こかげびより
「あ、へんな猫!」
校門の隅あたりを駆けていった一匹の猫を指差すやいなや彼女は足を速めた。
「待って!」
私は慌てて彼女の後を追った。
猫は校門を出て道を挟んだ向かいにある百日紅館の植木の隙間に身を潜めていた。
「写真撮ろ!」
佐香は肩にかけていた鞄 から手早く携帯を取り出して、目の前にいる猫にピントを合わせた。
「そのまま動かないでよ。」
彼女の言う通りに猫はカメラを見つめたまま静止していた。
カシャとシャッターの音がすると、佐香は
「よし!」
と立ち上がった。そして、振り返り私に尋ねた。
「オジョウは撮らないの?」
「猫、嫌いだもん。」
私は断言した。
「へえー反対に見えるけどねえ。」
佐香は珍しげな声を出した。

彼女が写真の編集をしている間、ふと猫の方に目をやると恐ろしいくらいに視線があった。 私は意味もなくじっと見つめた。それは彼が私の見たことない種類だったからかもしれない。 小丸い顔に、いやに長く尖った耳がついている。体毛は、砂漠色とでも名づけられそうな、 赤みがかった茶に金が混ざった色をしていた。ボテッと垂れ下がったしっぽは重たそうだった。

私はこの時、彼等のどこが大半の女子大生を魅了するのか見極めてやろうというような意地悪な視線だったにちがいない。 キツネみたいな猫は、訝しいような窺うような姿勢をとっていた。
 
しばらくしてから、携帯を鞄に閉まった佐香は言った。
「オジョウはなんで嫌いなの?」
「鳴き声が気持ち悪いもん。実家の近くに猫屋敷があるんだけど、毎晩のように猫どうしが喧嘩してて寝不足になるやら…犬のが好きだな。」
私は顔を上げて答えた。
「そうなんだ。私は猫派だなあ。気ままなところがいい。子猫なんかみると本当可愛くてしょうがないよ。」
佐香は陶酔気分に浸っていた。
私はそれを否定気味に答えた。
「自由奔放なとこはね。けど、都合のいい時だけじゃん?動物ならまだしも、人でそんなんだったらすぐに愛想つきるだろな。」
「そこは一緒にするもんじゃないわ。まあ、でも、オジョウの性格からして猫はあわないかもね。」
「さっきと逆のこと言ってるよ。」
私は苦笑した。

そうして、先に進もうと歩き出した時には、さっきのヘンテコな猫はもうどっかに消え去ってしまっていた。
 

翌日、その日は珍しく雨だった。
雨は欝陶しいから嫌いだ。しかし、こういう日に限って校舎の移動が多かったりする。 濡れなくてもよい量の雨粒を吸い込んだ上着が、湿っぽくなって隣の椅子に置かれていた。 私は国文学基礎講座のつまらない講義を聞きながらうとうとしていた。
カクッと首が前に揺れると、隣にいた佐香が
「ここ試験に出るってよ。」
私の腰あたりをそっと突っついた。
「あ、うん…」
私は飛び上がることもなく、シャーペンを握り直した。
腕時計をみると六時五分前だった。あと五分。
私は最後になってはりきりだした。が、きちんと聞き取れたのは「今日はここまで」という言葉だけだった。
「またノート見せてね。」
「いいよ。」
私が溜息をつく佐香は仕方ないなというふうに笑って言った。
「今日は早く寝なよ。」
「仏の随意〜。」
私は冗談めかして答えた。
「なーによそれ。あっ、そうだ。この後BOX行かなきゃなんないから先帰ってて。」
彼女は言うと、私は
「わかった、バイバイ。」
と手を振って椅子から立ち上がり教室を出た。
そうして、廊下の帰宅行列に従って玄関に向かった。

外は既に真っ暗で雨は止んでいた。私は家に向かって足早に進んだ。構内にいるといっても、民家や道路を挟んでいるから端と端の校舎の距離は長い。その間を移動しているから、少なくとも帰宅するまでに二十五分はかかることが予想された。
百日紅館を通りすぎて校門に入ると、雨が再びパラパラと降り出してきた。私は小走りで裏門を左に出た。道を上がっていくと雨はますます激しくなってきた。傘をさして走り出すと滑ってこけそうだった。
こんな帰る時になって…私は足をうっかり排水溝ですらないように気をつけていた。何歩か進むと、ズリっと何か踏んで滑った。

いよっと!
気色悪い感覚に鳥肌立った私はその物に振り返った。
!?
私は目をみはった。
暗闇の中、電柱についた電灯の光でかすかに照らし出されたのは、地面に横たわった一匹の動物だった。
私は恐る恐るそれに近寄った。それはまだかすかに呼吸をしていた。はっきりとはわからなかったが、体じゅうの毛がびっしょり濡れていた。私は傘をさしたまましゃがんで、それの背あたりと思われる部位をそっと触れた。

あったかい。
お腹がゆっくり上下しているのに気づいた私は傘を首で挟んで、横たわっている猫を両手で抱き抱えた。そして立ち上がると帰路を急いだ。

ドアの前まで来て少し考えた。
中に入れてやるべきだろうか…マンション、ペット禁止だしなあ。でも、ほっとくわけにもいかないし。
私は溜息一つついた。それからドアの鍵を開けた。
 

さて、これからどうしたものか。
連れてきたものの、私には介抱の方法がわからなかった。
それ以前に、なぜ猫嫌いにも関わらず直に抱いて帰ってきたのかも謎だった。おそらく、あの時は何の生物であれ見捨てがたい衝動にでもかられたのだろう。
私は降り付けた雨と、猫の水気とで余分に濡れたジャケットを脱ぐと、引き出しからタオルを出しきて、ささっと猫の頭や背中を拭いてやった。そこで、あ!と小さく声を上げた。その猫は昨日、百日紅館で見かけた例の茶っ金猫だったからである。私は、荷造り用につぶしてあった段ボールを箱の形に組み立て、机の下に積んでいた新聞の山から一日分をがばっと引っ込抜くと、箱の底に敷いた。

猫は何を食べるんだろうか。魚?家にはない。水がいるかな。
台所に向かうと、私は深目の皿に水をくんで段ボールの前に置いた。

明日になれば目覚ますだろう。
立ち上がった私は、冷蔵庫の中から残りもののスパゲッティーを取り出してレンジで温めて食べた。夕食後、私は講読の宿題をし始めた。

出てくる人、美形ばっかじゃないのか、これ。
本朝二十不孝を読みすすめるうちに私は嫌気がさしてきた。二十不孝は井原西鶴の作品で、親不孝者を描いた短編話の集まりである。

ま、物語だから何でもありだよね。
そう無理矢理割り切ってしまうと、眠気に誘われてきたためもう寝ることにした。

明日は2限目からだからゆっくり寝ようっと。
私は目覚ましを八時にセットして布団に入った。
 

もう朝かな…
うっすらと瞼を開けた私は仰向けに眠っていたことに気づいた。
そして左に寝返りを打った途端、視界に見慣れないものが映った。その瞬間私の目や脳はハッと覚めた。
目の前にいたのは紛れも無く“人”だった。蘇芳色の瞳。赤みを帯びた茶金色の髪。首には赤いスカーフ。相手は真顔で私を見ていたが、私と目が合うとにこりと笑った。
「おはようっ!」
「おおお、はよお…??」
私はこういう場合どんなリアクションをすればよいのか非常に困った。
大声を上げるにも、タイミングを逃してしまい上げ損ねた。
「誰?って顔してるな。当たり前か。」
相手は私の様子を察して言った。
「昨日一昨日と会った気がするんだけど…」
私が発するのを待っているかのような口ぶりだった。
「もしかして…猫?」
現実世界に非現実を持ち込むのにはいささか抵抗を感じるはずだったが、今はそれしか言葉も思い当たらなかった。相手は
「そうそう。猫、といってもほんとは風針(かざばり)っていう種類なんだ。」
とますますわけのわからないことを言い出した。
「百日紅館はいろんな猫の棲み処になってるんだ。」
「へえ…」
半信半疑の目で見た私は、相手が手にしていた物に視線を移した。血の気がさっとひいた。
「遅刻だ!!ちゃんとセットしたのに!!いじった?」
私は慌てふためきながら尋ねた。
するとあっさり
「ああ、うん。何か出っぱってたから押してみた。」
と言ってのけた。
私は崖から転落しそうな音に包まれた。とにかく、急いで準備しようと立ち上がった。
そうして、猫の方を見ると、その身なりに度肝を抜かれた。着る物、スカーフ以外何も身につけていなかったことがたった今判明したからだった。
「ええええ……ちょっと、それ…!!」
「そら、まあ、そのまんま人になったから仕方ないさ。」
風針は自分で自分の姿を確認して手をひらひらと振った。
「早く出てって!!」
私は部屋に蜘蛛が出現した時と同じセリフを同じ音量で叫んだ。
悪気はなかったものの、皆勤賞を狙う私にとっては目の前のこの不謹慎な猫を追い払うことしか思考になかった。
「わかったわかった。」
風針は瞬時にして獣の姿になると、玄関まで走っていった。
私はぶっきらぼうにドアの鍵をはずして開けると、猫は私を見上げた。
「看病してくれてありがとう。百日紅館にいるから気がむいたら来なよ。」
私は、猫屋敷になんか洪水が起こったっていくもんか!と心の中で返答して猫を送り出した。
そして、超マッハで学校へ行く準備をし始めた。

 

だっだっだっ…
私はがむしゃらに走っていた。
五分で校舎の五階まで行くにはぎりぎりの時間だった。校舎移動中の学生の大群をかきわけて正門をぬけた。

「あ、すみません!」
ちょうどその時反対からやってきた人の肩あたりにドカッと派手にぶつかってしまった。
「いいえ、おかまいなく。」
その人が返事してくれたのを聞くか聞かないうちに私は頭を下げて駆け出していた。

はやくはやく!
気持ちは焦っていても、走る速さはそれ以前とさほど変わらないものだった。

カーンコーン…
校舎の玄関で始業ベルが鳴り始めた。私は恥じらいを捨て猛烈な勢いで階段を上り出した。
真っ青な階段は気持ち悪いとボヤいているいつもの余裕などなかった。
ソロソロとドアをひいて、そそくさと席についた私はまだ先生が来てないことに一安心して呼吸を整えた。ふと、周りを見渡すと、いつもより人が少ないことに気がついた。

休講じゃないよな…
私は掲示板できちんと確認したのを思い出しながらしばらく待っていた。すると、前方のドアが開く音がした。
「休講やってー。今日はりだされたみたい。」
声とともに同じクラスの一人が入ってきた。
え〜!?せっかく急いで来たのに…
私ががっくり肩を落とすと中、皆の文句が飛び交っていた。
「連絡遅すぎ〜!」
「宿題やってきたのに!」
周りの一言一言が今の私の心情を的確に言い表してくれていた。
ああ、これからどうしよう…
私は途方に暮れ出した。
朝あんなことなかったら少しはマシだったかもしれないのに…
予想だに出来なかった侵入者いや、拾い猫のおかげで起きたとんだ災難に甚だ後悔の念がわいてきた。そして

そういえば、百日紅にいるとか言ってたな…
と去り際の言葉を思い返した。
通りすがりついでに寄ってみるか。

鞄から出した筆箱をしまい直した私は教室を出ると、十分もしないうちに再び同じ道順を戻っていった。 

 

百日紅館の石垣が近づくにつれて私は妙な気分に見舞われてきた。
本当に校舎の一角に化け物まがいの生物が住んでいるのだろうかと猜疑心まで芽生え出してきていた。
館の門前まで来ると私ははたと足を止めた。百日紅館は学内関係者なら誰でも出入り自由だ。休日によく館内見学に来る人を見掛けるが、猫類の苦情は耳にしたこともなかった。私は学生達が行き交う中、そこで躊躇していた。すると、石垣あたりからフィーイという気色悪い鳴き声が聞こえてきた。私は視線をそちらにやると、例の風針が石垣の石の上にちょこんと座って私の方を見ていた。

「あの猫かわいい〜!!」
「あ、ホント!」
物珍しい物に弱いというか、可愛い動物好きな学生達が数人早速それに近づいていった。
しかし、彼女達に見物される前に猫はひらりと身を翻して敷地内に逃げていってしまった。私は彼女達が残念そうに去っていくのまでの始終を眺めていた。するとまた鳴き声が聞こえてきた。門の右側の茂みから猫がちょこんと顔を出して、首を前後にしきりに振っていた。

あっちから行けっていうことかな…
私はそう読むと、茂みのある駐車場へと足を進めた。
猫が顔を出していた茂みからは細い道が続いていた。道の向こうには百日紅館の裏戸が見えていた。
私は車と車の間を通って其の道を抜けた。
そうして、裏戸の前にいた風針に入るよう再度頭で促された。
私は初めて目にする光景に立ち止まりそうになりながら、そのままゆっくりと戸を開けた。
ほんの数センチ開けると、前にいた風針が先にすっと入っていった。
その後に私は戸をきちんと開けてから中に入った。
パタンと閉めると同時に声がした。

「こんにちはー!」
私はビクっとして前に振り返った。
居間と思われるそこには双子が並んでいた。
「こ、こんにちは…」
私は戸惑いつつもあいさつを返した。
「そんなに、かたくならなくていいわよ。ワタシは廉。こっちは双子の弟で浦。よろしくねー。」
ざっくばらんに話しましょうといわんばかりに廉は笑顔で私に話しかけた。
それを隣にいた浦が制するように廉に言った。
「いきなりそんなこと言っても困るんじゃない?ここの学生いや、先生達も百日紅を棲み処にしているってこと知らないんだから。」
「あー、そうね。表向きは記念館だものね。うっかりしてたわ。」
廉は申し訳なさそうに笑った。
私もつられてぎこちなく笑んだ。

この人、男の人だよねえ …
私はじっくり目の前の二人を見比べた。
歳は私よりもいくつか上のような気がした。灰黒色の髪をした真面目そうな双子だった。
浦はともかく、廉はその話し口調からしてニオウところがあった。しかし、そのことに気をとられててはイカンと本題に入ろうとした。
「何か、猫の棲み処になってるって聞いたんですけど…」
「そのとおり!…でもね、実際、棲み処にしてるのはワタシ達だけなのよね。」
「私達?」
「ワタシと浦と、今は出かけてていないけど、友梨緒っていう子がいるんだけど、その子とあとはヒヨリ。」
「さっきの風針だよ。」
「あ、ああ…」
私が不可解な表情だったからか浦が補足してくれた。
「それだけで、後は近辺の猫が集まってくるだけね。」
廉はそういうと微笑んだ。
私は部屋を見回した。
「でも、そんなにいっぱい来れるんですね。」
今に目立った埃一つ落ちていなかったからだ。
「館の表の掃除は大学の人がやってくれてるからついでにね。」
「だから、彼女だけは大学関係者でも僕らの存在を知ってるってことになる。」
二人は補い合って話した。
私はうんうんと頷いていたが、イマイチ、肝心なことが掴めなくてすっきりしなかった。
「ここに住んでいるのはわかったんですけど、それはどうして?」
廉は、またしまった!というふうな顔つきになって答えた。
「それはね、ここが拠点だからよ。」
「拠点?何の?」
私が問い返して廉が答えようとした時、奥から別の声がした。
「猫達の拠点さ。」
「ヒヨリ。」
廉が振り返ると同時に風針が姿を現した。
私がポカンとしていると彼は
「説明下手な奴らでスマンな。ここは、いやいや、この館の一室は猫連盟の本部になってるんだ。」
「猫連盟?」
「そう、市内の各地に支社があって、月一回ぐらいここで会議をしてる。」
風針は傍にあった椅子に腰掛けた。
私は館に入りきらんばかりの猫を想像した。猫が一匹、二匹…と勘定していくにつれて気分が著しく悪くなった。
「会議って、皆話せるんですか?」
私は目を丸くした。
「いや、普通の猫は理解できても話せない。だから、全員が揃って声上げるとしたら承諾かいなかの返事だけ。」
風針は笑いながら答えた。
「でも、いつも反対の人なんていないけどねっ。」
廉が付け加えた。
私は狐につままれた気分だった。風針はともかく、廉や浦までが猫人(、、)だとはとても信じられなかった。私が黙りこむと風針は立ち上がって言った。
「言い遅れたけど、俺は日和丸っていう。昨日話した通り、百日紅館で生活してる。」
「昨日!?っていうことは、この子がヒヨリを助けてくれた子?」
突然廉が声を上げた。
「そうだよ…って、お前知らんと話してたのか?」
日和丸の問いに廉は頷いた。
呆れ返った彼は私に苦笑した。
「まあ、いつもこんなもんさ。」
「よければ助けていただいた御礼がしたいんだけど、えーっと…」
「播磨です。播磨小影(こかげ)。」
ここで焦る必要ないのに慌てて名乗った。すると彼は
「あーうん、小影ちゃん。」
と慣れたような丁寧口調で言った。
私はそれに鼻の中がむずがゆくなった。
「いいや、そんな、私もたまたま帰り道だったからで…」
返答しかねている私に対して彼は
「何か困ってることとかあれば、言ってみて。出来る事なら手伝うよ。」
とひいてくれない様子だった。
私は何でもいいから何かないかと考え出した。
「小遣い稼ぎをしたいけど、授業が詰まってるから遠い所はムリだなあと…」
「うーん、それは…。」
彼も困惑の顔をしていた。
ところが、彼はいきなりひらめいた。
「そうだ!この館の掃除係はどうだ?」
「え?」
私は目が点になった。
「清掃のおばさんがいるんじゃないんですか?」
「そうだけど、おばちゃんもここにかかりっきりじゃいられないんだ。バイト料は昼飯か晩飯にかえさせてもらっていいなら…」
彼は私の様子を窺った。
私はその言葉に惹かれた。
「私、趣味は掃除なので喜んでさせてもらいます。」
と引き受けることにした。
彼は
「いいの?ありがとう!小影ちゃん!」
と子供のごとく無邪気に喜んだ。
私はまた鼻の穴の中に指を突っ込みたくなるむずがゆさに襲われたので言った。
「あの、その“ちゃん”づけは慣れてないから止めてほしいんですけど。」
すると彼は不思議そうに問うた。
「じゃあ、普段はどう呼ばれてるんだ?」
「んーと、オジョウとかジョウ。母が社長だからっていう理由で勝手につけられただけなんだけど。」
「へー、じゃあ金持ちなんだ。」
日和丸は感嘆に似た声を出した。
しかし、私は真っ向から
「いんや、好景気といわれるご時世でも景気沈滞中、工場もボロボロ、ロクな社員もおらん田舎の超小企業にすぎないです。」
と否定した。
「身内の会社をそこまで悪くいうこたあないだろ。」
彼は声を上げて笑い出した。
「ここの謙遜だけは譲れませんから。」
私が真顔でいうと彼は
「面白いジョウちゃんだ…あ、これでいいや!呼び名はジョウちゃんに決定!」
一人でウケて一人であだ名を決めた。
私は何でもよくなってきたので適当に頷いておいた。そして、
「日和丸さんは?」
とここまで来てあえてフルネームで呼ぶかと自覚しつつも聞いてみた。
彼は
「フルネームかヒヨリっていうのが多いかな。何でもお好きにどうぞ。」
頓着しない質のようだとみたので私は思い浮かんだままのを口にしてみた。
「じゃあ、ひよりん。」
彼は意外にも
「斬新な響き。」
と驚いていた。
「少しひよわそうな感じがするけど。」
「いいよ、それで。中身は強そうだから。」
ひよりんは曖昧に言うと、その容姿からは想像つかぬほどの愛想のよすぎる笑みをこぼした。
「んじゃー、呼び名も決まったことだし、今日はこれくらいにしとくか。」
ひよりんがそう言うと廉と浦も頷いた。
「明日の昼におばちゃんが来るから、その時に掃除の仕方を教えてもらいなよ。」
「あ、はい。」
裏戸を引きかけた私にひよりんは告げた。
「じゃあ、また明日。」
「気をつけてね〜。」
三人に見送られて私は館を出た。
茂みの道をくぐり抜けた私は深く息を吸った。もうそろそろ正午になる頃だった。

翌朝八時に目覚めた私は朝食をささっとすませると、百日紅館に行く支度をし始めた。
掃除に行くんだからジャージでいいよね。
体育の授業でしか活躍の見せ場がなかった服を思いもよらぬ所で役立てられるとは幸運だったにちがいない。 さすがに高校の時の真緑ジャージで出歩くのは恥ずかしいので、入学後に購入した一般的な黒のものにした。 着替えて、いつもの薄汚れたショルダーバックを肩にかけて運動靴も履いて出掛けた。
外は気持ち良く晴れていた。気温は昨日よりも暖かくて風もなかった。歩いて二十分ほどして館の裏口に着いた私は戸をコンコンと叩いた。

「はいはい〜」
と調子のよい声が聞こえるとドアが開いた。
「おはようございます。」
「あら、おはよう。あなたが小影さんね。私は清掃の霧森です。さ、入って。」
いかにも掃除のおばさんらしい中年の女性が迎え入れてくれた。
「私もね、A校舎の方があるから困ってたところなのよ。だから、ここをやってくれるなら助かるわ。」
霧森さんは居間の窓のカーテンを開けながら話した。私はそれを見て
「いいえ、たいしたことはできませんがよろしくお願いします。」
と軽く会釈した。すると霧森さんはにこやかに言った。
「大丈夫。館内は狭いからすぐに終わってしまうわ。」
「やり方とかはあるんですか?」
「特に決まってないわ。毎日するなら床をささっと掃けばOKよ。とりわけカーペットには注意してね。」
その言葉に私は足元に視線をやると、毛らしきゴミの塊がところどころに落ちているのを発見した。
「毛か…」
私の呟きに霧森さんは苦笑いした。
「猫さんたちだからね。一番やっかいなのはそれよ。自身は綺麗にするみたいだけれど、ここまでは気が回らないみたいね。」
「これを取るんですね…」
私は言って少々手が震えていた。
「あの、ひより…日和丸さんから、ここは猫の棲み処とかいうことを聞いたんですけど、あの人達は何でこの館に住んでるんですか?」
私は気になったことを尋ねてみた。
霧森さんはやや悲しげな表情で答えた。
「私も詳しくは知らないのよ。ただ、たまたま館は私の清掃区分でね、四年くらい前にひょっこり彼が現れ
たのよ、人の姿でね、初めはそりゃ驚いたのなんのって、人が猫に化けるんですからね、でも、世の中は未知に溢れてるって思ったらそういうこともあるのよね、そうして、彼は私に、大学には秘密で館に住まわせてほしいということを言ってきて、私はどう対処すればいいかわからなくて、でも身の上が上だから…それに、理由が猫連盟の拠点にするとあなたも聞いたと思うけど、実際はもっと別の理由だと思うのね。週に一回、ひどい時には二、三回帰ってこないこともあって、帰ってきたと思ったら顔色青くなってたり…今でもずっと続けてるのか、最近様子見に来てない…来なくていいといわれたから来てないのだけれど、多分そう。だから、何かはあるんだろうけどはっきりとはわからないの、ごめんなさいね。」
霧森さんは話終わるとふうと溜息をついた。

私はひよりんの素性が複雑なことに切なさを感じたが、それ以上に句点が極端に少ないこのおばさんは、口調は上品だがよくしゃべる関西人に間違いないと確信もしていた。
「掃除用具は廊下出て左にあるから使ってね。私はこれからA校舎の清掃があるから・・・金曜日の夕方にまた見に来るわ。じゃあ、よろしく!」
霧森さんは歯切れよく言うと、小走りで部屋から出て行った。

後を任された私は早速、毛取りを始めることにした。
“猫屋敷飛んで入るのは一学生”なんという一句が作れたと思う暇もなく、一心にガムテープでぺたぺたととり続けていた。するとそこに二足の靴が現れた。

靴?
ふと顔を上げるとそこにはひよりんが立っていた。
「よっ!ごくろうさん。」
「あ…、おはようございます。」
私は平静を保ったつもりが後ろに傾きかけた。
「毛取りか。大変だろう?俺は殆どここにはいないから大方浦や廉達のだな。」
ひよりんは靴でカーペットについた毛を床に掃った。
そして、出窓に赴き外を眺めた。
私はひざをついてから立ち上がると彼の傍まで近づいていった。霧森さんの話のいくつかの疑問点をこの際問いかけてすっきりしたいと思ったからだった。
「あのー…」
私は背を向けている彼に声をかけた。
ひよりんはくるりと振り返り
「何?」
といつも通り何の疑いもなく尋ねた。
「この前…雨の日、何があったんですか?」
「ああ…」
彼はそれを聞くと少々表情を渋らせた。
私は最も気に留めていたことを率直に口にしたつもりだったのに、言い終わってから意味深にとれないこともないような言葉だなあと戸惑った。
彼はしばらく外を見つめ考えていたが、うん、と覚悟を決めたかのように頷くと私の方に向いた。

「実は追われている。」
「え?」
「それに追っている。」
「へえ?」
私はひよりんの単刀直入すぎる発言に首をかしげた。
すると、彼は
「犬たちはここを狙っている。でも、場所は知らないから…っていうか、まさかこんなところだろうとは思ってもみないだろうから、周辺で聞き込み調査してる最中だ。」
と窓を閉めた。
「道行くところで猫を見つければ本部の場所を聞き出す、本当のことを話す奴なんかいないから犬は怒って追ってくるわけさ。世間体もあるからそんなにしつこくはないけど。でも、その中にもしつこく追ってくる犬がいてな。普段はおとなしそうなのに、嘘が発覚した途端目の色変えて、地獄の果てまでついてくるんじゃないかってくらい追ってくる。それにまた迷惑なことに俺に焦点をあてているようで、数メートル先で見つかってもすぐに追っかけてくるから逃げるほうも必死なわけさ。」
「それで、この前も?」
「そ。逃げ疲れっていうやつさ。」
ひよりんは力なく笑った。
「原因はなんとなくわかってるけど。」
「それは?」
「嘘のつき方がひどいんだろう。例えば、京都タワーのてっぺんとか、悲伝院の銅像の下とか。」
「それを実際に犬たちは確かめに行ってるんですか?」
私は一瞬眩暈がした。
「うん。」
ひよりんはコクリと頷いた。
「アホらし。聞いた時点で嘘っぽいなってわかるじゃん…」
「それが、念のためということで調べるらしいよ。むこうの仕組はよくわからない。」
「私にはもっとわからん気がする。」
頭がおかしくなってきた私は何とか持ちこたえていた。
「追っているっていうのは?」
私の問いにひよりんは
「想い人。」
と簡潔に答えた。
私はああ、と微妙な声を出した。
「ホントにいるわけじゃないけどさ…人かどうかもわからないし。」
「?」
私ははっと顔を上げた。
「理想ではないけど、どこかに自分のたどり着く場所があるとか、人がいるとか、それを世間では夢っていうんだろうけど、それにしちゃあ、何かしんきくさいというか…こう、でっかい目標がないというか。」
ひよりんはまたも笑った。
「そんなことないです。若いうちはいろいろ悩むもんです。自分からしなきゃ何もかわらないというのはわかってるんですけど、実行に移すのはなかなか難しいもんで…」
私は励ますつもりが、だんだん落ち込んでいった。
「若い人に言われたら返しようがないな。気楽に話していいよ。歳も…ええーっと、ジョウちゃんはいくつだっけ?」
彼は頭をかいた。
「十八です。」
「ほら、なら一,二コしか変わらないじゃんか。偉大な発言をする人じゃあるまいし、普通に喋ってくれていいよ。」
「はあ…」
微笑むひよりんに私は半分頷いた。
「それで、何を話していたんだっけな…そうそう、夢のこと。ジョウちゃんが言うように悩む時期なのかもしれないな。実現しなさそうこともぼんやり考えたりしたり、こうゆうの妄想っていうのかな…惹かれるものがあるうちは将来に希望が持てるってことなんだろなあと俺は解釈してるけど。」
「生きている限り、可能性はあるしね。」
私が独り言のようにつぶやくと、ひよりんは
「そ、だから、ジョウちゃんに拾われなかったら、今頃は野垂れ死んでた…助けてくれて感謝してる。」
躊躇わず真っ直ぐ私に視線を合わせた。
「いいや、そんなことないよ。気まぐれでしたことだったんだから…」
私はその発言よりも、彼が優しい表情になったのに照れくさくなった。
また、ここで先日の寝床の確保のおおざっぱさを、詳しく彼に語るのは絶対控えておいた方がいいと思った。
「気まぐれも時には命を救うって思っとくよ。」
彼は笑った。
一見、不良の一味とでも見紛う風貌からは思考外の感じのよさだった。

私がひよりんを前にして、不可思議な気分にみまわれていると、裏戸がカチャと開く音がした。
「お帰り。」
「ただいま。珍しいね、ここに来るなんて。その人は?」
戸口先にいたのは、私と同い年くらいの髪の長い女の子だった。
「この子はジョウちゃん…じゃなかった、小影ちゃん。館の新しい掃除係をしてもらうことになったんだ。歳はお前とおんなじだ。」
「ふーん、そうなんだ。」
彼女は納得すると、私を見て
「あたしは友梨緒。日和丸らと同じようにこの館に住んでるの。よろしくね!」
とニコリと笑んだ。
「こちらこそ、よろしく。」
私もあいさつをした。
そうして、何よりもまず、美人だなあ…と思った。学内でも毎日のように、容姿の綺麗な人は目にするが、彼女らとは異なる自然的な美しさが溢れていた。「美」を兼ね備えた二人の間にいた私は、場違いな感覚を覚えずにはいられなかった。そんな落ち込みを誰が気付けるものか、彼女と言葉をかわした後、ひよりんが口を切った。
「もうすぐ昼だな。そろそろ用意するか。」
「用意?」
私は目を丸くして尋ねた。
彼は腕まくりすると居間の廊下へ出ていった。
「昼ご飯作るんだよ。」
首を傾げている私に友梨緒が教えてくれた。
「いつもそうなん?」
「うん。趣味でしてたらしいけど、美味しいって館内で評判になってから、毎食作り出すようになったんだよ。」
「へえーすごいなあ。」
「覗きにいってみる?」
友梨緒はいたずらっぽく笑むと廊下まで行って、私に手招きした。
私はドキドキしながら歩いてゆくと、そこには料理しているひよりんの姿があった。
「本当だ…」
私は、鍋で春雨を茹でている彼を見てあっけにとられた。
「今日は何?」
友梨緒が日常茶飯事の口調で尋ねた。
「出来てからのお楽しみさ。」
ひよりんは楽しそうに答えた。
私は何ができるのかワクワクしていた。
「じゃ、向こうで待ってよう。」
友梨緒に促され、私達は居間で料理が出来上がるのを待つことにした。

待つこと十五分。
「お待たせ〜。」
ひよりんがおぼんの上に出来立てのオムレツの皿と御飯をのせてやって来た。
「なーに?案外シンプルなんだね。」
友梨緒はがっかりしたようだった。
しかし、彼は
「まあ、食ってみ。」
と私にも席について食べるようすすめた。
「春雨!?海藻が入ってるの?」
「そう!名付けて、ヘルシー春雨海藻ふんわりオムレツ!なかなかいけるだろ?」
ひよりんは自信たっぷりに言い張った。
私も一口食べてみると、今までにない感触だった。
「さっぱりしてておいしい!」
私の感想にひよりんは当然というように頷いた。
「ポン酢とマヨネーズを混ぜたんだ。それにレモン汁もちょこっと。卵のふわふわ感もいいカンジじゃん?」
「うん。」
私は食べながら、彼が嬉しそうに話しているのを聞いていた。
その目の輝きは好青年を印象づけた。
「いい匂い!今日はオムレツかしら…」
階段から浦と廉が下りて来た。
廉はテーブルに目をやると、
「すごい!あたった!わたしって天才だわ!」
とはしゃいだ。
「でも、中身は違うらしいよ。」
浦が冷静に判断すると、ひよりんはにんまりと笑った。
「ヘルシー春雨海藻ふんわりオムレツだ。」
「長いネーミングだこと。」
二人も席について食べ始めると、おいしいとの評価を下していた。

そうして、私たちが食事をしている間、ひよりんはずっと立ちっぱなしで、一考に座る気配を見せなかった。だから、私は何気なく質問した。
「ひよりんは食べないの?」
その瞬間、場の空気が一気に重くなった。
「作ってる時につまみ食いしてたから…それで腹いっぱいになった。」
ひよりんが気に止めないように話した。
私がそれならと納得すると、友梨緒が箸を置いて言った。
「ひよりんだなんて、可愛いね。」
「あ…ただ、“り”って続くと、響きいいかなあと。」
私は誤解されないように説明した。
「あたしもそう呼ぼうかな、ひよりーん。」
「人の名前で遊ぶなよ。」
「冗談だよ。冗談。」
友梨緒はけらけらと笑った。
ひよりんはやれやれと首をふると
「食べ終わったか?」
と皆の食べ具合を一覧した。
「ごちそうさま。お腹いっぱいになったわ。」
廉は料理をたいらげると皿を重ね始めた。
他の二人も片付け出した。私はあと二口三口残っていたのを素早く口に入れて、遅れないよう片付けに入った。

 

一服した後、私は掃除再開することにした。
午前中にだいたいの床とカーペットの毛取りが終わったので、午後からは庭掃きをしようと思い立った。
霧森さんに教えてもらった通りに廊下に出た。右側には、さっきひよりんが料理していた台所があった。その左側に掃除用具入れが立っていた。私は中から箒一本と塵取りを出すと居間を通って裏口から庭へ出た。
裏だから裏庭というのだろうか。人目にふれない領域らしく、庭もあまり丁寧に手入れされていなかった。裏口に続いていた道付近は砂利で埋め尽くされていた。けれども、石垣で外から庭が見えなくなったところからは芝生が広がっていた。私は、そこで猫が戯れているのを頭の中で描いてみた。なかなか絵になる情景かもしれないと一人感慨にふけっみた。それから、庭の端にたまった落ち葉を集めに足を進めた。
芝生の上に散った葉を掃くのは結構力がいるものだった。

ええい!うっとうしい!
私はじれったくなって箒をその場に置き捨てると、手でがさっと掴んで塵取りに入れた。
ふう…
私は腰をそらして、運動した。
とそこに友梨緒が現れた。
「何か手伝おうか?」
「え、ああ、いいよ。そんなに汚くないから…」
私は箒を持って、掃く真似をし出した。
「塀が高めだからね。ゴミもたまりにくいんだろうね。」
彼女は背伸びして石垣から出ている木を見上げた。
ちょうど日の光があたってその姿がキラリと輝いた。私は、手を止めてすっかり彼女に見とれてしまっていた。
「どうしたの?」
彼女が私の視線に気づき尋ねた。
私はドキリとして正直に答えた。
「友梨緒ちゃんって、キレイだなあって…」
私は意味のない羞恥心をかすかに感じた。
彼女は突拍子もないことを言われて顔を赤らめた。
「そんなことないよ…でも、嬉しいかも、ありがとう。」
微笑んだ彼女の眩さに比べたら、私の笑顔はスッポン並みと思われた。

そうして、彼女とひよりんを一緒に並べてみた。
自然派美形カップルとでも銘打てるなあ…
誰かが、美女に限ってブサイクとひっついて、美男に限ってブスとひっつくなんていう論を立てていたけれども、これは例外だ。いや、やっぱり美形同士くっつくのが現実なんだ。と一人勝手にしょうもなく落胆の色を浮かべていた。
「あたし、性格は曲がってるからね。だから、小影がすすんで掃除係してるのはすごいなって思う。面倒くさがり屋だから、報酬もらってもあたしなら絶対やらないもん。あ、でも、報酬の質と量にもよるけどね。」
彼女は明るい元気な口調で言った。
「私は、あちこち適当に掃除するのが好きってだけだから。」
「いいことじゃん。そういう人って好かれるタイプだよ。」
「でも、私の場合効率悪いからアカンと思うよ。」
私は彼女の励ましに素直に喜べなかった。
「そうかな?あたしは、見た目より、中身がかっこいい人が理想だから。」
その言葉に私のカップル像にヒビが入った。
いやいや、まだ彼がかっこ悪いときまったわけじゃない…
私がそうなのかと曖昧に頷くと、友梨緒は腕時計を見た。
「もう、行かなくちゃ。ほんのちょっとしか話せなくてゴメンね。じゃ、また!」
「あ、ううん。バイバイ。」
私は潔く去っていった彼女の後ろ姿を見送った。
姿が見えなくなると、私は再び落ち葉を掃き始めた。目立ったのがなくなるとそそくさと終了した。

翌朝、一時間目が空いていた私は、百日紅館に直行した。
常連客のように慣れた足取りで茂み道を通り、裏戸を開けると視界の左方に人が立っているのが目に入ってきた。
「あ、おはよう。」
「おはよう。」
ひよりんは、私の足音に気づくと外を見るのをやめた。
今日は何だか難しい顔をしていた。
「何かあったの?」
私の問いに彼はおもむろに口を開いた。
「友梨緒が昨日の昼から帰ってこないんだ。買い物に言ってくるって出てったまま。よくあることだから大丈夫だと思うけど。」
その割には心配げな表情がありありと見て取れた。
私は軽率なことを言える筋合いはなかったので、
「すぐに帰ってくるよ。」
とだけ返事した。
「そうだよな。子供じゃあるまいし。」
ひよりんも、頷いた。そうして、ぐっと伸びをすると
「今日は掃除いいよ。」
といつも通りの気楽な口調で言った。
「昨日してもらってだいぶきれいになったから。だから、ゆっくりしてけよ。」
「うん。」
私は内心がっかりしたが、部屋を見た限り目立つ汚れはなかった。
窓から眺めた庭も、芝生が石垣まで広がっていた。テーブルの椅子に腰をおろした私は、再び窓の外を眺めているひよりんを見た。 庭を見ると、昨日の友梨緒とのやりとりがよみがえってきた。

「ひよりんは、人によく思われる方?」
「へえ?何をいきなり?」
私も自分で突然何を言い出したのかびっくりした。
おそらく、例の像を早急に処理する必要があったのだろう。
彼は、うーん…と腕を組んで考え込みだした。
「いいっていう基準がよくわからないけど、悪くもない。普通じゃねえかな。」
「料理も作れるのに?」
「そんなの世間には多いぞ。」
ひよりんは軽く言い流した。
「でも……」
私は彼の顔を見上げた。
「きっと、モテるんだろな…。」
「まさか。」
彼はスッパリ言い切った。
「変人とでも思われてるのか、全然近寄ってもこないさ。」
それはねえあんたがあんまりにも…
私が否定しようとしたまさにその時、彼が突然咳込み出した。
「大丈夫?」
私は慌てて立ち上がった。
「…平気平気。持病だから。」
「持病!?」
「あ、いや…」
続きを言おうとした途端、外からワンという鳴き声が聞こえてきた。
私が反動で出窓の方に振り返ると、石垣の木ごしから数匹の犬が見えた。
「嗅ぎ付けてきたか。」
「あんなにいっぱい…」
私が不安な様子で眺めているとひよりんは言った。
「表から帰った方がいい。」
「ひよりんは?」
「いつも通り追い払う。」
と言うなり裏戸から飛び出していった。

突飛な行動に私は言葉が出てこず、庭に目をやると風針が駆けていくのが見えた。
そして道に出ると、犬のけたたましい鳴き声が聞こえてきたかと思うと、すぐさま遠ざかっていった。
どどどうしよう…私は意味もなく三百六十度回転した。ひよりんの言う通り、表から帰ればよかったのだが、普段めったに感じない胸騒ぎがした。 私はとりあえず、居間を出て廊下を抜けた。そして、展示室に入って玄関に出た。
前の広場の石垣ごしには校舎を移動する、あるいは帰宅する学生が行き交っていた。時計台の時計は十時三十分過ぎを指していた。 私は早歩きで正門に向かった。今すぐにかっとばしていきたい気分だった。
しかし、道幅いっぱいに学生達がいるため、それは無理無謀な考えだった。私はできうる限りの速さで歩いた。 笑顔でしゃべりあう学生達の顔をいちいち確認する暇なく進んだ。

「小影ちゃん?」
呼び止める声に私は足を止め顔を上げた。
「先輩。」
目の前にはノノル先輩が立っていた。
先輩は私が所属する部活の先輩で、人柄、経歴的に私にとっての憧れの的でもあるが、それゆえ畏れ多い人なのである。先輩は現在三年生である。
「これから授業?」
「いえ、ちょっと…」
私が口ごもるとノノル先輩は申し訳なさそうに
「あ、ゴメン。急いでる?」
と言ったので私は首をコキッと音がなるほどに横に振った。
「いいえ、そんな…急ぎたいのに急げないというか、なんというか…」
私は今の心境を表現しがたくて声がどもっていた。
ところが、逆に先輩を慌てさせてしまった。
「落ち着いて、そんな何も怒らないから。」
思っていることを話してしまいたかったが、話せるわけもなくただこう言うしかなかった。
「友達が今大変な状況で、助けたいんですけど私の助けなんかいるのかどうかって…。」
私がしどろもどろになってくると先輩は私の肩をポンと叩いた。
「私にはよくわからないけど、大変な時に一人でできることは限られてると思う。だから、助けがいらないなんてことないよ…って簡単に言っちゃってるけど、誰か傍にいると心強く思えるんじゃないかなあ?」
私は深く頷いた。

すると視界の右側を珍しく子犬が通りすぎた。
「あ!見て見て!!超可愛い子犬〜。そうそう、犬といえば狐もイヌ科なんだってね〜。この前テレビで初めて知ったんだよ。」
先輩は手をぱちんと合わせた。その笑顔が愛らしかった。
狐、犬…あ、そうか…!
「先輩ありがとうございます!」
「どういたしまして!」
ぱっと閃いた私は、先輩に会釈すると勢いよく走り出した。

私は思いつきで練習場に向かっていた。あそこには各部活の部室があるため、掃除用具入れや大きなゴミ箱が揃っているので臭うのだ。
私は校舎の入口の戸をそっと開けた。そして階段右方奥のくずかごならぬ箒かごの後ろに茶色の物体が目に入った。

「ひよりん?」
私はとっさに物体に駆けよると、身を潜めていた風針が出て来た。
「なんでここがわかったんだ?」
「カンかな…隙間あったし。」
「そうか…奴らは裏門から出ていったようだが、近くにいると思う。一端館に戻って服をとってこなきゃ。」
彼が戸から出ていこうとした時
「私は待って!」
と止めた。
「私が取りに行くよ。」
「でも、次授業じゃないの?」
ひよりんは心配げな顔で尋ねた。
私は笑った。
「運よく休講さ。」
と伝えてから外に出ようとしたが、ハタと足を止めた。
「ひよりん…」
「何?」
私は後ろに振り返った。
「ひよりんは本当は向こう側なんでしょう?」
「……」
黙って見つめる彼に私は差し障りのないよう、かつわかるように問うた。
ひよりんは獣姿というのに壁にへたり込んだ。
「うん、そうだ。風針は猫じゃない。」
彼はきっぱり答えた。
私が理由を問おうとするとその前に彼は続けた。
「珍しいことじゃない。そういう奴はいくらでもいる。ただ、犬とか猫とかそれだけで対立するのもどうかって思っただけ。だって、人間だってそうだろ?血液型でA型は几帳面とかおおよその性格ってものが決められてるけど、その型通りの人なんていないじゃん?それなのに、俺たちは型にとらわれすぎてる。それらの全てを隈なく見通しているわけでもないのにさ。それで、猫はどうの犬はどうの、ホントどうかしてるよ。区別だけならまだしも、その区別で対峙して、どっちが上かっていう争いまで起こるんだ。これって、自分と意思の反するものは排除する人らよりも性質悪すぎだ。区別された仲間の中にだって反抗者はいるかもしれないんだ。いずれは仲間割れなんかして自然消滅するさ。それを思うとなんてバカバカしいことやってんだかと思う。」
ひよりんは少し間をおいた。
自嘲するような口調からは虚しさが漂っていた。
「だから、この数年嘘をついてきた。」
「バレなかったの?」
私は静かに聞いた。
「それが問題だったけど、姿からして近かったせいか、猫達にはバレてなかったようだけど、本当のところはどうか…さすがに犬の嗅覚はごまかせなかったみてえ。」
「嘘の度合いも関係してると思うけどね。」
「そうかな。」
ひよりんは前足で顔をこすった。
「とにかく、今の追っかけ…っていうと何か別の連想するから嫌なんだけど、追っかけてるのはその犬連の人じゃない、犬だけなんだよね?でも、ひよりんがさっき話した区別の考え通りなら、同じ類は歓迎してくれないの?」
私は時折ドアの隙間から外を確認した。彼は姿勢を正して言った。
「向こうは俺が寝返ったと思ってやがる。でも、はじめから何処にも所属してないんだから寝返るも何もないんだけどなあ…それに、あの館まで嗅ぎ付けられたのも変だ。実際あの周辺は夜中しか出歩かないから姿は見られてないはずなのに…」
「誰か知っている人がいた?」
「とすると誰?」
ひよりんは私を見上げた。私は
「私じゃないよ。」
と言い放った。
「そりゃ、そうだろう。何でジョウちゃんを疑うのさ。」
ひよりんは声を上げて笑った。
「外部から侵入した形跡はないし…、まさか、館の奴らがグルだとは…思いたくない。」
「うーん…複雑だね…」
「複雑なのは物事じゃなくて心なんだ。」
「そうだね。とりあえず、先にとりに行ってくるよ。その前にもう一つ聞きたいことが…」
私は話の中で気になり出したことを率直に口にした。
「館に犬が来たとき、わざわざ出て行かなくても、向こうは勝手に帰っていったんじゃないの?中にいるとは知られていなかったんだから…」
するとひよりんはくすくすと笑い出した。
「おそらく、あの時は表にも何匹かいたさ。こっちが出ていかなかったらいずれは裏戸を突き破るなり、あるいはレーザー丸で焼くなりして侵入してきただろう。」
「それはいくらなんでも…私物破損じゃないの?」
「ブルドック、ドーベルマン相手にそれが通用したらいいんだけどな。」
「それは…無理だね。」
私はその名々に身震いした。
獰猛、忠実といった熟語が頭の中に犬のイメージと結びついて浮遊していた。
「それに、友達をやっかいなことに巻き込むわけにはいかんしな。」
ひよりんは笑うのをやめてじっと私を見た。
私は「友達」という響きに違和感を覚えながらも
「ひよりんに会って館に来た時点で巻き込まれてると思うけどね。」
と言い返してやった。
そして、ひよりんが笑むのを見納めると私は今度こそ外に出た。
「気をつけて。」
ひよりんの言葉に私は頷くと、不自然でない程度の速さで館目指して走り出した。

 

今までにないくらい神経をとがらせて任務を遂行した私は、戻るのにもまた厳重な警戒を払っていた。
ひよりんの服は裏戸の前に風呂敷に包んで置いてあった、というか放ってあった。
風呂敷からはハーブ系の匂いがしていた。鼻がスッとしすぎてクシャミしそうだった。多分これで匂いを消しているのだろうと思った。 その車香剤の風呂敷を片手に持ち、茂みの道を出た私は前方に見覚えある後姿を見つけた。

「友梨緒ちゃん?」
私がそう言うと人物はくるりと振り返った。
呼びかけどおり、友梨緒だった。彼女はゆっくり微笑んだ。そして
「どうしたの?急いで?」
とおもむろに尋ねた。
私は相手との感情のゆれに差を感じたが落ち着いて本当のことを話した。
「さっき、犬がこの周りにいて、ひよりんがひきつけてくれて…校舎内にいるんだ。だから服をとりに来て戻るところ。」
「そう。」
「友梨緒ちゃんは何してたの?」
「あたし?」
彼女は不気味なくらい間をとってから突然正門の方に視線を変えた。
「そろそろかなと思ってたところだよ。」
「そろそろ?」
私が問い返すと彼女はパンパンと手を小さく叩いた。
すると、正門の脇の道から黒い犬が一匹、二匹とまばらな間隔をおいて私達の方にやって来た。私は彼女を見た。
「これは…?」
「さっき館に来た犬達だよ。」
「犬!?何で友梨緒ちゃんが!?」
私が驚いている間にも犬は集まってきていて、館の周辺の物陰という物陰には全て犬が潜んでいるのがわかった。唐李は私を見た。かすかに笑っていたが、それは普段の明るい表情とは違ってとげとげしかった。
「あたしは日和丸が猫じゃないってことは昔から知ってたよ。それらしい振る舞いしてても違うっていうのが分かるんだよね。もう四年も追ってるんだから。」
「四年!?」
私は小さく声を上げた。
「そうだよ。あの日からずっと。」
「あの日?」
「彼が連盟に入った日からだよ。」
「え?でも、本人はどっちにも属してなかったって…」
「それは嘘。だって、私達の世界では、生まれたらそこで既に所属は決定づけられているもの。中間なんて勝手に思い込んでいるだけだよ。私もそう思っていた。だから、この館に来た当初はびっくりした。何年もかかって作られたステレオタイプを一人でくつがえそうなんて、本当に活動してる奴なんかいたんだって…」
友梨緒は過去を顧みているようだった。
私は、周囲の犬達に注意しながらも黙って彼女の話を聞き続けた。
「でも、違ったよ。」
穏やかだと思っていた彼女の口調がそこでがらりと変わった。
「あの人は自分のためだけにしてたんだ。そのために他人を傷つけることだって容易にした。」
「そんな…!」
私が否定しようとすると彼女は口調を荒げて言った。
「あいつはねえ、私の仲間を殺したんだよ!!」
「え…?」
私はその衝撃な言葉に声が詰まった。
友梨緒は声を鎮めて私に尋ねた。
「あなた、日和丸が夜中に何をしてるか知ってる?」
私は首を横に振った。
すると彼女は哀れむような目で私を見て言った。
「知らないんだね。まあ、他人に言うことじゃないけどね。いいよ、教えてあげよう。あれはね、毎晩襲ってるんだよ。猫を。そうして、人目のつかないところでそれを食べてるんだよ。」
私はわけが分からずそのまま突っ立っていた。
しかし、友梨緒は続けた。その表情はまるでわざと怖がらせるようだった。
「本当だよ。何度も後つけて目にしたんだから。持病ってのはやっかいなもんだよね。それも、人並みの食事ができないなんて、口に出せないことだもん。日和丸は生きた動物しか口にできない。はっきりとした原因はわからないけど。でも、連盟を抜けた罰があたったんだっていう噂を聞いた。まあ、私はそんな類は信じないから、精神的な問題と思ってる。いずれにしても治る見込みのない病気には変わらない。皮肉なもんだわ。」
彼女はため息をついた。
私は彼女が事実を言っているのだとしたら、到底信じがたかったが、どこかで確信できているような感覚だった。友梨緒はふふっと力なく笑った。
「信じるかどうかはあなた次第だけれどね。でも、仲間が襲われるのを目の当たりにして許せる!?」
彼女はキッと私を睨み付けた。

彼女の拳は震えていた。私は、混乱と困惑が混ざって、どう返答すればよいのかわからなかった。
ただ、今は彼女が怖いという念がよりも、それよりも情けないことに、匂いがキツすぎるこの風呂敷を早くひよりんに服を渡さなければならないと思う念の方が勝っていたため、横目でちらちらと正門の方を見ていた。その視線に気づいたのか友梨緒は
「あなたは彼を信じるんだね。ま、それも十人並み以下のよくある思考かもね。」
と嘲るように笑った。
私はカチンときた。彼女が百合の花なら私はペンペン草層に位置するであろう事実は認めざるを得ないとしても、思考まで一くくりにされて評価されたのには腹立たしくてならなかった。私は無言で即その場から逃げ去った。
門の中に入る際に脇の道路を見ると、それにつられて犬達も裏門の方へと回っていった。
今は、とにかくこれを!
私は嫌なくらい強烈な匂いのする風呂敷を両手で抱え込み、構内のど真ん中を駆けていった。途中でギュルギュルとお腹の虫が鳴いてきた。

 

「お帰り。…どうかした?」
無事に校舎まで着いた私はひよりんと顔を合わせると複雑な心境になった。
そして彼が、ありがとうと私から風呂敷を受け取ると彼は箒入れのかごの裏に回った。
私は逆を向いてしばらくしてから話した。
「友梨緒ちゃんは知ってたんだって。彼女から聞いた。ひよりんが夜中何をしているのかも」
「…そうか」
ひよりんは気の毒そうな声を出した。
「その通りだよ。隠すつもりはなかった。今までそうしてきたから自然と…でも、まさか仲間だと思っていた人に裏切られていたとは…ああ、俺はとんでもないバカだ。おとなしく犬方についていれば天寿をまっとうしていたかもしれないのに。変な病気にはかかるわ、そのせいで何人もの命を粗末にしてきたことか。食わなけりゃあこっちが死ぬとは言っても、内方の奴等を食うなんて、これ以上ない裏切りだ。卑怯だ。友梨緒が告げ口したのは館の猫たち全員の意思かもしれない。やっぱり、俺には無理だったんだ。」
話し終えると、ひよりんは鼻をすすった。

泣いているのだろうと思った。私も、何が悪いのかそれがなくて、そして、また彼らが可哀想でならなかった。 しかし、慰められる言葉が出てこなかった。一発で元気になれる言葉を私は知らなかった。
私が返答しかねて下を向いていると、ひよりんが、よしといって立ち上がった。
私は彼のほうに振り向いた。人に戻った彼の長い睫は少し濡れているようだった。
「こうなったら、腹をくくるしかない。どんな目にあったって自行自得さ。」
ひよりんはきっぱり言って、外に出て行こうとした時、私は彼の腕をがしっと掴んだ。
「待って。今出て行けば確実に助からない。」
私は「死」という単語を避けた。
するとひよりんは
「そのつもりだよ。俺がいなくなれば、館だっていや、構内が平和になるんだ。」
私の手を振り払って裏門に向かって走っていった。
「ひよりん!」
私は叫んでからすぐさま後を追った。
しかし、彼の足の速さにかなうわけがなく、私は門衛所まで来るとあたりをきょろきょろと見渡した。 門衛さんが疑わしげな視線で私を見ていたが、私は気に留めず踵を返した。そして、体育館と校舎の間の通路の奥に誰かが座り込んでいるのが見えた。 それは間違いなくひよりんだった。私は彼しか眼中にないくらいの勢いで走り寄っていった。
彼の元までたどり着くと、彼はとても荒い息をしていた。私がやってきたとわかった彼は顔を上げて
「大丈夫…すぐに行けるさ。」
と言って立ち上がろうとしたが、力が入らずに壁にもたれこんでしまった。
「無理しないで。ひよりんだけが急ぐ必要ないよ。仲間がいる。」
私がしゃがみこんで言い聞かせようとすると、彼は苦痛と怒りの混ざった表情をした。
「仲間なんてはじめからいなかったんだよ…!あれは単なる隣人だったんだ。死んだって悲しむ人なんかいないんだ!」
私ははじめて彼の口から「死」という言葉を聞いて一瞬身がすくんだ。しかし、それでも、私には彼の行動を肯定できる感情はこれっぽっちもなかった。私は首をしきりに横に振ったがひよりんは
「行く。」
と不安定ながらも立ち上がった。私がまた彼の腕をつかんで引き止めると彼は
「止めるな、ジョウちゃんには関係ねえ。」
どうしても行こうとしていた。

私はとうとう抑え切れられなくなって
「アホ!!」
と彼を一喝した。
すると彼はハッと私を見た。
「ひよりんには関係なくても私には関係あるの!!それに、仲間がいないなんてそれはひよりんの独りよがりだよ。誰にだって過ちはある。それをどう償うかが大事なことじゃないの?」
「だから、それを…」
ひよりんが言いかけたが私は否定した。
「“自分が死んで償う”なんて言ったら叩く! 死んで何になるっていうの!?悲しむ人がいないなんてことがどうしてわかるの?ひよりんは言ったじゃんか。皆ステレオタイプにはまってるって。それから抜け出さなきゃいかんって。なのに、自分の過ちで死を選ぶなんて独りよがりの典型じゃんか。」
「ジョウちゃん…」
私はただもう必死で、つじつまがあわなくても話したかった。
ひよりん一人だけに行かせたくなかった。
「ああ、言ってることがよくわかんなくなってきたけど、とにかく一人で先を行ったらアカン!」
私は彼の意思を無視して無我夢中に説得した。
いつの間にか腕を強く握っていた。病人でも全く容赦なしだった。ひよりんはあっけにとられていたが、私にこう尋ねた。
「何でそこまで言ってくれる?」
その問いがまどろっこしいと思ったのか、それとも彼が見た目の割にはひどくうす鈍と感じたのか、思いきって言った。
「それは…ひよりんが気になるからだよ!」
本当はこの後に「馬鹿!」ともう一喝してやりたかったが、病人をそこまで罵るのは気が進まなかったからそこで止めた。
ひよりんは私の発言をどうとらえたのか表情からは見てとれなかった。しかし、腕の力をぬくと、やれやれといったふうに首を振った。
「参ったよ。」
私も掴んでいた手をはなし、ほっと一安心した。
ところが、そこでひよりんの表情が一変した。
「後ろ…!」
ひよりんが指差した方向に振り返ると、数メートル先に犬が一匹佇んでこっちを見ていたのが目に入った。
私はそれが犬だと悟り、振り返るとひよりんは
「囲まれたか…とりあえずどこかに移動しないと。」
と構内にはまだ侵入していないことを確かめた。

館は大丈夫だろうかと…私がふと気にかけると、あることを思い出した。
「ねえ、今日って金曜日だよね?」
「うん。それが…」
言いかけてひよりんは、しまった!と声を出した。
金曜日の夕方は霧森さんが館に来て、掃除具合をチェックしにくるのだった。
「館に行こう!」
私が促すとひよりんは慌てて止めた。
「でも、道はふさがれてる。」
「そんなら、構内をいけばよし!」
「いいのか?」
ひよりんは目を丸くして尋ねた。
「よくないけど、緊急事態だもん。ぶっとばしゃごまかせる、はず…」
私は投げやりな口調で返した。
すると、ひよりんは
「お安い御用だ。」
と言って私の手をとるなり館に向かって走りだした。

 

私は恥ずかしいとかいう感に浸っている場合じゃなかった。
すぐ後ろを犬がおっかけてきていた。よく見れば猫も一緒だった。
人が〜…!!まあ、しゃーない!
夕暮れ時、休み時間とあって構内を歩く学生は多く、その真ん中を疾風のごとく駆けてゆく私たちは特に目立っていた。 何もしていなくてもその姿形でひときわ目立つひよりんだったから、人ごみを「すみません!」と言いながら駆けていくのは殆どの学生がノーコメントでいられるわけがなかった。

「一体なに!?」
「あれ男じゃないのお?」
「かっけ〜!」
「門衛さんに言った方がいいのかなあ?」

それぞれの言葉の通りで私は早く抜けたいとなるたけ顔を見られぬように視線を他にやっていた。
正門を抜けるとひよりんが口を開いた。
「5限目あるんじゃねえか?」
私は息を整えながら
「いいんだよ、講読は出席とらんから。それに、ここまで走ってきて戻るのは恥ずかしい。」
と笑いかけた。
すると彼も
「多分、次はないな。」
と笑い返すと館へと足を進めた。
ひっそりとした館周辺には犬猫、それも一方の感情に満ちたものの気配が濃厚に漂っていた。

「止まれ。」
いきなりひよりんが言った。
私はビクッとしたが、すぐにそこで立ちとまった。
「来る!」
「え、どこ?」
私が振り返ると、学生の人だかりをかきわけて追ってきた犬と猫が私たち目掛けて突進してきた。
「後ろにいろよ。」
「う、うん。」
私は前もそして左右後方も気にしながら、ひよりんの背中に回った。
犬たちがひよりん目掛けて飛びかかると、彼の右腕に噛み付いた。彼は悲痛の表情を浮かべながらもすぐさま振り落とした。それから、爪を立てて威嚇する猫を右足で蹴り投げた。私が安堵の溜息をつこうとすると、周囲に隠れていた犬達が次々に姿を現し出した。
これにはひよりんも驚いていたが、とめどなく襲いかかる犬達を追い払うのに精一杯だった。
私は、友梨緒を見つけなければ!と足をそろりと踏み出した。すると、一匹の小猫がやってきて、ニャーと甘えるような鳴き声をしたかと思うと、シャーッと毛を逆立て爪をたてて威嚇し出した。そうして、じりじりと私に近づいてきた。

どうしよう…
私は後退りした。猫は距離を縮めてくる。
たかが猫に…たかが?そうだ、この猫に恨みはないけど私は猫嫌いなんだ。ここは一つケジメをつけてやらにゃあかん!
決意した私は自分から猫にずんずん近づいていった。今度は猫が後退りし始めた。石垣の溝まで追いやると、私はしゃがんで猫の首根っこをひょいとつまんだ。そして
「猫が皆悪いなんて思ってるわけないじゃんか。」
と言ってやった。
パッと手を離すと、猫は理解したのか私にもひよりんにも攻撃することなくどこかに消え去っていった。胸をなでおろせたのもつかの間、周りにはかなりの数の犬猫に取り囲まれていた。ひよりんが悪戦苦闘している間に前方から大きなブルテリアが突進してきた。
「危ない!」
私は足がすくんでそこから動けなかった。
ブルはひよりんの顔めがけて大きく口を開けた。

その時彼の前をヒュッと誰かが横切った。彼の足元を見てみると、二匹の灰色の猫がいた。それらの前にブルが鼻面をひっかかれて痛そうにして猫らに唸っていた。その猫の片方が喋った。
「いいオトコの顔に爪立てようなんざ、百万年早いわよ。」
「廉さん?」
私は呟いた。
すると猫は私に向かって目配せした。そこでもう片方が
「犬なのに爪立てるはおかしいだろ?」
と突っ込んだ。
こちらは間違いなく浦だった。
「二人とも…」
数匹に飛び付かれたままひよりんはじっと浦と廉を見た。
私は心の中で、ほら一人じゃないじゃんかと言い聞かせた。

廉は
「そんな細かいことまで気にしないの!」
と浦を軽く叱り付けるとひよりんに向かって言った。
「こんだけ相手、バカのワタシにだって一人じゃかなわないっていうのわかるわよ。ヒ
ヨリは見えないところでちょっと陰鬱なのよ。それじゃあ、まだまだ修行が足りなくてよ!」
「おまえ、口調なんか怪しいぞ。」
浦が首尾よくつっこんだ。
しかし、廉は無視して続けた。
「ここで、長々としゃっべてるわけにもいかないから手短に言うけど、ワタシ達は、たとえ友人が過ちをおかしたとしても、わけも聞かずに見捨てる安っぽい友情を築いてきたつもりはないわ。」
「ヒヨリがいないとどうも調子が出ない。」
裏もひよりんを見上げた。
「何でか、俺のまわりの奴らは手厳しい気がする。」
ひよりんはそう言うと、力を込めてまとわりついていた犬達を一気に振り払った。それに乗じて、浦と廉も前方から攻めよってくるもの達に威嚇し出した。私は、今のうち!と思い、素早く茂み道まで走っていった。そして、出口に霧森さんがこちらに向かってくるのが見えた。私は、早く!と手招きすると、霧森さんはそれに従って私の所まで急いでやってきた。
「ドアを開けたら部屋に見たことない犬や猫がいっぱいいて…あれは何なの!?」
霧森さんは気が動転していたのか、体が震えていた。私は落ち着くように両手を握り、
「大丈夫です。構内の人に危害を加えることはありませんから…。それより、早く門の中に入って下さい。」
と言った。すると、霧森さんは頷いた。
「ええ、そうね。あなたも行きましょう。」
「…私は後で行きます。」
霧森さんは驚いた顔をしたが、私はそれ以上口に出さずに、ただ彼女に避難するように促した。彼女は心配げな目で私を見ながらも、道の脇を通って正門に入っていった。
さあ、戻らないと!私は彼女の安全を確認するやいなや、ひよりん達の元へ急いだ。

 

数分の間に館付近は犬猫ワールドならまだ可愛げがあるものの、どうお世辞を言っても目に映っているのは闘技フィールドだった。
犬猫祭りに飛び入り参加したら、血祭りに上げられそうだった。
恐怖の祭りの中に、ひよりんが一人、人間として見て取れるだけで、浦も廉も他の犬猫に混ざってしまってどこにいるのかわからなかった。
彼は、気をつかっているのかそれとも元からの力量なのか、ともかく牙をむくあるいは爪を立ててくる獣に手加減なく追い払っているように見えた。 それに対して、向かってくる相手はかなり本気だった。彼に向かって突進してくるものばかりだった。が、彼はその速さの反動を利用して犬達の攻撃をヒラリとかわしていた。

すごい、すごいじゃん。
私はこの危機状況において、初めてひよりんの強さを間近で身にもって体験した感覚を抱いた。日ごろから、別の意味で感心してはいたが、こういう時に限って真の実力を発揮していたかと思うと、驚嘆のため息一つくらいは悠に出てもおかしくないものだった。

私がすっかり見惚れていると、左方からニャー!といううなり声が複数聞こえてきた。
あ、マズイ!!
さっと振り返ると、予想の予想通りに三毛とトラがそれぞれ営業怒り顔でも作らされているかのごとく、不完全燃焼色調のすさまじいオーラを出して私に近づいてきた。
私は、始めの数歩は相手と視線を合わせながらゆっくり後ずさりしていった。それから、背を向けてひよりんの近くへと駆け寄った。彼に後数歩というところで私はハタと足を止めて振り返った。
追いかけてきた猫達も同じように足をとめた。緊迫感みなぎるだるまさんころんだに、私は汗をかいてきた。
そのしばし汗ばんだ手のひらで、竹箒を逆さにもって身構えた。猫達も姿勢を低くして警戒した。

にらみ合っている間、さまざまなことを考えた。
まず、自分はなぜ大衆の視線が注がれる中、こんな格好悪い体勢をしているのかだった。
その大衆も構内あるいは一般の人ではなかったから、まだマシだったかもしれない。 いや、学生が見てないから、こういう見るからに負けそうな構えができたのだと思えば、恵まれていたといっても変じゃないだろう。
変、変といえば、今この状況が変だ。ありえないって本当、こういうときだよと実感しててもしょうがないのだが、日常茶飯事「ありえない」ことだ。それがあるのだからこれはもう「ありえない」ことなくなってしまった。じゃあ、これは普通なのか?違う。でも、異変というわけでもない。別の場所ではいつものように時が流れていっているはずだから・・・。
そうか、そうだ、これは普通の別の面だ。ふとしたきっかけで起きる現象だ。偶然とも言いがたいし、運命ともいいがたい。でも、現実に存在するものたち。今まで見えなかったものが見えているんだ…
そこで、私は考えから覚めると、改めて箒を握りなおした。

そのときだった。彼女が姿を現したのは。
「友梨緒!!」
真っ先にひよりんが叫んだ。
彼と私の正面には友梨緒が立っていた。
彼女は無言で私たちに近づいてきた。
「久しぶりだね、日和丸。」
彼女はひよりんに話し掛けた。
彼女が近づいてくると、ひよりんに襲い掛かっていた犬猫達は、自然と離れていった。
ひよりんは動けるようになると、友梨緒に近寄ろうと足を進めた。すると、彼女は
「動くな!!」
と恐ろしい剣幕で怒鳴りつけた。
その言葉にひよりんはピタリと足をとめた。
私だけはその言葉に反して箒を下ろした。
「さすがだね。犬達にあなたを殺せるわけないもん。」
友梨緒は顔を下げて言った。その間、犬猫達は彼女の周囲に集まっていた。
「友梨緒、俺は決して猫も犬もバカにはしてない。」
「そうだろうね。」
友梨緒はあっさりとした口調だった。
どんな表情をしているのか見えなかったが、氷に閉ざされた空間にいるかのような凍てつく雰囲気に私は身を縮めた。
「あたしだってわかってるよ。でも、ケジメはつけなきゃなんないんだ。あなたが死ぬか私が死ぬか。」
「なぜだ?おまえがなくなる必要はねえだろう?」
ひよりんはそう叫んだ。
私も彼女の選択肢の余地のなさに息をのんだ。友梨緒はカッと顔をあげて言った。
「じゃあ、日和丸がかわってくれるんだね。」
言い終えるとともに、バッと煤のような粉を彼に投げ付けた。
隣にいた私にもかかってきたが、直撃を受けたひよりんは目をつぶって咳込み出した。そうして、友梨緒は彼の前まで来た。ひよりんは片目をあけて苦しそうに言った。
「俺が言えた義理じゃないけど、誰も死ななくていいんだ。」
「あなたはそう思ってるかもしれないけど、あたしは違う。どれだけ考慮したって許せないことはあるもんなんだよ。」
友梨緒は私を一瞥した。ひよりんは半ば諦めかけた表情で
「そのために、学生の不安を煽るようなことをするのか?」
と問いかけた。
すると友梨緒は抑えていた感情をこらえきれなくなって叫んだ。
「学生?あなたが心配なのはバカ双子やそこの十人並み以下のことでしょう!?嘘言わないでよ!」

私はさすがに、いや私だけでなく浦や廉だってピクリと耳が動いたはずだった。
私が練習サボったんならまだしも、個人の好みでしかも大声でさけずまれるなんとはかなりキレそうだった。その表れだったのか、裏と廉は一歩進み出ていた。二匹して、上げかけた前左足がぷるぷると小刻みに震えていた。
ひよりんは何か言おうとしたが、その前に友梨緒が
「謝っても、私は最期のつもりで来たんだ。だから、日和丸、仲間と思ってくれてるなら勝負して!」
と言い終える前にひよりんにかかっていった。
それと共に周りにいた犬達も動き出した。私は正門を見た。
中に入ったら大変なことになる!私は急いで門衛所まで行った。

「門を締めて下さい!」
門衛さんはのっそりと窓ガラスを開けた。
「何かあったんかね?」
私はじれったくなって
「そこの猫屋敷の猫が逃亡して構内に侵入しそうなんです!」
話をそれらしくでっち上げた。
「それは大変だ。ようし、閉めよう。」
門衛さんはゆっくり答えるとゆっくり門を締めに出ていった。
私はその機敏とは言い難い動作に苛々しながらも、ひよりん達の元へと急いだ。

 

館付近には敵味方わからず何百匹もの犬猫がかけ回っていた。
けれども、彼等は友梨緒の指示によって動いているようで、彼女の側にはいつでも黒猫と白犬が一匹ずつついていた。私が戻ってくると、二人は既に話し合いなるものをやめていた。私は辺りの木々を見回して二人の姿を確認しようとした。ちょうどそこへ一匹の猫がやってきた。
「君は構内にいた方がいい。」
浦の声だった。
右足にキズをおっていた。
私は首を振り
「そんなねえ、十人並み以下といわれて黙ってられるかよ。二人はどこに?」
「その口調…ヒヨリの影響かな。」
浦はたじろいだが、まっすぐこう言った。
「多分、茂みの反対側だ。そのへんに廉もいると思う。」
私はぐっと気をひきしめた。
「ありがとう!」

こうなったら一世一代の行事参加だ。と目前に群がる犬猫達を視野に入れぬように駆け出した。
予想通り、犬猫らは標的を私にかえてやってきた。私は策略もなく、左手に握っていた竹箒に気付いた。
これで、いくか。私は再び柄を逆さにして高くジャンプしてきた猫の頭をはたいた。猫はニャッと鈍い声を出すと、地面に逆戻りした。それが下にいたブルドックにドスンとあたった。
ぶっつけで出来るもんだ!と我ながら感心して箒を振り回していると、右方から低い唸り声が聞こえてきた。
みれば、さっきとばっちりを受けたあのブルだった。恐ろしい形相で私を睨んでいた。

あ、あのときの!私はこの犬が裏門まで追ってきたのだと思い出した。数分の間、順調に進めてきた私だったが、ここで急に緊張と恐怖感を覚えた。
しかし、柄をぎゅっと握りしめた。視線をそらせばすぐにかみつかれると思ったからだ。しばらく睨み合っていると、ブルが一瞬の隙を狙って突撃してきた。 私は間一髪で上手くかわした。私の後ろに来たブルは今度は
「この、ブサイクやろうが。」
とはき捨てるようにつぶやいてかかってきた。
私は、とうとうキレて
「うるせえ、おまえこそ鏡で自分の顔見てみろ!」
と動物相手に難題を言い、向かってきたブルの顔あたりを、箒の先で思いっきりたたいた。
先は竹だからこすれるとかなり痛かったようで、ブルはさっきの剣幕とはうってかわって、悲鳴を上げて両足で鼻を押さえた。私は、腹が立ち、即先に進んだ。十歩も進まないうちに人の姿が目に入ってきた。ひよりんは木の上にいた。向かいの木には、友梨緒がしゃがんでいた。私に気づいたひよりんはせかすように叫んだ。
「そこにいると危ない!下がってろ!」
けれども、私はひよりんの体勢が気になっていた。

「足、震えてるよ!!」
「…高狭所恐怖症なんだ!でも、何とか大丈夫!!」
「こうきょう…なら登るなよ!」
私は、聞きなれない言葉に躊躇した後、呆れた。
彼は、笑いながらも声が震えていた。
「いやいや…下さえみなけりゃ…やっぱだめだ。下りる!!」
「はじめからそうしなよ…」
私はゆっくり下りてくるひよりんと、それを見つめている友梨緒を見ていた。
彼女は私たちが会話し出しても、表情一つ変えることなく同じ体勢のままだった。
ひよりんが無事に木から下りるのを見計らって私は彼の傍に近寄っていった。
「あーあ、手に汗びっしょりだ。」
彼は、はあとため息をついて呑気にいった。
「今まで高いところ上ってたじゃん?」
「高くても極端に狭いところはだめなんだ。足が動かねえ。」
「ヘンなの。まあ、イヌ科だからね。」
「うんうん、イヌだから…」
「そこだけ…」
私は怪訝な目で彼を見つめた。彼は、あはは…と笑っていた。
そして
「笑ってる場合じゃない。本当に、一対一なんだから避難しとかないと。」
と真面目な面に変えた。
私は、頷いた。
「そこんところちょっと語弊があるよ。四+α対一+αでしょ。」
「+α?」
「犬猫の中にも、何匹かは味方がいるってことで…でも、大方、逆だよね。ひよりん目掛けてるもんね。モテモテじゃん。結構、私の予想もあたるもんだ。」
「ちょっと意味違うぞ、それ。」
ひよりんは、不可解な顔をした。
私は冗談というふうに言いなおした。
「まあ、数でいったらこっちは絶対かなわんけど、それを上手くフォローするように心がけるみたいなつもりでいたい。」
「遠まわしすぎる言い方だな。」
「確信持てない言い方だよ。」
私はすかさず言い返した。
すると、ひよりんはやれやれと首を振った。
「考えれば、ここも一応構内なんだよな。とんでもないことに巻き込んで本当にゴメン。無事に解決したら、何かおごるよ。」
「じゃあ、おいしい味噌汁作ってよ。京風で。」
私は躊躇わず早速リクエストをした。
ひよりんは、一瞬眉をしかめたが
「いいよ。うんとウマイのを作ってやるさ。」
と私へ挑戦をしかけているかのような口ぶりだった。

和気藹々とした雰囲気が流れているのもつかの間、木の上から声がかかった。
「どこまでも気に食わない奴だよ。」
私とひよりんはハッとして見上げると、しゃがんで様子を窺っていた友梨緒が飛び上がった。
その手にギラリと光るものが映った。
私はとっさにひよりんの腕をつかんで脇によけた。
カツッ!
それは鋭い音を立てて、コンクリートの地面に突き刺さった。
「針?」
「毒針だ。巨大な。」
ひよりんは顔をしかめた。
長さ約八十センチ、太さが鉛筆ほどのでっかい針が降ってきたのだった。

友梨緒は標的にあたらなかったために、舌打ちをすると、今度は何かを投げるつもりなのか右手を大きく振った。ギラギラと細かい光がいくつも重なってそれはひよりんに向かってきた。私は彼から離れ、彼もさっとかわした。そして、私の方に振り向いて安心を主張した。私もそうしようとした時、ふと彼の背後に光るものが見えた。彼のすぐ後ろには友梨緒がいて、大きな針を今にも振り下ろそうとしていた。私は、駆け出した。ひよりんの肩を掴むと、右腕にシュッと痛みが走った。そうして、その場にしゃがみこんだ。
「ジョウちゃん!!」
ひよりんは今までにないくらいのバカでかい声で私を呼んだ。
私は、腕を押さえながら立ち上がった。刺されたわけではなかったが切り口が長かったため、血が腕全体に滲み出していて、服が赤く染まっていった。
自分がこんな怪我するとは…このとき私は冷静に不自然なくらい冷静だった。もちろん、痛かった。しかし、それで泣いたりも怒ったりする気持ちまでは持っていくことが出来なかった。私は、ひよりんに
「大丈夫、かすり傷。」
と事実を告げた。
ひよりんは、心配顔になって私の元まで来ようとしたが、友梨緒の方が早かった。
彼女はつかつかと私のまん前まで来た。そして、私を見据えた。
「どうして庇えるの!?あなたも彼みたいな偽善者なの?」
「違うよ!ひよりんは大切な友達だから。そりゃ、嘘ついてたのは悪いことだけど、そのために傷つけられるのは見ていられない。」
「そんなのウソだよ。私は彼が、彼らが私の友達と争ってる時も手を出せなかった。自分まで殺されるかもしれなかったから。あなたも本心はそうなんでしょ?あなたの場合、直接私たちとは関わりないのに、なのに、なぜ自ら犠牲になれるの?」
「犠牲になる?私にはそんな高尚な真似できんよ。ただ良心…だといいけど、それが思うままにしているだけ。」
「あなたともどうもかみ合わないね。」
友梨緒は冷たくつぶやいた。
私は悲しくなって言った。
「友梨緒ちゃん、もう止めなよ。どんなわけでも、争いは嫌なんだ。」
彼女はくつくつと笑い出した。そうして
「優しいんだね。でも、やっぱり、並み以下が考えることだよ。白々しい。」
と言い捨てると片足で私の脚を蹴った。
私はガクッとよろめいたが、両手を地につけた。顔を上げると、友梨緒が私を見下ろしていた。あの朗らかな彼女の面影はどこにもなかった。彼女は突っ立ったままで、私がついた手で身体を起こすと言った。

「小影、ジャマだよ。」
「友梨緒ちゃん…」
私はショッキングな一言に呆然としていた。
顔を合わせられなくなって、ひよりんのいる前方に視線をやった。それを読んだ友梨緒は握っていた手を震わせた。
「どうして!?おかしいよ。浦や廉達と違って、あなたは…」
そこで一瞬、彼女の言葉が途切れた。
が、すぐにこう言い放った。
「あなたにとって、本当に仲間なわけ?何でのこのこくっついてきたりしたんだよ!?」
彼女は混乱しているようだった。
同じように私も、どうして彼女と言い争っているのかさえもワケがわからなくなってきた。私はしっかりと彼女と目を合わせると、立ち上がった。
「それは…信じたかったから…ひよりんが好きだからだよ!!」
もう、腕の痛さなんかどこかすっ飛んでいってしまった。
私は大勢の獣が見守るではなく、睨まれる中、力入れて叫んでしまったことを後悔するつもりはなかった。してもしょうがなかった。ひよりんの様子を見ることだけはせず、物怖じしない意思で友梨緒に臨んだ。
彼女は私の返答に
「ほら、そうなんじゃない。」
と恨めしげな声で返すとパチンと指を鳴らした。
すると、彼女の少し離れたところにいた白犬、黒猫が私目掛けて飛び上がってきた。
「あ!」
私は即座に反応できずその場所で突っ立っていた。
二匹の大きな口が瞳目前まで迫った時、ひよりんが私の前に両手を広げて立った。それから、二匹が彼の腕に噛み付いた。彼はそれを力ずくで振り払った。 細い腕には歯の跡がくっきりついていた。
私は、おろおろしながら彼の後ろ姿を見ていると、何かしら周辺がうるさくなってきた。後ろを振り返ると、大量の犬猫の間を潜り抜けて二匹の猫が私達のほうへ走ってきた。

「浦!廉!」
「あらー、ヒヨリ、随分ギャラ作ったわねえ…って小影ちゃん!どうしたの腕!ヒヨリ!ぼーっとしてないでその薄汚いスカーフでもいいから結んであげなさいよ。ったく、これだから男っていうのは…」
「兄さん、兄さん、おまえも男だよ。」
「ワタシは男でも気が利くチャーミングなオトコなの!!」
「はいはい、そうですかー。」
二人は立ち止まっていつも通り漫才をしていた。
私はそれを見て、少しほっとした。世界の終焉が訪れたとしても、この二人は類まれないエンターテイナーのままだろうと思った。私はひよりんに振り返ると、彼は首に巻いていたスカーフを取って、無言で私の右腕に巻いた。私はどっきりした。
「いいよいいよ!たいしたことないんだから。」
「ジョウちゃんには、まだまだ活躍してもらわないと、それに…」
彼は目で廉達を見るように促した。
廉はひよりんの迅速な行為に満足したらしく、満面の笑みを浮かべているようだった。
「なるほど。」
私は納得してそれ以上は何も言わなかった。
結び終えると、廉が周囲の動物に向かって叫んだ。
「よく聞きなさい!ワタシ達はあなた達とやりあう気はさらさらないの!だから、帰るなら今のうちよ!!」
「無駄な怪我人は出したくないんだ!」
浦も声高々に叫んだ。
すると、犬猫達は互いに顔を見合わせて相談し始めた。しばらくはかかるだろうと思われたが、当て外れで結果はすぐに出た。
全員がけたたましい鳴き声を上げた。その反応に裏と廉は顔を見合わせて頷いた。そして、私たちに
「ゴメン!!」
と言って寄ってきた。
ひよりんは首を横に振った。
「日ごろのうっぷん晴らしにでもちょうどいいのか。とにかく、和解は無理そうだな。」
彼は取り囲む犬猫達を見渡した。
その真ん中、私たちの正面には友梨緒がいた。四+α対一+αの予測が、四対一+αだったことにいささか悔しくなりながらも、私達は身構えた。箒を置いてきてしまったのが唯一惜しかった。しかし、素手でも何とかいけそうな気がしてきた。これも、おそらく気だけで、本当に飛び掛ってきたら泣き言を言ってのたれまわっているかもしれないとあらかじめ不運を想像しておき、実際の悲嘆を軽くしようとした。
完全に円状に取り囲まれた私達は、全員友梨緒を見つめていた。彼女が合図を出せば、皆が動き出すと四人とも注意を払っていた。彼女は指示を出す前に忠告した。

「手加減はないからね。」
そして、彼女は指を二回鳴らした。
私はいよいよ気をひきしめた。耳元でひよりんが
「猫だけでいい。」
と囁いた。
それは猫嫌いの私への配慮だったのか、けれども私は
「もう、治ったよ。」
と答えた。
彼がその反応を確かめる暇も無く、左右前後から犬猫達がわっと押し寄せてきた。

私は、足首にかみついてきた犬の背をくすぐった。そしてから、力を緩めた隙に片足を勢いよく振り回して飛ばした。
ドーベルだったのか…と種類を確認できる余裕もなく次々と飛び掛ってきた。猫は爪で手や顔を狙ってひっかいてきた。 顔だけは何が何でもまもらねば!と思い、ふと廉を見ると案の定、顔だけは上手に反らしたりひっこめたりしてその分、足を使いこなしていた。
猫姿の二人は身体が二人よりも二回り以上大きな犬にも恐れず、爪を立てていた。 その姿は勇敢というべきもので、でも、廉が犬の耳を舐めているところなんかを見ると私がぞぞぞっとした。作戦とはいえど、ちょっとその質が落ちていそうな感じもしないことはなかった。 裏はあまり噛み付いたりはせずに、なるべく威嚇して闘う相手を減らしているようだった。いわなずもがな、ひよりんはかかってくる犬猫達を難なく振り落としていた。

友梨緒は二匹の護衛とともに私達の様子を静かに観察していた。私はもう一度彼女と話したいと思い、徐々に近寄っていこうとしたが、刺客の数は半端ではなく、全然進めなかった。私は足をとられないように、大袈裟に振って進んでいた。ひよりんの軽やかな動作に魅入っている程感情の空き領域はなかった。と、そこで突然ひよりんの姿勢が崩れて、地面に座り込んだ。私は急いで彼の元へ行こうと、犬猫達を蹴飛ばし無理矢理走った。
彼は咳き込みながら、犬達を振り払っていた。
私は尋ねる前に彼の手の平を見てぎょっとした。手の平だけではなかった。口のまわりや、足元にはまぎれもなく血液がついていた。ひよりんは、私に
「はりきりすぎたかな…今日はひどい。」
と笑うと咳をした。
口を押さえた手の指の間から、真っ赤な血が噴き出した。
私は急に涙が出てきて、彼に襲い掛かる獣達をがむしゃらに追い払った。悲しくて、悔しくて、もどかしくて、泣きながら振り払っていた。ゆがんだ景色に見覚えある顔が映った。
ブル…
私は一端止まって、彼と顔をあわせた。向こうも私と認識したのか、けれども、前のように凄まじい形相で睨みつあけることはなく、無機的な表情で言った。
「ばーかばーか、ブサイクめ。」
私はこの学習能力のない生物が哀れに思えてきたが、諭そうなんという気までは起こってこなかった。
「おまえはそれしか言葉を知らんのか!」
私は彼の前に立ち、自分が一番怖いと思う顔で睨んだ。
すると、ブルはだんだん後ずさりをしていった。私はそこで止まらず、表情も変えず、追い詰めていった。
石垣の溝まで来ると、ブルは耳を垂れて石垣の向こうへトボトボと歩き出して去っていた。
私は、気を抜く暇もなく踵を返した。 急がなければ!と思い、ひよりん達が懸命に追い払っているところまで戻ろうとした。
ブルが去っていったおかげで、戻るときは比較的楽だった。石垣の傍の犬猫達の中にはどさくさに紛れて、帰ってゆくものも何匹か見られた。 できることなら、ここで飛び交っている全てのものたちが争うのを止めて戻ってほしいと思ったが、目前に広がる光景を見ればそれが徒労だということはすぐに分かった。

 

いつになったら決着がつくか見当がつかなかった闘争にようやく終わりが見え始めた。
辺り一体を囲んでいたもの達が次第に、争うのをやめて引き返しだした。
何が起こったんだろう…?私はその原因となるものを探ろうと視野を広げた。すると、前方にいた廉が私に向かって
「こっちは片付いたわ!!」
と走ってきた。その後から浦もやって来た。
私がちんぷんかんぷんな顔をしていると、浦が言った。
「僕達にはかなわないとか言い出したんだ。」
「かなわない?」
「本当かどうか疑わしいけど…でも、だいぶやりあったから向こうもくたびれてきたんだろう。もともと、敵愾心があったわけでもなさそうだったし。」
浦は毛づくろいしている廉を横目で見ていた。廉は、頭を上げると
「獣でもそのへんはメリハリつけられてんのよ。」
納得させるように言った。
私は、理由はともかく、少しでも傷つけるあるいは傷つけられるものが減って安心した。これで、ひよりんに向かう奴等だけに三人とも集中できるようになった。
「さ、ヒヨリを助太刀しましょ!」
「うん!」
私は廉の言葉に頷き後ろを振り返った。必死のひよりんの数メートル先には相変わらず、友梨緒が冷淡な瞳で彼や私達を見つめていた。
私達がひよりんの近くまで来ると、彼は勢ぞろいしているのにぎょっとした。

「お前たち、向こうは全部追いやったのか!?」
「まさか、そこまで体力はないわよ。勝手に帰っていっちゃったのよ。」
廉は前を横切った猫の攻撃をひょいとかわし、背中をはたいた。
ひよりんは安堵した顔付きになって
「よかった。じゃあ、残るはここにいるのだけか。」
と手をとめることなく追い払っていた。
それに対して浦が彼の後ろに回った。
「君だけに負担はかけられない。」
こう呟くなり、黙々と飛び掛る犬猫を追い払い続けた。
「いざって言うときにいないとね。」
廉もそう言うなり、ひよりんの左方に回った。
残された私はその場で追い払いの援助をした。 隣にはひよりんが擦り傷、切り傷、心の傷を負いながらも地面をしっかりと踏みしめて立ち向かう勇ましい姿があった。
私は目前の集団を目の当たりにしても、今は負ける気がしなかった。
勝敗とは別に新たに大事なことを感じ取っていた。箒はどこかにいってしまったので、私は素手で何とかするしかなかった。といっても、虐待じみたことはしたくなかったから、飛びついてきた犬の腹に爪を立てたり、鼻面をはじいたりしていた。それで、あきらめたらよかったが、一筋縄ではいかないのが殆どで、それらは何度も向かってきた。

疲れる…
私が次第に疲れてきたのを知ったひよりんが言った。
「こんな時に言うのもへんだけど、今、どこか違う世界にいるような気分だ。こんなことが実際に起こって、自分が死にそうになってるなんて、想像してなかったことはないけど、あまりにもリアルすぎて不思議な気なんだ。」
彼も話しながら荒い息をしていた。
私は彼の発言がついさっきの私の思ったことと同じだと思った。そうして、勝敗以上に悟った概念的なものを表す言葉がようやく見つかった。
「私も、そう思った。多分、いつもは普通すぎてわからないんだ。そこに隠れているものがあって、それは自分の傍にあるってことを。」
「そうだな。何かを追い求めようとすると、そこばっかに目が行って、身近な喜びや幸せに気がつかないんだ。目標や夢をつかむことだけが大切だと思い込んでたんだな。」
ひよりんは穏やかに笑んだ。私も
「本当に大事なことって形になるものばかりじゃないんだよね。」
と微笑み返した。
彼は頷くでもなくゆっくりと大きく息をついた。

そうして、私たちが再び気を入れなおして正面を向くと、友梨緒がスッと頭を上げ空を見た。
頭を下げると
「負けた!!」
と叫んだ。
その声とともに、犬猫たちの動作も止まった。
私たちは驚いて友梨緒に目をやると、彼女はこちらに歩いてきた。
私とひよりんの間で止まると彼女は言った。
「あたしはあなた達をバカにしすぎていたようだよ。あなた達はちゃんと繋がっていた、口に出さなくても…それに数で対抗したって勝てるわけないんだもん…」
「友梨緒…」
ひよりんは寂しそうな表情になった。
「そんな顔しないでよ。私はもう死ぬつもりはないよ。でも、館に戻るつもりもない。だから、また別の支社にでも行って住まわせてもらうよ。じゃあね。」
と言うと友梨緒は私の横を通り過ぎた。

犬猫たちはゾロゾロと四方八方に散り始めていた。
私たちは彼女が去ってゆくのを見送っていた。正門を過ぎたというところで彼女は足を止め
「小影!」
と私を呼んだ。
そうして
「…ごめんね。」
ポツリを呟くと脇道へ走り去っていった。
私はその言葉が、懐かしい響きを伴っていることに気づいて泣けてきそうになった。しかし、ぐっとこらえた。
「終わったな。」
ひよりんがポンと私の肩に手をおいた。
私は涙目になりながら
「うん…」
と短く答えた。
鼻をすすって三人の方に振り返った。
改めてみると、三人…正しくは一人プラス二匹だが…ボロボロの格好をしていた。あれだけ身を気遣っていた廉も毛がバサバサに立っていたし、裏は前足を捻挫したのかしっかりつけていなかった。しかし、ひよりんが一番見るに耐えなかった。病人が無謀な挑戦を試みたなれの果てだった。私は
「病気、治らないのかな。」
とひよりんに聞いた。
彼は私の心配とはよそに言った。
「わからねえ。原因が不明だから回復できるかどうか…支社に回って聞いてみるよ。もう、隠すことはないから。」
「あんた、血ぶちまけといてよくそんな平気でいられるわねえ…まあ、いつものことよね。心配してもムダだったわ。」
「そこまでいうか?」
笑い出す廉に、ひよりんは不満そうに眉をしかめた。
すると、浦が
「廉の言うことは心とはだいたい逆だよ。」
と呆れながらフォローした。
「わかってる、わかってる。」
ひよりんは笑いながら言った。
「じゃ、私たちは館がどうもなってないか確かめてくるわ。」
廉は浦に一緒に行くよう首で促した。彼は頷いて
「ああ、うん…帰り気をつけて。」
と言うと先に駆け出した。
「ほんとにありがとう!」
廉も浦のあとを追っていってしまった。
ぽつんと私とひよりんだけが残された。犬猫たちが取り囲んでいた道が今はもう広々としていた。

私が、無言で辺りを見渡した後、ひよりんに話しかけた。
「何か、さっきのことがウソみたいだね。」
「ああ。夢から覚めたような感じ。」
彼はすうと息を吸い込んだ。
日は傾いていたが、彼の姿は眩しかった。一間おいてから、彼が私に尋ねた。
「それはそうと、あれはどういう意味だったんだ?」
「あれ?」
私は彼の方に振り向いた。
「ほら、友梨緒と言い合って、叫んでた…」
ひよりんは最後いいにくそうに顔をそらした。
私はハッと気づいた。
もしや、あの告白まがいの…その瞬間私は顔が熱くなった。
「え、あれはー……そのー……、とっさに…」
私は下を向いて口ごもった。
今更、ほらなどふけない。覚悟を決めた私はしかし、控えめに言った。
「でも、ひよりんがどう思ってるかはわかんないし…、犬にもブサイクなんていわれるくらいだから…気にせんといて。」
言ってから、私は裏腹なこと発言だなあと気づいた。
あれだけ、大っぴらに言ってしまったのだから、気にしないで欲しくはなかった。しかし、無理に答えを求めるのも一方的すぎな感じがして嫌だった。
黙っているひよりんの様子を見る限り、変なこと言ってしまったと少し後悔し始めた。そこで、長居は無用と考えた私は、顔を上げた。
「そろそろ帰るよ。予習しなきゃなんないから。」

歩き出そうとした私を
「待て!」
とひよりんが止めた。
「おごる約束…したよな?」
「そういえば、忘れるところだった。また今度の休みにでも作ってよ。」
私は、気が抜けたかのような返事をした。
「うん…」
ひよりんは元気がなさそうに俯いて答えた。
すると、彼は顔を上げて私の前まで進むと、パッと私の怪我だらけの手をとると、そっと握った。そうして、背中に手をやってゆっくり抱き寄せた。
「!!!!」
私はハっとした。
ひよりんの顔を見上げることも出来ず、ただ、“どきどき”という文字が口から形になって出てきそうなほど身体が強張っていた。彼はそのままの体勢で
「ジョウちゃんは俺にとっちゃあ、最高さ。」
といつもの陽気な声で言った。
私はそれを聞いてまた、今度は耳まで真っ赤になっている感じがした。
そうして、恐る恐る見上げてみると、私は口をぽっかりと開けた。
「どうしたん!?なんで、号泣してるの!?」
そのとおり、ひよりんの頬には涙を行く筋も伝っていた。
彼は片方の手で涙を拭った。
「なんか、悲しいのか嬉しいのかわからない気分なんだ…あ、いや、「好き」と言われたのは嬉しいよ、嬉しいに決まってるさ。でも、こんなところでうかれていいものか考えたら、急に泣けてきて…」
とまた瞼から涙が溢れ出てきていた。
私は面白くなってきて、しのび笑いをし出した。
「はあ…やっとおさまったかな。俺ってこういう状況だめなんだろな…もう、笑ってやって。」
ひよりんはため息をついた。
彼が言う前に、私は爆笑していた。そのうち、私も笑いすぎて涙が出てきた。
「戦の締めくくりは涙か。」
「これも形ないものだね。」
私は笑いをこらえて答えた。
「そうなのか?」
ひよりんは目を丸くした。
「だって、涙は見えても、私が今思ってることは見える?」
「うーん…」
ひよりんはその問いに空を見上げて考えた。

数秒してから
「俺が泣いてるのを見て面白かったから?」
と言った。
私は首を振った。
「その状態で玉ねぎみじん切りしたらどうなるかって想像したら、可哀想になってきたからだよ。」
彼は唖然とした。
しかし、すぐに吹き出した。そして、私の頭をポンポンと二回軽く叩いた。
「やっぱ心はムズカシイもんだ。」
私はにっこり笑むと、彼から離れて正門の上空を眺めた。

底冷え空気が蔓延してきているはずなのに、今は爽やかな微風が頬に快かった。
私は、ほてりがひいてゆくまで、赤茶けた金色の空をまっさらな気分で眺めていた。

-終-

大学生になってから初めて書いた作品。
まだまだ表現が甘いので、アップしながら少し手直ししてました。
こういう追いかけっこ?みたいなストーリーだと、
主人公がどうしてもはっちゃけるんですよね。
この作品は「愛ラブ漫才」気分で読んで頂けたら光栄です。