超話術
 実は「超」なんて言葉はもう使われていないと思い込んでいた。
その昔、「超MM」という言葉をあちこちで耳にしたけれども、その頃が全盛期で、現在は衰退期だと心のうちでは確信していた。
が、先日、ある授業の前に、私の前の席に座っていた子が隣の友達に向かって、「これって超ありえやんくない?」と言ったのだ。
私はそれを聞いた瞬間、えええー?それありえるの!?と一人で動揺してしまった。

 この文章には他にも興味深い語が隠されているが、今回はあえて「超」にふれてみた。というか、「超」が他のどれよりも衝撃的だったのだ。
私や彼女らの脳みそ内部ではおそらく「超」は「チョー」と描かれていることだろう。
漢字の表記である「超」とはまた違った響きを含んでいるように思う。
「超」は本来漢語につく。超伝導、超能力など…程度や限度を超えていたり、飛び抜けて優れていることを意味するそうだ。
なので、「超ありえやん」はこの点からしても外れている。
けれども、その辺は「超推測不可能」とでも直せることで(これも微妙にニュアンスが違うから不満なのだが)、特に目くじらをたてるほどのことでもない。

 この「チョー」は、全世代共通語訳するなら「とても」、「決して」が妥当なところ。
あたかも否定の呼応の副詞のごとく用いられているのは気のせいではない。
私やその周辺は話し言葉では「めっちゃ」が主流だったので、この訳の「とても」や「決して」でさえもなじみが薄い。
「めっちゃムカついた」や「すんごく腹がたった」とかは自分もよく言う。
本当に俗っぽい表現で恥ずかしいのだけれど、使い分けようという志は、それなりにないことはないはずだ。
端的に述べると、「超」(チョー)というと、軽い感じがして嫌なのだ。かといって断固拒絶というわけでもなく、手紙やメールで余白が狭い、文字数はみ出るときには嫌々ながらも使用しているというのが現状だ。その面では”超便利”だ。

 でも、「チョー」より「とても」、「めっちゃ」とかのほうが温かみがあるというか、語感が耳に優しい。多分、音読みというのは時に不可解だったり、意味不明だったりするから、特に同音異義なんかは、意思の疎通が上手くゆかない状態に陥りかねないため、「超」にも違和感を抱いていたのかもしれない。

 それに対し、「とても」類は感情がこめやすく、かつ伝えやすい。
「とても」ひとつをとっても、「とっても」、「とーっても」と別にシャレを言うつもりはなかったのだが、伸ばしたり、詰まらせてみたりとバリエーション豊かだ。
しかし、「チョー」になると、「チョッ」や「チョーッ」はさすがに言わないだろう。
かろうじて、「チョオー」や「チョ〜」とまるでコントのネタあわせをしているみたいな何とも奇妙な語が出来る。
その上更に、あからさまに念押し(それはたまに脅迫観念もはらんでいるよう)していると感じられる。
本人がそれを意識しているのなら、何遍つかっても結構なもの。

 だから、その考えでいくと、彼女のあの発言は、「ありえやんくない」を更に強調、年配層が眉をしかめるこの疑問形で既に肯定を促しているのに、それでもしつこく、「チョー」をつける。
念押しの念押し。「おめえもそう思うやろ?」を暗示してしまっているのだ。
帰属意識にとらわれているというのがまさにここに表れている。責任は誰にあるというわけでもない。私たちの語彙があまりにも少ないというのが関係しているのは間違いなく、また、程度を強める副詞が日本語ではあまり発達していないということにも原因がある。 たとえそうだとしても、「超」だけで済ますことはしてほしくない。

 例えば、「昨日はチョー暑くて、チョー寝れやんだ。チョー最悪〜。」という言葉。
何、このボギャ貧。自分で言っていて、くどいなあとか思わないのか。それより、これで会話が成り立つことに感心してしまった。最低限、「全然寝れやんでマジ最悪〜。」ぐらいは言えなければイカンだろう。いや、これでも私はまだ不服だ。

 とにもかくも、「超」の繁殖力には驚かされた。若者言葉は大半がそうだと思うけれども。

 “学校”という場は、言葉の宝庫であることに私は嬉しくなってきた。
腹の立つ言い回しを聞くと注意したくなる、あるいはそれが聞くに堪えぬ酷いものだったら、殴りたくなる衝動に駆られることはあっても、耳を欹てていると、それぞれの人の言葉はそれぞれ違うってことを、ナマで見ることができるというのは面白い。

 ともあれ、私達若者の語彙不足は確実。そのせいで生じてくる誤解によって、対人関係が崩壊する懸念はすぐそこに迫って来ている。んな、大袈裟なって思うだろうけど、言葉というのは想像以上に力を持っている。人一人ずつ違えば、ひとつの言葉の捉え方ですらも人一人ずつ違うことになる。

 考えれば考えるほど奥の深いコトバ。
周辺の若者言葉を追究していくことで、言葉の裏に潜む心理は何かを自分なりに解釈していきたいなあと思う。
もちろん、楽しみ、怒り、嘆きながら。
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