!?」 「そんなに驚かなくても…」 彼はしょんぼりと目を伏せた。 「あ、ごめん。和央の言うてるぽんこは、私に似た別の人やよ」 私が彼から離れようとすると、彼はぐいと引き寄せ頬をくっつけた。女の私よりもお肌すべすべ、しっとりしていた。 「いーや!ぽんこを間違えるなんてことはない!どんなそっくりさんでも別人だったらすぐわかる」 「そんなにぽんこのこと好きなんや」 「もちろん!大好きさ!」 またぎゅーっと抱きしめ、頭をなでなで。一気に体温があがり、自分でも顔が赤くなっているのがわかった。 人違いとはいえ、直に愛情を伝えられると思わず蕩けそうになった。 私にはれっきとした婚約者がいるっていうのに!いや、乙女なら誰でも、イケメンに抱きしめられたりなんかしたら気分がハイになって、ちょっとくらいお姫様気分を味わいたくなるはずだ。私は勝手に自分の気持ちを正当化させたものの、やっぱり罪悪感に襲われた。 「あのっ!やからわたしはぽんこじゃなくて…!」 私が必死に弁明しようとしていると、急にバタンと玄関扉が開く音がした。 「ぽんこ様!お助けいたします!…って、なんだ和央殿か」 勢いよく入って来た人物は、私たちを目にするなり威嚇体制をやめてこちらに向かってきた。 ガタイのいい男の人で、年は三十代半ばくらいだろうか。彼もまた和装で、灰汁色の着物に煤色の無地袴と地味な色合いだったが、たすき掛けをしているのとくっきりした目鼻立ちのためか快活な印象を受けた。 「和央殿がなぜここに?」 「ああ、そりゃもちろん、大切な婚約者を護るためにさ」 「ほっほーう!殊勝な心がけです!」 「当たり前のことだよ」 「さっすが!男前は違いますなあ!」 ハハハ…と二人が和やかに談笑しているのを傍で見つめていた私は若干不愉快だった。 「あの、わたしはぽんこでもないし、この人の婚約者でもないんですけど。あなたのことも知らんし…」 間違ったことを言っているわけではないのに、なぜか小声になりかけた私に彼は目を見張った。 「何と!私のことをお忘れに!?私は美高(よしたか)!あなた様が十歳の頃よりお仕え申し上げております。あなた様はタヌキ族の末裔、鹿萩家の誇り高き姫。和央殿はれっきとした婚約者ですよ!」 「はあ。そのあたりの記憶がなくて…というか、目が覚めたらこんなことになってて」 「美高さん、ぽんこはちょっと混乱してるようなんだ。ここのところ疲れが溜まってたんじゃないかな」 「なるほど…」 美高はゆっくりウンウンと二度頷いた。 「それならば仕方ないですね」 私はとりあえずこれが現実でないにしても、彼らが一体なぜ不法侵入したのか根本的な理由を聞くことにした。 「ところで、あなた達は一体何をしにここへ?」 「ノーン!!」 素っ頓狂な声を上げたのは美高だった。 いきなりでかい声出すなっつーの!私は迷惑極まりないという視線を送ったが、彼は気にも留めず唇をわなわなさせていた。 「本当に…本当に覚えていらっしゃらないのですね。追手のことも」 私は迷うことなく縦に首を振った。彼は視線を落とすとおもむろに口を開いた。 「あなた様は今大変危険な状態におかれていらっしゃいます。予見力…のことは和央殿からお聞きになりましたか?」 「つい今さっき」 「その予見力をキツネ族の末裔である藤舞冴(ふじまいさえ)が狙っております。冴殿は和央殿の従兄にあたります。現在の藤舞家当主は和央殿のお父上でございまして、長兄が後継者となりますゆえ和央殿が次期当主のはずだったのです」 「はずだった?」 「はい、和央殿は後継を冴殿にお譲りしたのでございます。藤舞家は鹿萩家との婚姻を認めておりません。ですが、和央殿はあなたの慈悲の深さに感銘を受け、こうして新たな愛を育むことを誓われたのです。ああ…なんと、なんと素晴らしいことなのでしょうか…!」 突然オーンと泣き出した美高の声は部屋じゅうに響いていた。 「話それてるって」 和央は少し照れくさそうだったが美高のかわりに話を続けた。 「冴は完璧主義者なんだよ。有益になるものは何でも利用する。予見力もその一つだった」 彼は憐れむような瞳で私を見つめていた。私が口を開こうとした瞬間、 「申し訳ございません!私が不甲斐ないばかりに!」 美高が迅速に土下座した。 ええっ!?なんでやねん!この人には諸所突っ込みたくなるが、今回ばかりはすぐに事情が呑み込めなかった。 「私、ある日藤舞家がいらっしゃる前で、ぽんこ様の予見力を拝見しまして、ついうっかり「予見力万歳!」と声高々に叫んでしまったのでございます」 「はあ…」 「それをしっかりと冴殿が聞きつけていたなんて…」 「直接の原因じゃないと思うけどなあ…」 真偽つけがたいことを口にして信用する人が何人いるのか。私はぽつりと呟いたが、彼の耳には入っていなかった。 すると和央がすっと前に出て、美高の肩にぽんと手を置いた。 「美高さんだけのせいじゃないよ。おれが家に背くようなことしたから…でも、だからってぽんこを愛してることを後悔なんてしてないよ」 彼はクルリと振り返り私の手を取った。 「おれはずっとぽんこに助けてもらってたんだ。だから、今度は…いや、これからはおれがぽんこを護るって決めたんだ」 私は胸が熱くなった。彼のいう「ぽんこ」ではないにしろ、こうやって間近で見つめられると緊張するし、心底ぽんこのことが好きだったんだろうなというのが伝わってきて、せつないような申し訳ないような気持ちになった。 心温まる中、突然ぐおっ〜!とムードをぶち壊すような音が鳴った。私はお腹にぴたっと手をあてた。 (そいや、朝ご飯食べてない…冷蔵庫空っぽやし) ひもじさを察してか和央は「ご飯食べに行くか?」と尋ねた。私はこくこくと二度頷いた。 「よし、じゃあせっかくだし、街へ出かけようか!」 「えっ!?近所のファミレスとかでええんやけど」 「あはははは…待つのイヤだからいつもは立ち食い蕎麦屋でいい!って言ってたのに、だいぶ昇格したなあ」 和央は声を上げて笑った。 立ち食い蕎麦屋でいいって、本物のぽんこは意外とめんどくさがり屋なのか? 私も人のことを言える立場ではないが、一応カップルで食べに行くなら最低限落ちついて座れるとこが良いとは思うが。 「今日は仕事があるし…会社に行かんと、ってもう遅刻やけど」 私はテーブルの置き時計を見やった。八時四十分前だった。連絡するにも携帯は相変わらず圏外でつながらない。今から急いで行けば支障はないだろう。私はすくっと立ちあがった。 「何の連絡もせんのは心配かけるから、とりあえず会社へ行ってきます」 私はカバンを手に取った。 「じゃあ、おれもついていくよ」 「え、いや、一人で大丈夫」 和央の厚意を断ろうとすると 「ノーン!!」とばかでかい声が部屋じゅうに響き渡った。 「いけません!ぽんこ様!外は危険がいっぱいです!」 「あの、毎日その危険な外を歩いて通勤してるけど…」 私は耳をさすりながら答えた。 「なーにをおっしゃってるんですか!いつも護衛として私がお傍に控えておったではないですか!」 「そーなんか。って、お姫様も一般企業に勤めてるもんなんやね」 「現代の若い方たちは自立性を身につけるためにも、数年間親元を離れて修行していらっしゃる方が多いのですよ」 「一人暮らししてたら追ってる人にも知られるんじゃ?」 「あなた様がお引越しなされた時、建物周辺に特別な術を施していただいたため、キツネ族には住まいが特定できぬようになっております」 「へえ〜としか言いようがないけど…お姫様っていうても普通の人と変わらんのやね」 美高の耳がピクリと動いた。 「いいえ!ぽんこ様は他の方々とは異なります!あなた様は未来を担う重要な役目を背負った素晴らしい方なのですから!」 彼は体全身で訴えかけていたが、内容が抽象的過ぎてイマイチ理解できなかった。 私のノーリアクションぶりに美高はガクリと肩を落とした。 「それもすっかりお忘れになってしまったのですね。美高は悲しゅうございます…」 美高はさめざめと涙を流していた。 悪い人ではないのだけれども、熱血漢というのはどうも絡みづらいとこがある。ぽんこがめんどくさがり屋なら、毎日適当にあしらっているんだろうなあと感じた。 「まあ、あんまり一気に言ってもぽんこもワケがわからなくなるだけだろうし、ヘンに護衛しても気疲れするだろうから、そっと邪魔にならないようについていくよ。それならいいだろ?」 「あ、うん」 私は彼の気遣いに感謝した。 「和央殿が一緒ならば安心です。でも、もしも、万が一、絶体絶命の危機に陥った時は強く念じてくだされば、すぐに馳せ参じます!」 「ああ、うん、ありがとう」 私は半信半疑だったものの、彼の気迫だと有り得そうな気もした。 「じゃあ行ってきます」 「行ってらっしゃいませ!」 美高は深々と頭を下げた。 部屋を出て角にあるエレベーターに向かおうと右手に進もうと歩き出した途端、陰鬱な視線を感じた。 四つ隣の部屋の玄関扉が数センチ開き、そこから黒ぶち眼鏡の男の人が首を出してこちらをじっと見つめていた。 ぎょっとした私は和央に「ちょっと待ってて」と声をかけると小走りで男性の方へ行った。 「華絵(はなえ)さん?何してるんですか?」 彼は目を細めて私を上から下まで見ると、ふうと一息ついた。 華絵さんとは数か月前たまたまエレベーターで出くわしたのがきっかけで、時折会うと挨拶をかわしていた。 年齢は三十歳で職業はウェブデザイナーらしい。私の勤める会社にも同職の先輩がいるが、彼よりももっと明るくてお洒落で親しみやすい人だ。先輩とは正反対のイメージの華絵さんとは挨拶をする以上のことは深く関わりたくなかった。 よく知らない人に変に親切にして相手に誤解され、自分が痛い目に遭うという事態を招かないためにはそれが賢明なのだ。だから今だってすぐに立ち去りたい気分でいっぱいだったが、覗き見なんかされていたら見過ごすわけにはいかなかった。 「君も試練に入ったんだね」 彼はニヤリと笑い、鬱陶しそうな前髪を振り払った。 「試練?」 私はその動作に気味の悪さを感じていると、ドアの隙間から靴箱がふと視線に入った。靴箱の上には、ナントカ戦隊っぽいフィギュアが三体、ギリギリのスペースで並んで立っていた。 よく見ると玄関扉裏にも真っ赤な文字で「萌魂」とだけ書かれた意味不明の大きなポスターが貼られていて、仕切りドアで隠れて全貌はわからないが、部屋の中もロボット人形や関連グッズでごちゃごちゃしている感じだった。 オタクでもせめて身なりくらいは普通の人に見えるように整えたら、気持ち悪さが軽減されるのに…と私は余計なことを思いながら話を聞いていた。 「ここのマンションの住人だけかもしれないけど、人生の岐路に立たされると起こるらしいよ」 「ヘンテコなことがですか?」 「現実と何もつながりがないってわけもないらしい」 「ふうん…って、華絵さんはどうしてそんなに冷静なんですか?そもそも、こういうことが起こってる原因をなぜ知ってるんですか?」 私は落ち着き払っている彼に少々苛立ちを覚えた。彼はふぁーと欠伸をした。 「いや〜、僕も初めはびっくりしたけど、案外こういうのも悪くないかなと思ってさ。僕の場合は、仕事を辞めるか辞めないかで迷ってた時だったから。気分転換できたっていうか、すっきりしたっていうか」 「じゃあ、結論を出したら元の世界に戻れたってことですか?」 「そうなのかなあ〜結局仕事は辞めずに続けることにしたけど、特別何か変わったってことはないなあ」 のんびりと間延びした口調に私は呆れていた。そりゃまあ、他人事に他人が親身になってくれるとも思えないが。 私が立ち去ろうとした時、彼はぽんと手の平を叩いた。 「そうそう。自分の名前が思い出せなくて。思い出したら帰れたかな」 「どうやって?」 「どこかに知っている人がいるんだ。僕の時は会社の先輩だったかな。見つけるのに苦労したけど。原因の重要人物みたいな人が知ってるのかも」 「重要人物…」 私は首をひねった。その人物が判明しなければ謎解明に至らないのではないか。 「見当つかんな…」 「いろんなとこ行って聞いてみるといいよ。職場の人とか友達とか」 数打てば当たる作戦でいけば必ず誰かは知っていることになるだろう。今からちょうど会社にも行くし、さりげなく聞いてみるか。 「話は終わったか?」 ぽんと肩に手を置かれた私は振り返ると神妙な顔つきの和央がいた。 「あれ、かっこいい彼氏さんだね」 華絵さんは和央を見上げると再び前髪を払った。その刹那びゅうと風が吹き、靴箱の上にあった真ん中のフィギュアがガシャンと前方に倒れた。リーンリーンと金属音が響いていた。 彼は大切なコレクションが急に乱されたためか躊躇していたが、音が鳴りやむと人形を起こし左右の人形と位置を合わせた。そして彼は和央をじっと見つめた。 その瞳はまるで、恋する乙女のようにキラキラと輝いて… え?この人もしや危ない?私は和央の腕をつかむと 「じゃ、急ぎますんで!」とそそくさとその場を立ち去った。 |