「若者の言葉の乱れについて」思うこと
現在、若者の言葉の乱れについてさまざまな意見が提示されている。
特に、限られた範囲でしか通じない言葉に批判的な意見が多い。
しかし、彼らの言葉を無神経に批判することは間違ってはいないのか
確かに、若者の間の会話には不可解な表現も見られることがある。
その例として、私が普段友達としゃべっていた時に「嘘じゃないよ、みたいな」と言われたのをよく耳にすることがあげられる。
私は、この「みたいな」を直接話法で受けているのにも違和感を覚え、また、内容の真偽を曖昧にしたいという意図も垣間見えたので、いささか耳障りに感じていた。
けれども、婉曲表現は政治家が演説で「〜を思う次第だ」などと言う時にも頻繁に用いられる。そして、時には回りくどすぎて、話の要点を全く把握できないことがある。
政治家の発言は、世間への影響力が大きい。
それゆえ、婉曲表現は必要不可欠、やむを得ない場合も多いだろう。
だが、何でもかんでも婉曲にすれば発言に効力を持たせられるとは限らない。
本人は直接的に言うのを避けようとして、語尾を「〜じゃないですか?」と疑問調にしたつもりでも、それは聞き手からすれば、単なる誤魔化しにしかならない可能性がある。 すると、肝心要の主張が理解されず、民衆の心も掴めなくなってしまう事態も生じうる。
もともと、婉曲表現というのは相手に畏れ多いという配慮から来ていると言われている。
しかし、今日では政治的な立場において婉曲表現を用いることが暗黙のうちに一般化されて、配慮心の欠けた言葉ばかりである。
とりわけ、政治家は過剰な曖昧表現が聞き手を軽視していることに気がついていない。
それに比べれば、若者たちの遠まわしな言い方は、疎外を極度に恐れているからという理由のためであったとしても、 互いに理解し合いたいという意思においては数段上なのではなかろうか。
 だから、若者たちの言葉や表現を批判するのなら、 「いい加減」とされてきた表現を見過ごしてきた大人たちが先に矯正するべきである。私たちは婉曲表現を用いる際には、 本当にそれが必要かどうか吟味した上で発言しなければならない。

>>小論文対策で解いた問題の一つ。
批判できても、それをどうやって解決するべきなのか
考えるのは難しい。特に、言葉なんて長年しみついている
ものを「今から改めろ!」と言われて直せるものじゃないし…
意識しておくだけでも、だいぶ言葉への感覚?といった
ものに鋭くなるのかなあと思う。

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