ししゃも白昼夢(5)
普段家族でもこんな高級料理店に入ったことない。
いや、昔はよく行ったと思う。それも景気がよかった十年以上も前の話である。
見渡せばカップルや親子連れや老夫婦など老若男女問わず、それぞれのテーブルで食事と会話を楽しんでいた。
今日は夕方から先日肥代呂と約束したレストランに来ていた。
創作料理の店で、始めに頼んだサケのムニエルを私は慣れないフォークとナイフで必死に切り分けていた。
ようやくその一切れを口を運んだ。
「おいしいな」
私の口から出た言葉は意味は伴っていたが、実際それだけに専念されるものではなかった。
さっきからどうも落ち着かなかった。窓から見える夜景がいやに私の不安を掻き立てていた。
それでも笑顔を繕って考えないようにと何度も心の中で言い聞かせた。
肥代呂はそんなこと知る由もなく満足そうに微笑んでいた。
「よかった。前に一度来たことがあって結構おいしかったから。連れてきたかったんだ」
肥代呂はチキンステーキを口に入れた。
「へえ〜よく食べに行くの?」
沈黙を作ってはならないと私は他愛無い話題でも挙げた。
「うん、まあちょくちょく友達と」
彼は私の食べる様子をじっと見つめていた。
「ふ〜ん、彼女とは行かへんの?」
何食わぬ表情で行った私はしばらくしてまずかったかなと思いとどめたが、手は止めなかった。
彼はうつむいて黙った。
沈黙。その間私の口腔内ではもぐもぐという音が響いた。味なんか味わう余裕などなかった。
いつのまにか一皿平らげてしまった私はそこでようやく手を休めた。
(大丈夫やんな…)
私は窓の外を見つめた。日はとっくに沈んで窓の外は私の心とは裏腹にきらびやかなイルミネーションに溢れていた。

リン
(え?まさか?)
私はガバと周りを見やった。鈴なんて鳴らしている人はどこにもいない。
空耳かと思い、座りなおした。
リン
今度ははっきりと聞こえた。私の緊張感は一気に高まった。
鈴の音はそれでやんでしまったが、私の心臓のドキドキは異常なくらい速かった。
(今のは何かの合図?でもガンさんもおるんやしきっと大丈夫、大丈夫やって…)
落ち着かせようと私は手をぎゅっと握り締めた。その時カバンの中から光が発した。
携帯の着信である。私は彼が話し出さないのを見て取るとそっと携帯を取り出した。
母からのメールだった。私は表示のボタンを押した。
「この前言ってたん、あんたのことやから友達に相談してることやろ思う。心配やけど若いうちにしかでけへんこともある。 オカンやオトンもあの時やっときゃよかったって後悔することたまにあるんや。勉強は学生のうちにしかできやん。勉強ってのは授業だけじゃない、友達を大切にするとか今あんたが追っかけてる神様もそうや。追っかけるんは構わへん。私もハピくんのファンやしな」
(いや、そこは絶対ズレとる…)
私は途中ツッコミながらも最後まで読み進めた。
「でも、相手の迷惑にはならんようにおりな。一方的ってのは嫌やん。時には遠いところからでも思いやれる。ハピくんはフランスに住んでるから近寄れへんけどな」
(なんでこうまでしてハピくんを持ち出したがるんやろうか…)
私は少し引きながらも最後の文章を読んだ。
「まあ、こなきが考えてしたことオカンは責めへん、するならとことんやれ。ぶっ飛べ!」
(オカン…)
私は胸がじんと熱くなった。ぶっ飛べることはできそうにないが、母がここまで自分のことを思っていてくれてことを知り頭が下がる思いだった。
私は沸き起こる感情が涙腺にたまっていくのを感じた。

「こなきちゃん…」
「あ、何?」
私は携帯をそそくさとしまい、肥代呂の方に顔を向けた。彼は真剣な表情だった。
「僕はこなきちゃんが好きです」
「うん…」
とりわけ驚きもせず私は次の言葉を待った。
「その、よかったら付き合ってくれませんか?」
彼はぱっと顔を下げもう一度上げた瞬間急にゆがんだ。
「あ、ごめん。急に言って困るよな」
彼はすごく焦っていた。
「ううん、これは違うんや…」
私は右手でこぼれる涙をぬぐった。
おさえきれなかった涙がふとした弾みに流れ出してきたのだった。彼は心配げに見ていた。
「ありがとう。その気持ちは嬉しい、けど…」
「他に想う人が?」
私はゆっくり頷いた。
「その人はワケありで、今めっちゃ危険な状態にあって、それで今までそれで頭がいっぱいで…」
「そう…」
彼はがっくりと視線を落としたが、すぐに顔を上げた。
「なら、その人見に行ってあげなよ」
「え、でもせっかくの食事やのに」
私は涙がおさまった手を払った。
「だって、そんな状態で話してもこなきちゃんが辛いだけだろうし、いてもたってもいられないんだろう?」
その笑顔に嘘偽りはなかった。
「ごめん、じゃあ…」
申し訳なく思いながらも私は席を立った。去る前に一言言った。
「これからもいい仲でいれるようにしたいって思っててもいい?」
「うん、もちろん」
背中越しに彼の爽やかな返事を聞いた私は小走りで店を出た。


塗屁ほっふ先生の補講がまさかこんなところで役に立つとは思いも寄らなかった。
神様天上帰還大作戦のため私は正門前の駐車場の扉をくぐって茲賀津に戻ってきた。時刻は七時十五分。
帰ってきたら急にお腹がすいてきた。さっき高級サケのムニエルを食ったばかりだというのに。
分かれ道を抜けて明かりの少なくなった道を私は走っていた。
いつものように鳥居が見えてきた。浴衣を着た中学生くらいの女の子二人が出て行くところだった。
「おお、ちょうどいいところに来なさった」
社務所に入っていくガンさんに呼び止められた。
「神様無事ですか?」
私は息を整えながら尋ねた。するとガンさんは神妙な顔をした。
「それが、この前見かけたときいつもより二十センチ高く浮いてての。祭りが近いからかの。で、困ったことに見当たらないんだ」
(もう!一体どこをほっつき歩いて…じゃない、ほっつき飛んでるんよ)
私は半ばキレつつも顔を上げた。嫌な悪寒がした。
(時間がない)
その悪寒が素持のものだと判断するとガンさんに言った。
「もうすぐ、ここに凶悪な越己者が来るかもしれないんです」
「あらまあ」 ガンさんは口のわりに顔は普通だった。私は急かすように頼んだ。
「ここを破壊されないように策を練ってきたんです。それを試させてもらえませんか?」
「え〜まあいいけど、こんな人気も少ない所でそんなことするかいな」
「少ないからしようとしてるんです」
私は断言した。ガンさんはふうんと頷き
「やっぱりあんたさんも越己者なんかね?」
と聞いた。私は首を横に振った。
「いえ、神様に惹かれたぶっ飛びな人間です」
ガンさんはますますわけのわからない顔になっていた。
ここまで来たら一か八かやってみるしかない。
私は素持が神社に来る前に作戦を練ろうとした。
まず状況を推理すると、京に行った神様は運悪く彼女に出くわした。
その時に多分、力をとられそうになって逃げ出した。その向かう先はしその葉神社。彼が真っ直ぐに帰ってこないのは町の人たちの安全を思ってまだ周辺をうろうろしているから。
けれども、 最終的に行き着くところといえばここしかない。素持はそれを狙っているはず。じゃあ、素持に神様が見つかる前に阻止せねば、その前に神様がどうして今どこにいるのか尋ねなければならない。
一秒過ぎてくうちに私の不安と緊張も高まる。
もうすぐそこまで迫っている。私は神社から飛び出すように出て東に走った。
左に広がる田んぼはまるで落ちたら二度と戻ってこれない闇の穴だった。
少し行くと空き地が広がっていた。おそらく駐車場と思われるそこには奥に乗用車が二台ほど止まっていた。
私は空を見上げた。幾つものほしが天を飾るように瞬いている。道端にあった外灯が唯一の明かりだった。
それを見て私は塗屁先生の補講を思い出した。
光を使った己内、私は一度も試してみなかったが、強大な越己に果たして効き目があるのだろうかと疑った。いずれにせよ、今手元には札は持ち合わせていなかった。

(丸腰やわ)
私は途方に暮れそうだった。せめて己内でも鍛えておけばよかった。
いや、でも先生は己内は心次第で変わると言っていた。もしかすると潜在的に己内が働くこともありうるのかもしれない。それも一大な賭けだが。
カツカツカツ
(来た!?)
私ははっと振り返った。神社のほうからこっちへ向かってくる影があった。
その気迫、重苦しさから素持だと確信することができた。
彼女が姿を現すまで私は一歩も動かずその場で踏みとどまった。
外灯の光に照らされて次第に彼女の姿がやみに浮かび上がってきた。
黒いノースリーブに黒のパンツ、腕には邪魔なくらいの装飾品、片手にはもこもこ神社でみたときと同じ杖を持っていた。背中まである黒茶色の髪を一つに束ねて後ろに垂らしていた。
彼女は私を視界におさめると立ち止まった。
「あんただね、あたしをつけてたのは」
低く闇に溶け込みそうな声だった。
「神様はどこ?」
私は端的に問うた。彼女は不敵な笑みを浮かべる。
「まだここには帰ってきてないみたいだね。あれだけ苛めたらもう力は残ってないだろうに」
「彼に何をしたん?」
「あんた達がやめさせようとしてたこと。けど、途中で逃げられてしまった。今はどこを彷徨ってるかわからないけど死んではないから安心しな」
(安心できるかよ)
私はきつく怒鳴ってやりたかったが、彼女の越己のことを考えるともう少し我慢して聞き出さなければならなかった。
「なんで神様たちの力まで盗ろうとするの?貴方はそれで一体何をしようとしてるん?」
「愚問だね」
素持はせせら笑った。
「もっと強くなりたいからよ。こんな機会滅多にない。人生に一度きりかもしれない。だからそうするの。越己者でもないあんたみたいな田舎娘にはわかんないと思うけど」
何よ、このあたかも自分が都会人で流行についていってますみたいな侮辱の仕方は。塗屁先生の気持ちもちょっとわかるような気もする。
こんな越己者は邪悪や。
背を向けて話す彼女を私は食い入るように見つめていた。
「あたしは関係ないものはほっとくつもり。だけど、これ以上干渉するならただじゃおかない」
クルリと振り返った彼女の瞳は怒りに満ち溢れていた。
冷や汗が流れた。
「ここまで来といて神様を裏切るわけにはいかへん」
私は言葉一つ一つをかみ締めるように答えた。
「あんた、随分ここの神に気があるんだね」
「悪いかよ」
と私は口の悪さなど気にせずにらみ付けた。
「いいわ、それなら足止めするまでよ」
素持はばっと杖を翳した。先端が赤く光る。
(わお、うちどうすればええん?あんなん食らったらおしまいや〜)
私はしょっぱなからあわてふためいた。
だって、普通に考えて無効は邪悪で強大な己越者、対してうちは己越なんか全くわからん人。
そういう人に本気で越己なんか使っていいわけ?いや、それがプライドとかいうもんでそれを傷つけられたくないあまり力によって相手をねじ伏せようとする…ってこんな分析してどうするんさ〜今はあれをよける方法を考えやんと。でも、己内でできるんか?
私はぱっとひらめいた。
越己が己内と相反するものなら、きっと己内にも越己を無効にする術があるはず。
赤い光はどんどん大きくなり、私の身長ほどに膨れ上がるとそれはじりじりと私に近寄ってきた。
私は目をつぶった。
左手を顔の前に翳しぎゅっと拳を握り締めて額に軽く当てた。
(神様を神社を茲賀津の人たちを守りたい!うちにまだ力があるならどうか応えて!!ハビラビハビラビ!)
自作の呪文も付け加えて強く願った。そのうち赤い光は私の身体をすっぽり包んだ。
私はゆっくり目を開いた。周りが赤い。
(暑い…)
どうやらこの赤い光のせいだった。正面にいた素持は無表情で立っていた。
「己内で跳ね返そうとしたわけか…でも残念ながら全て成功したわけじゃないみたいだね。その光は徐々に体力を奪う。それまであたしに勝てればいいけど」
「くう〜」
私は歯を食いしばった。しかし一撃でやられるよりはましだった。
先ほどの願いが己内となって現れたのだった。
「引き返すなら今のうちだよ」
(誰が!)
私は無駄なエネルギーを消耗しないためにも極力声を出さないで表情で示した。
私の否という返事を察した素持は冷たく笑った。
「じゃああんたの気が済むまで付き合ってやるよ」
その後笑みはさっと消えた。私は身構えた。
素持は杖をぐるぐると左右に振った。先端から黄色い光が玉となって私めがけて飛んできた。
「あたっ!」
そのうちの一個がよけきれずに足首に当たった。その痛みは赤い光に吸収されるかのように消えた。またズシンと身体が重くなった。
(う〜ん)
私は頭がクラクラした。貧血症状に似ていた。
(このまま当たるとどんどんしんどくなる…)
対策を考えようとしたがふらふらでその気力もなかった。
玉の攻撃はかろうじてかわせていたが、だんだん疲労によって感覚が鈍くなってきた。
「あっ…!」
肩に攻撃を受けるとバランスを崩しその場にへたりこんだ。急いで膝をついたがそれ以上力が入らず起き上がることができなかった。 素持は私が座り込んだのを見ると玉を放つのをやめて近寄ってきた。
真正面で止まった彼女を私は見上げた。
「殺したりはしない。二、三日動けなくなるだけだよ」
ニイと不気味に笑んだ。私は息を荒げていた。汗がポタリと砂利の上に落ちた。
(このままじゃ本当にアカン!)
私は遠のく意識をぐっと持ちこたえた。そのとき彼女が手にしていた杖が目に入った。
(これで…)
ぐっと渾身の力をふりしぼって私は左手に意識を集中させた。
そして素持が手を翳している手を跳ね除けた。
「え?」
彼女が声を上げるよりも先に私は杖めがけて突進した。
左手で杖を力強く血管が浮き出るほどに握り締めてその手をパッと放した。
駆け抜けた私の身体がすっと軽くなった。視界の赤味が消えていた。
私は立ち止まることなくそのまま空間の扉に向かって突っ切っていった。


翌朝、昼の三時に目が覚めた。カーテンの隙間からは日光が漏れている。
山ではセミが活発に鳴いていた。私はベッドの上で大の字に身体を広げた。
昨日十時前には寝たのにまだだるい。
昨日のことはよく覚えていなかった。素持に体当たりして無我夢中で走って帰ってきたのはきちんと記憶にある。
しかしあの赤い光がとれたのかは定かではなかった。越己によって作られた杖に越己の光を移そうとした。赤くないということはそれが成功したという証拠だったが、論理的に考えると頭が痛くなった。
(はあ…)
大きなため息が出た。
(あの人はどこにおるんやろう…)
私は額に手のひらを乗せた。体温はだいぶ下がっていた。
茲賀津を守るなんて言っておきながら逃げてきてしまった。
あの時は仕方なかったけど、でも、神様は命がけで京に行ってくれたのに。
喉の奥から涙がこみ上げてきた。それをぐっとこらえた。
(あの後、素持はどうしたんやろう。神様が戻ってくるのを待ってた?早く会いたい。けどどこにいるのかわからへん…)
私は目をつぶった。涙がこぼれないように。
ふっと暗闇に情景が浮かんだ。
大きなグラウンド。しかしそこには誰もいない。
ちょっと外れた草むらは梅雨の恵みで増殖した植物たちが一面覆っていた。窪地に一つの人影が映った。
(神様!?)
パッと目を開いた私はがばりと起き上がった。
(あれは体育学部のグラウンド)
私は枕元に放ってあった携帯を掴みとると、普段の倍以上の速さで親指を動かして紫音にメールした。昨日の出来事の一部始終とそして神様の居所を。
勘には頼らない私が居所を特定したのは今のが己内だと信じたかったからだ。メールを送信した私はまだ疲れのとれてない体を起こしそそくさと出かける準備を始めた。

今までへとへとになった経験は幾度もある。
たとえば中学の水泳大会、高校のマラソン大会…そのうち昨日今日の私の疲れ方は一段と上回っていた。筋肉痛になるわけでも腰痛に悩まされるわけでもなく、このなんとなく気だるい感じは京の夏の湿気と合わさって更に重くなった。
(あそこにいてほしい…)
私は次第に近づくグラウンドを目にして心で強く願った。
紫音とはグラウンドの入り口で待ち合わせてある。
「こなき!!」
後ろから声が掛かった。
「紫音…」
私はその場で重い足を止めて振り返った。紫音が猛スピードで駆けつけた。
「大丈夫なの?もう少し休んだ方がいいよ」
「でも、昨日よりはマシになったし、それに急がな」
「もう〜こなきの身は一つしかないんだから大切にしなさいよ」
紫音は私の背中をさすった。私は頷き足を勧めようとしたそのとき。
リン
確かに鈴の音。
私は一気に走り出した。
「ちょっと!こなき!」
紫音が止めるのも聞かずに私はグラウンドの裏へ回った。
今朝見た光景と同じである。人がいるのを除けば。
数メートル先に窪んだところがあった。そこに人が横になっていた。私はすぐさまかけつけた。
紛れもなく神様だった。彼は周囲の植物で身を隠すように仰向けに寝ていた。
(生きてるよな)
私はハラハラしながらその顔を見つめた。頬にかすり傷があった。
おそらく、素持の攻撃をかわしたときにでもついたのだろう。耳飾りにも赤い血がついていた。私は彼の肩に手を置いた。
(触れる?…あ!)
私はそのとき重大なことに気づいた。
「神様、神様!」
しばらくして彼はまぶたを開いた。
「こなき?」
その瞳はいつもとかわらず潤んで澄んでいた。
「私にはかなわなかったようだ。約束半分破ってしまったな」
「そんなんはどうでもいいんや。神様、地面について…」
私はその後が続けられなかった。
地面についている、触れられるということは神様が神でなくなったということを意味した。
「ごめん、ごめんなさい…」
私の目からは涙がとめどなく溢れた。
そうしないとこみ上げる思い全てが行き場をなくしてしまいそうで、自分の無力さをただただ思い知らされて情けなかった。
「泣くな。こなきのせいではない」
神様は私の手をとった。
「でも、もう戻れへん…」
私は必死に涙をこらえようとするが、その意思とは逆に頬をぬらした。
「人間ってこんなに大地とくっついてたんだな」
「え?」
神様がゆったりした口調で話し出したのに私は顔を上げた。
彼は青空を見つめていた。今日も綿雲が途切れ途切れに流れていた。
「自然に近いものは私たち神かもしれない。人間はそれを壊す。しかし彼らはこの地にひきつけられてその地で暮らしてゆくためのさまざまな苦労を味わうのだろう。大地を歩む人間に悩みが絶えないのも、今こうして初めてわかった」
私は彼の瞳を見つめていた。生き生きと明るかった。
「だから、このまま人間に下がっても悔いはない」
神様は私に微笑んだ。優しく寂しい笑みだった。
私は今回は肯定できなかった。
そりゃ、好きな人物との距離が縮まるのは嬉しい。でも果たして彼が神様であるのと神様でないのとで私の彼に対する見方が変わるかといえばそうではない。彼はしその葉神社の神として春恋空助神として在る義務があるはずだ。それに素持の横暴にこれ以上神様を苦しめたくはない。
私は涙をぬぐった。真剣に彼を見据えた。
「いや、それはアカン」
神様は私の決意の表れを感じてかやや顔を強張らせた。
「このまま素持をほっといたら神様と人との境界がめちゃくちゃになると思う。人は人、神は神。その境界が人の心のよりどころになる。私らは神様が神様である限り思いは変わらん。やから戻る…力を取り戻そう」
神様は目をぱちくりさせていた。
(うちの言ったこと通じてるよな)
この期に及んで不安になった私だが気持ちは揺るがない。

「こなきぃ〜!」
紫音はやってきて神様を一目見るなり大仰した。
「あ、人間になってるじゃん。素持の仕業?」
私はうん、と頷く。
「あ〜もうムカツク!早くとっちめてやんないと!」
紫音は腹立たしさを露わに土を蹴った。
「今度は作戦を立てようと思う」
「どんな?」
「それは神様の返答次第…」
私は神様を横目で見た。彼は立ち上がり私の横に並んだ。
「神もまだ捨てたもんではないな」
ふっと笑んだ顔にはいつもの日の光に照らされた神様が戻っていた。私の心にもようやく陽が差してきた。
私の後ろから紫音がひょいと顔を出した。
「にしてもさ、神様はどうするわけ?」
「扉をくぐって神社に返そうと思うんやけど」
「あっちで素持に会ったらどうするの?作戦なんてまだ考えてないんでしょ?」
紫音は私がその場しのぎに作戦という言葉を使ったのだと思ったのだろう。
こんなにやられて二度目は計画立てていないということなど、いくら物分りの悪い私にだってない。
「いや、塗屁先生にもらった札が使えそうやなって。細かいところまでは、実際向こう行ってみなわからんけど」
「札?魔よけ?」
「ううん。己内を最大限に引き出す塗屁札やってさ」
私は塗屁先生の講義の要点をまとめて簡単に言い表した。
「うさんくさい」
「こともなかったよ。実演してたもん。越己追い払うための」
「でも、その札だけであの力を止められるのかな。だって神様の力も得てんでしょ」
「己内ならどうにかできそうな気がする…」
「どうにかって」
紫音は不安不満たらたらな面をしていた。
「とられた神様たちの力を札に移す。どうにか隙を見て」
「隙…作れるの?」
「作ってみせる」
私は力強く答えた。
「でもやっぱり己内でなんて…」
「いや、己内を軽んじてはいけない」
黙って私たちのやりとりを眺めていた神様が口を開いた。私は隣を見上げた。
「あなたも友人であれば信じてやってはどうだ?二度目なら危なっかしいことにはならないだろう」
(二つ目の文章いらんし)
私は反抗してやったが、ほぼ事実だと思うので口にしなかった。
紫音ははあと息をつくと
「わかったよ。わたしは何をしたらいい?」
納得してくれた。私は嬉しさと感謝で笑顔になった。
「ありがとう。紫音は呼び出しをしてほしい」
「呼び出し?」
「うん。神様、ちょっと耳を貸し…この耳飾り貸してもらえる?」
「ああ、いいけど」
神様は左耳についていた耳飾りを外して私に渡した。
「血ついてるじゃん」 「うん、やからそれを利用しようと思って」
私は紫音に耳飾りを渡した。
「話をでっち上げるんさ。素持が引ったくりにぶつかって怪我した所を紫音が偶然見かけた。そのときに落としていった物って学生生活センターに言えば、センターの人が素持を呼び出す。それでやってきたら、神様が生きて戻ったってことを話す。それまでに向こうで用意はしとくから」
「うまくひっかかるかな。その前に学校にいないかもしれないよ?」
「それはないかも。だって、うちらの動向を探るんやったら学校はうってつけの場所。あるいは試験勉強で図書館にこもってるって場合もある」
「図書館はわからないけど、やってみる価値はありそうだね」
「じゃあ、三十分たったら呼び出しに行ってくれる?」
「おーけい」
紫音はグッドサインを指で示した。
「嫌味もたっぷり言っとくよ。気をつけてね」
「紫音も」
私は紫音にサインを返すと神様に言った。
「戻ろう、茲賀津に」
「ああ。」
私たちは空間扉をめざして進んだ。


しその葉神社に近づくにつれてにぎやかになってきた。
普段人通りが少ない道路を道行く人々が団扇片手にはしゃいでいた。
(今日何かあるんかな?)
「夏祭りだ、しその葉の」
隣にいた神様は私の心の疑問を読むかのように答える。
「へえそうなんや」
いくら故郷であるといっても、夏祭りの日にちまで覚えていなかった。
それはしその葉神社付近で行われるという小規模なもので、町内の回覧板などに知らせの紙がまわってくるだけで他の情報源はなかった。小学生の頃に一度行った記憶があるが、屋台が出て最後に花火を見た覚えがある。
その花火が危ないやら祭りにくる人の数も減ってきたということもあり、近年中止になったというのもオカンから聞いた。
「しその葉神社のっていったら、神様おらなあかんのじゃないの?」
「いても特になにもしない」
神様はすっぱりと言い放つ。
そりゃ、いきなりこの日だけ出てきてキュウリを振舞っていたら怖い、というか嫌だ。嫌悪するだろう。神様の神々しいイメージが一気に崩れる。
私の場合、彼と初めて会った時からそのイメージは既に崩壊していたのだが。
神様は澄ました顔で、私が見ているのを知らんフリして神社に真っ直ぐに向かった。

鳥居の前にはガンさんが立っていた。
「ああ、コイちゃん!ど〜こほっつき歩いてたんかね」
その言葉に私は吹いた。
(神様の扱いって意外にぞんざい)
しかしそれにてんで頓着しない彼も大物だった。
「難あり苦ありで」
比較的寡黙な彼は短くまとめた。的を射た発言だが、その表情は難も苦も見えなかった。
「あと二十分くらいしたら、変な危ない人が神社に来ると思うから、ガンさん避難しておいた方がいい」
「コイちゃんが言うならそらそうせなな」
ガンさんはさも重大なお告げを聞いたかのように深く頷き、鳥居から出て行き際、後ろに振り返った。
「あ、弥生さん帰ってきたみたいやで。今は祭りに行ってるけどなあ。コイちゃんが来たってまた言っとくわ」
「…それはどうも」
神様の表情からはいい迷惑だという感情が読めた。断ればいいのに、神様という職業も並大抵の体力気力では務まらないらしい。
事は全て終わってから!私は早速準備に取り掛かり始めた。
「さあて、まずは素持が神社を破壊せんように壁を作ろう」
そうして私は神様をちろりと横目で見た。怪しげな視線を感じた彼は眉をひそめた。
私はえへと作り笑ってみせる。
「神様、今本当に何の力もないの?」
「力は全てとられた」
「それって“神様としての“やろ?人間としてのはあるんじゃないの?」
「己内か?」
「そうそう。神様も人間なら己内が使えるんじゃ?」
「…ないとは言い切れないが、どれほどのものか私にもわからない」
「んじゃあ、実際やってみよ」
「何を?」
「神様の己内の壁」
「人を利用する気か」
「これ以外にもまだやることはようけあるんや。壁を作るんやったら、うちよりも神社の神様のがずっと思い入れが強いやろ?」
「案外そうでもなかったりして」
「そういうことにしといて」
士気の上がらない神様に私が半強制的に指示すると、彼は渋々ながらも承知して柳の木下へ行った。
私はポケットから塗屁札と筆ペンを取り出した。
(あの人の長さなら…)
私は札を自分の腕にあてて、だいたい長さがわかると空中でそれを仕切った。
そして筆ペンのキャップの先で札に六等分跡をつけた。もう一枚の札も同じようにした。
「できたよ」
奥から神様の声がかかった。
「早いなあ」
私が感心すると彼は柳の木を見上げた。
「分配己内っていうんだな」
「神様知ってたん?でもまたなんでそれを?」
「神社全体に壁を作って壊された時を思うと、バラバラにしておいた方がよく持つ。でも、一番狙われやすいところはそれなりに強くしてみた。あとは均等に」
「そんなコントロールができるんや」
「一応、元神様だからな」
彼はふっと微笑んだ。私もつられて笑う。
柳の葉がさらさらと音を立てた。しがみついたししゃも達が風になびいて不気味な影を落とした。
「来た?」
私たちは互いに殺気を感じて緊張した面持ちになった。
「もう疲れはとれたのか?」
「そういえば、ここに来た時くらいにはなくなってたような…神様効果かな」
「神様効果?」
「ほら、人を思うと自分のことなんてどっかに行ってしまうって」
神様は私の言った意味がわからなかったのかポカンとしていたが、その後無言で頷いた。
「よおし、今度はぶっ飛ぶぞ!」
私は意気込んだ。重苦しさなんか跳ね飛ばすように。