ぽんぽこぽーんのおまじない(2)
マンションを出て南へ徒歩約十五分。
既に勤務開始時刻を過ぎていたため、会社へは正面玄関からではなく裏口から入ることにした。とりあえず先に遅刻したことを詫びるため、和央にはひとまず隣の敷地の駐車場で待ってもらうように伝えた。
部署の部屋のドアを開けた私は「遅れてすみません!」と謝った。メンバーの五人全員がこちらにサッと振り返った。
「途中で事故にでもあったんじゃないかって心配してたんだよ〜」
リーダーが席から立ち上がって私の方へとやって来た。
「ご迷惑おかけしてすみません。携帯も圏外でつながらなくて」
「そうだったんだ。あれ?どうしたの?何か変なことでもあった?」
彼らは和装姿の私に違和感がないのか?
「わたしっていつもこんなんでしたっけ?」
私は両袖を持ち上げた。自分のことを他人に尋ねるなんてますますおかしいと思われそうだったが正気だった。
「え?毎日着物じゃないか。洋服って見たことなかった気がする」
「あ、ああ…そうなんですか。ならいいです」
ぎこちない動作にリーダーも戸惑っていた。私は思い切って例のことを口に出した。
「あの、私の名前ってなんでしたっけ?」
その場がシーンと静まり返ったかと思うと、ワハハハハと全員一斉に笑い出した。
「何言ってるの!ぽんこちゃんでしょ?」
「ぽんこ様だろ」
「そうそう、鹿萩ぽんこ」
「ぽんこ姫よね〜」
「ぽんこさんですよ」
示し合わせたかのようにみんなが口をそろえて「ぽんこ」と。
ここまで「おまえはぽんこだ」と断言されると、私も本名は「鹿萩ぽんこ」で、それを認めたくないがために別の名前を必死に探しているような気もしてきた。
「あれ?顔色悪いよ?」
リーダーが眉をしかめた。
「いえ、大丈夫です…」
「なんだかしんどそうだし、今日は帰って休んだら?」
「そうですね、そうさせてもらいます…」
私は収穫を得られなかったことにがっかりして「お疲れ様です」と力なく挨拶をして部屋を後にした。

駐車場に行くと、和央が木陰にもたれかかってうとうとしていた。私の足音に気付いたのか彼はぱっと目を開けた。
「ダメだったのか?」
「うん…」
私の落胆した表情に多くを問わずとも感じ取ったらしい。私たちはそのまま無言で最寄駅に向かった。
秋風がさらさらと頬を撫でる。五分くらいして和央がゆっくりと口を開いた。
「なあ、ぽんこは自分がイヤなのか?」
「え?」
「今日のぽんこ見てると、誰もがぽんこをぽんこって認めてるのに無理に否定してるんじゃないかって思えてさ」
「そう、やね…本当はぽんこなんかもねえ」
私は空を見上げた。私の心とは裏腹に透き通った空の青が妙に心に染みた。
「まあ、考えててもしょうがないし、今日は気分転換しようよ。おれも休みだし」
グーッ
グッドタイミングで私のお腹が代弁した。
「あはは。朝飯もまだだったもんな」
「むうう…ところで、和央って何の仕事してるん?」
和服姿から呉服屋で修行でもしているのかと思ったら意外な答えが返って来た。
「ああ、病院に勤めてるよ。医療機器の操作点検の仕事してる」
「病院!?そのカッコで?」
「まさか!これはお出かけ用。っていうか、ぽんこが和装好きだから…」
「それに合わせて?」
「うん」
彼は顔を少し赤らめた。大好きと言い張る大胆さがありながら、へんなとこで恥ずかしがる彼は何だか親近感が持てた。
「似合ってるよ。元がええ人は何着てもかっこええんやろけどね」
「わあ!ありがと。かっこよくはないけど、そう言ってもらえると嬉しい」
彼の明るい笑顔に私まで笑みがこぼれてしまった。
心から喜んでいる姿を見ると和央は素直なんだと感じ取れたし、また、気兼ねなく自然に笑顔を見せてくれるなんて、ぽんこでない私が受け取っていいのか、ちょっと贅沢した気分になった。
「顔赤いよ?熱でもあるの?」
和央はさっと私の額に手の平を当てた。私は沸騰寸前のやかんに匹敵するくらい熱くなっていた。
「あ、いや、着物着て歩いてるからやよ!」
私はドキドキ感を適当に笑って誤魔化した。
「ならいいけど…」
バレないようにゆっくり呼吸を整えた後、横断歩道の手前に真っ赤な自動販売機が見えてきた。
何の変哲もないいたって普通の自販機の隣をすっと通り過ぎようとした時、視界に「みたらし団子風」というとんでもないネーミングが目に飛び込んできて思わず二度見してしまった。見本品に付いた「新商品!」という札も他の飲み物よりもやけに強調されていた。みたらし団子好きでなくとも足を止めてしまうオーラを醸し出していた。
私は傍へ行ってジュースを凝視した。
「これ買うてみる」
「えっ?」
和央の意見に構わずお金を入れてボタンを押した。
ゴトンと出てきたジュースを取り出した。ほどよく温かかった。さっそく開けると、みたらし団子のたれのにおいがぷうんと漂う。一口飲むと喉にじわーっと甘たれが広がった。何かプチプチするものが入っていると思ったらタピオカだった。団子を表現しているのだろう。思ったよりもくどくなくスッキリとした飲み口だった。
「飲む?」
和央にすすめると、あまり気が乗らなさそうだったが缶を受け取った。
「…ああ、みたらしだ」
美味しいという答えはつゆ期待していなかったが、彼の微妙な表情からすると口に合わなかったようだ。
「三分の一くらいの量で充分やね」
百二十ミリリットルとはいえ、一気に飲み干したら胸やけを起こしそうだったため、歩きながらちびちびと飲んだ。
やっとの思いでみたらし団子ジュースを飲み干した頃、前方にファミレスの看板が見えてきた。
「あそこでいいか?」
「うん」
私達は店に入って行った。平日の午前中なだけに店内は空いていた。
メニューを広げるとモーニングセットのサンドイッチ、サラダ、ホットミルクを完食した後、なんだか物足りなかったためデザートを注文した。向かいに座っていた和央は目を丸くして食べる様子を眺めていた。
「朝からパフェって…ぽんこなら普通か」
「デザートは別腹なん!」
私は幸せ気分で抹茶パフェをぺろりと平らげた。

その後電車に乗り繁華街までやって来た。平日といえども観光地。しかも秋という観光シーズン真っ只中。 世の奥様方、学生カップル達に平日休日等関係ないといったように人通りは多かった。
私達は商店街に向かって進んでいた。和央と並んで歩くのもようやく慣れたといっても、街中を歩いていると周囲の視線が気になって仕方なかった。
若い女の子達が通り過ぎるたびに彼を見るなり、「あの人超カッコイイ〜」や「わあ!イケメン!」という声が背中にささり、隣を歩いているのがムサいたぬき女よね〜と言われないだけマシにしても、彼女であることに心苦しさを感じていた。
人間中身以外に、見た目、仕草、話し方諸々あるといえど、それほどかかわりがない人間にとっての判断材料はやはり見た目が占める割合が大きいのだ…ということをつくづく実感していた。
当の彼といえば、全くそんなこと気にする気配すらなく、たまに気になる店があったらじっと目で追ったり、道端のパフォーマンスに楽しそうに笑ったり同年代の男子となんら変わりなかった。
意識し過ぎかな…私は彼の横顔を見てふと笑むと、前方に見覚えのある光景が近づいてきた。
(あの桜…)
目を向けた先には一本の桜の木があった。
「懐かしいなあ」
私は手前で足を止めた。ここでリンちゃんにプロポーズされたんやっけ。付き合った当初からの思い等を交えての前置きが長くて、何を言い出すのか私の方がそわそわしていた記憶がある。
けれども、しっかりと彼の口から「結婚してください」という言葉を聞いた時にはなぜか涙が溢れてきて「こんな奴でええの?」と何度聞き返したことか。 リンちゃんは、わたしとならずっと一緒にやっていけると思うし、一緒にいたいなって思ったんだ、と言ってくれた。
まるで、今朝の和央のセリフではないか。容姿や話し方は違うけれど、彼はリンちゃんに似ているとこもある。

「ほんと、あの時は無茶してたよなあ」
和央の呟きに思わず「え?」と振り向いた。
「半年前、今日みたいに歩いてた時、木の枝に風船がひっかかってて。木の下で子供が大泣きしてるの見かねたぽんこは、そのまま木に登り始めてさ。風船のヒモを取った瞬間、足を滑らせて落っこちそうになったのを助けたんだ。怪我はなかったからよかったけど、こっちがヒヤヒヤしたよ」
和央は懐古するような瞳で桜の木を見つめていた。
「本物のぽんこは勇敢なんやね」
「なあに、ぽんこじゃないぽんこだって同じだと思うよ。化けるのはできないだろうけど」
「化けるってどうやってするん?頭に葉っぱ乗せるん?」
すると和央はぷっと吹き出した。
「そんなことしないよー!化け方は簡単。目を閉じて手を合わせて念じるだけ」
「それだけ?」
「うーんと、あと呪文?がいるかも。なんでもいいんだけど、ナントカになーれ!えいっ!とか。特に意味はないけど、そのほうが気合い入りやすいみたい」
「ふうん〜それだけで化けられるならいいねえ」
「でも、ぽんこは精神統一が不十分で、いつもしっぽだけ出てるんだよな」
彼はクスクスと笑っていた。
「修行が大変そうやわ…そういえば、ぽんこは仕事は何してたん?」
「絵や文を描いてるって聞いたよ。挿絵とか、コラムとか」
「じゃあ、わたしとあんまり変わらんのやね。部屋模様とか着るものとか全然好み違うのに、そのへんは同じって変な感じ」
「そりゃ、ぽんこだからだろ」
「ええまあ、そやけど…」
あっさり言ってのける和央に私はたじろいだ。
「ぽんこは元いた所に帰りたいのか?」
「そりゃもちろん!仕事だってあるし、何よりここの住人じゃないからね」
「このままでもいいんじゃないか?見た目も変わらないんだし…」
その台詞を耳にした途端、私はついムカっとなった。
「見た目が同じならええっていうの?」
「そういうわけじゃない。おれにはぽんこはぽんこにしか見えないから」
「中身は違うっていうのに…」
「そうかなあ。多少変だなと思うとこはあってもそれは一時的なものだろうし」
「一時的…和央はわたしがイカれてるって思ってるんやね」
「イカれてるなんて思ってないよ。ぽんこはちょっと深く考えすぎなんじゃないかなって。もう少し気楽になってもいいんじゃないか?」
「わたしには深刻なことやのに…」
私はぐっとこみ上げてくる感情を堪えた。
「ぽんこ?」
和央が私の顔を心配そうに覗き込むともう我慢できず
「わたし…あなたのぽんこじゃないもん!」
溢れ出てきそうな涙を必死に隠し逆方向へ走り出した。
「おい!待て!」
呼びとめる和央に私は振り向きさえしなかった。

商店街を抜けて橋のたもとまでやって来ると、ついつい感情的になってしまったことを非常に後悔し始めていた。
もし和央が私と逆の立場で「この世界の住人じゃない」と言い出したら、フザけているかあるいは、精神状態が錯乱に陥っているのかとでも思い、事実だとは到底信じられなかっただろう。
とはいうものの、彼がわたしを本物のぽんこと変わらないと断言するのはすんなり受け入れ難いことで、このまま和央の所へ戻ってもばつが悪いような気がした。
私は立ち止まって川を眺めた。柔らかな日差しを反射した水面がキラキラと輝いていた。
すっきりしない面持ちで吐息をつくと、
「あら、珍しい」
突然声をかけられた。振り返ると和装の男女が珍獣にでも出くわしたかのような不可思議な顔をして並んでいた。
男性は三十代前半、女性は私よりも少し年上くらいに見えた。男性はシルバーの着物に銀紺色の羽織りを着て、灰色の袴を履いていた。クールな着こなしはシャープな顔立ちを一層際立たせていた。一方女性は、黒地に真紅の牡丹が大きく描かれた着物で大人の雰囲気が漂っていた。装飾品は少ないのに、ラメを効かせた目元パッチリメイクにクルクルに巻かれた黒髪のせいか少々派手にも見えた。どちらも背が高くて絵に描いたような美男美女だった。
「こんなところで何をしている?」
ぽんこの知り合いだろうか。と首を傾げた途端思い浮かんだのは和央の従兄夫婦だった。それとともに追手のことも思い出した。もし当人達ならば早急に逃げるべきなのだろうが、彼らは何かを警戒しているようでその場から一歩も距離を縮めようとはしなかった。返答に困惑していた私は
「ええと、散歩かな…」
適当に誤魔化すと、二人は顔を見合わせて口元にうっすらと笑みを浮かべた。
「一人きりとは好都合だ」
「あたし達に会うのが予想外だったみたいね」
背筋に悪寒が走った。不穏な空気に包まれた私はこれはマズイ!と即断し、
「じゃあ、用があるのでこのへんで…!」
と言いかけると、ガシッと右腕を掴まれた。
「!」
私はその手を振りほどき裾をまくりあげると全速力でダッシュし始めた。
「待て!」
言わなずもがな、二人は追いかけてきた。どこかで振り払おうとしたくても、隠れられるような所がなかなか見つからなかった。雑踏に紛れ込むように走っていたが、いつ追いつかれてもおかしくなかった。
(和央、どこ!?)
あんなにキツイこと言ってしもたから怒って帰ってしまったんじゃないか…私は今頃になって彼の存在のありがたさを身にしみて感じていた。
(そうや!強く念じれば美高が来てくれるって…!)
パッとひらめいたものの信憑性が低いため迷ったが、ここは一か八かダメ元で祈ってみた。
(助けて!!ヘルプミー!!…でいいのかな?もっと感情こめなあかんのかな?)
細かい所が気になり出しながらも、慣れない着物と普段の運動不足のせいもありだんだん走り疲れてきた。でも、ここで足を止めたら捕まってしまう。逃げる以外に何か方法はないのか。ぽんこはならどうしていたんだろうか。きっと、多分、果敢に立ち向かっていたに違いない。私は脳味噌をフル回転させた。
(何か特技でもあれば…化けるとか…化けるんや!ていっても何に?)
川沿いの歩道を走っていた私は角を曲がり、すぐ傍にあった小さな公園に立ち入った。中央に石製の丸型椅子が四つ並列しているのが目に入って来た。
(よし!あれなら一つ多くてもおかしくない!)
ぎゅっとこぶしを握り締めた私は右端の椅子の隣に並んだ。が、果たして化けるというのはどうやって行うものなのか。基本的な方法を知らなかった。
思い出せ、思い出せ!私は頭を抱えて頭皮をマッサージし始めた。
(和央が言ってたこと…ぽんこは、精神統一がいつも不十分でしっぽだけ出てる…って。じゃあ、強く念じればいけるのかな。今は他に方法がない、やらんよりはマシやろ!)
私は自分を奮い立たせてその場にしゃがみこみ手を合わせて頭を垂れた。
そして、心の中で「ぽんぽこぽーん!」と唱えた。

しばらくすると、サッサッと足音が聞こえてきた。
人の気配を感じた私は意識を取り戻した。
目をつぶったままだがさっきよりも窮屈な感じがする。
「どこへ隠れたのかしら?」
「まだ遠くには行ってないはずだが…」
例の二人の声に間違いなかった。私は呼吸でさえ漏れぬようじっとしていた。二人分の足音がこちらへ近づいてくる。
(上手く化けられてるんかな…)
私のすぐ目の前で彼らは足をとめた。冷や汗がたらりと流れた。
「ここにはいないようだな」
「川沿いに行ってみましょ」
そう言うと彼らは遠ざかって行った。 ふう…なんとか危機を逃れ安心しようとした時、またもや公園にやって来る気配を感じ、再び緊張感が高まった。
「ったく、どこに行ったんだよ〜」
(和央?)
私はパチッと目を開けた。
彼は頭をポリポリとかいて、ため息をつくとこちらに向かってきた。
(あ、もしや、ここ…あ…)
五つあるうちの椅子、よりによって私の上に座るとは。
(お、おもい…)
ちょうど、肩車をする前の屈んだ姿勢のようになっていたので、和央のお尻周辺が私の肩と背中の間くらいに乗っていた。
かすかに伝わってくる温もりに体が次第に熱くなった。 和央はあたりをぐるっと見まわすと首を左右に振った。
「はあ…」
ここへきて二度目のため息だった。顔を見なくとも落胆した様子がうかがえた。
(…そ、そろそろ限界)
私は彼の重さに耐えられず、身体をぶるぶる震わせ始めた。
「ん?なんだ?」
異変を感じた和央は脚の間から私をのぞきこんだ。
「ぽんこ?」
「ひーっ、ふーっ…重たい重たい!」
私は背中が痛すぎて、一気に体を起こそうとした。
「わ、ちょっと待って!頭当たる…!」
「立ちまーす!」
勢いよく起き上がる瞬間、ポーンと柔らかい物が頭部にぶつかった。
「ふう〜…む?」
視界の隅に、股間を抑えてピョンピョン飛び跳ねている和央の後姿が映った。
「いってぇ〜…」
「ご、ごめん…」
私はそっと彼に近寄った。てっきり怒られるかと思ったのに彼は顔を綻ばせ、
「すごく上達したじゃんか!全然気づかなかった!」
と私の両肩をガタガタとゆすった。
「え、まあ、咄嗟に思いついて」
私はしどろもどろになりながらも、彼が股間の痛みよりも私の化けの上達を称賛してくれたことを嬉しく思った。
「あの、さっきはごめん」
「へっ?」
和央は数秒してから、ああと頷いた。
「そんなこと気にしてないって。おれのほうこそ無神経なこと言ってゴメンな」
「ううん、ついついムカーッとなってしまって」
「ためるのはよくないからな」
彼はハハっと笑った。何事も前向き思考な彼に私の心も晴れやかになるようだった。
「でも、なんで急に椅子なんかに?」
「あ、そうそう!橋のとこでたまたま着物着た変な男女二人組に会って追っかけられて…」
私は重要なことを彼に伝えた。彼は眉間に皺を寄せた。
「冴と優奈か」
「優奈?女の人のこと?」
「ああ、冴の奥さんだよ」
「今までにもこんなことっていっぱいあったんやろ?どうしてたん?」
「いつもはぽんこの予見力で追い払ってたんだ」
「予見力で?」
「向こうが何かを計画していても、それを見越していれば未然に防げるだろう?」
「うん、でも、それならしつこく追いかける理由がわからんよ。赤の他人じゃあるまいし、親族になるって人に危害加えようとするもんかな?」
すると、彼は言いづらそうに声のトーンを落とした。
「冴とは血は繋がってはいない」
「え?」
「今の藤舞家の当主には男の子が生まれなかったんだ。おれの実家、キツネ族桜庭家は兄が二人いたから、おれが養子に出されたってわけ。せっかく迎えたのに、鹿萩の娘と結婚すれば後は継げない…おれはもともと後継ぎなんて深く考えてなかったから。それで冴に譲ったんだ。おれがこなかったら冴が後継ぎになる予定だったし。そこは特に問題なかった。でも…」
和央は言葉を続けようとして止まった。
「おれ達の結婚をよく思ってないような感じで」
「それって、タヌキとキツネの執着みたいなの?」
「そうだな。あからさまに嫌いあってるわけじゃないけど、余所余所しいっていうか、お互い深くかかわりたくないって感じなのかな。大昔からのことだからおれ達が気にしても仕方ないって思うことにしてる。藤舞の父さんだって、説得したおかげで今は結婚に賛成してくれてるし」
「結婚したらなんとかならんのかな?」
「いや、そう簡単にはいかない」
「へっ??」
私は目が点になった。このイタチゴッコはいつまで続くというのか。
「…と断言はできないけど、結婚後も何かと文句付けてきそうな気がする」
「文句だけやろ?無視しとけばいいやん」
いつになく和央は納得できない顔だった。
「だって、もしおれや美高さんがいない時に攫われたりしたらと思うと…」
「攫われる?こんなでっかい娘を攫ってどうするん!ずば抜けた美人でもないし、器量もよくないし、特別な何かもないし」
私が鼻でハハハと笑っていると、和央は真剣に私を見やった。
「あるじゃんか、予見力が」
「ああ、でも、攫ってその能力だけ抜き出すん?そんな魔法みたいなことが…」
「魔法は使えないけど、冴は好色らしいし」
「まさか、人妻予定にまで手は出さんやろ。キレイな奥さんいるのに」
「ぽんこだってかわいいじゃんか」
和央はさらっと言い放った。
「かわいいじゃんかーって…もうっ!」
拗ねる私に彼はアハハと笑った。
「ほらほら、そういうとこ」
「和央はぽんこに“痘痕にえくぼ”なんやよ」
「はは、んまあ、冴は優奈とは家族のススメでお見合いして、仕方なく結婚したに過ぎないって言ってたしな」
「な〜るほど。でも、いつも一緒にいてたら気持ちも変わってくるんじゃないかな」
私は身の危険が迫っていることなどすっかり忘れしみじみとしていた。
「ぽんこ…は、やっぱり変わってるな」
和央はくすっと笑った。
「な、失礼な!正直な感想を述べただけやん。だいたい、他の男の人に言い寄られて困っちゃう!みたいな状況になるのは美形って決まってるん。わたしみたいなへなちょこなんか相手にもならんやろに…って、何を笑てるん?」
見れば、和央は手で口をおさえて忍び笑いしていた。
「いや…こないだもそんなこと言ってたなあって。あの時はいきなり脱いだからびっくりしたけど」
「脱いだ!?」
「うん、今みたいなこと話してたら、急にぽんこが「このノーナイスボデーのどこに色気があるんや!」って、言うなり着物をバッと…あ、パンツは履いてたけど」
「………」
私は唖然とした。 本人じゃないとはいえ想像すると恥ずかしくなった。まあ、恋人に見せたなら一種のパフォーマンスとしてもおかしくないか。いや、変だ。熱くなり過ぎやろぽんこ!
「気持ちはわからんでもないけど、さすがにそこまではできへんや」
「おれには嬉しいサービスだったけどな」
和央が意地悪そうに笑んだ。
「こらっ!ま、何があっても、わたしは和央が一番やよ」
あれ、なんか今自然と言葉が…
「うん、ありがとう」
和央はぎゅっと私を抱きしめた。全然嫌な感じがしない。恋人のリンちゃんも、よくこうやって優しく抱きしめてくれたよなあ。そしてその後は…
「え?」
彼は体をそっとはなすと顔を近づけた。私は目を閉じた。ドキドキドキドキ、胸の鼓動が早くなる。彼の吐息を感じた瞬間、
「ノーン!!!」
バサバサバサバサ…!公園に屯していた鳩が一斉に飛んだ。心臓が飛び出るかと思った私が目を開けると和央は
「いつもいいとこで邪魔が入るんだよな」
と苦笑いを浮かべた。いつもということは、本物のぽんことラブラブムードの時にも乱入されことがあるのか。そこばかりは彼に同情した。
誰と問わずとも、この声の大きさは彼しかいなかった。 美高は私達を見つけるなり、ぱあっと明るい笑顔で走って来た。
「ぽんこ様ご無事で!」
「ああ、なんとか。なんでここに?」
「なにをおっしゃいます!ぽんこ様が念じたではありませんか!」
そういえば、さっきそんなことしてたなあ、と私はごっちゃになりそうな記憶を辿ってみた。
本当に届くとは思っていなかったけれども。すぐさまの割には結構時間がかかった気もするけれども。
それはともかく、三人そろったのでより心強くなった。
「追手はどこに向かわれたのですか?」
「河原の方に…あっ」
私が指をさした方向の先には男女二人組が並んでいた。彼らは私達に近づいてきた。
優奈がくすくすと笑った。
「そんなばかでかい声してたらどこにいても聞こえるわよ」
その台詞に美高はしゅんとなった。的を射ている発言だけにフォローのしようがなかった。
「ここまで追い詰めて一体どうするんだ?わかってるだろ?ぽんこの力がある限りおまえは勝てない」
和央はさっと私の前に立って冴を睨んだ。しかし、彼は動じることなく腕組みをしていた。
「その前に触れていたとしてもか?」
「なんだって!?本当なのか?ぽんこ!」
和央はものすごい剣幕で私の方に振り返った。
「う、うん。逃げる時に掴まれて」
「なんてことだ…」
和央は私の右腕を持ち上げるとさっと袖をまくった。
「えっ?なんじゃこりゃ!?」
あまりの異変に私は目が飛び出そうになった。右手首から肘にかけて紫色の斑点が広がっていたのだった。 血の巡りが悪くなると手や足の指先が青紫色になるが、その状態が腕にブチブチ模様となって表れており大変気持ち悪かった。
「これ何?なんでこんなのが…痛いっ!」
和央に握られている部分が急に痛み出した。
「大丈夫か!?」
彼はパッと手を放した。私は袖の上からもう片方の手で右腕をさすった。さっきまでは何もなかったのに。
「それは触れるだけで状態異常をきたす古からの怨念だ。ずっと昔、藤舞と鹿萩が対立してた頃、鹿萩の人々を従順させるために使ったとか。前にも気を付けるように言ってたんだけどな」
「わたし、本物じゃないから…」
私がポソっとつぶやくと和央は私の頭をぽんぽんと叩いた。
「ごめん、ちょっとキツく言い過ぎたな」
「ううん、で、これはどうしたら治るん?」
「それは…」と言いかけると美高が
「切断するのです!」
割って入ってきた。
「せ、切断!?」
「そうです!悪は一刀両断!情けは無用です!」
「あほか!それは最終手段だ」
和央はすかさず美高に肘鉄を食らわせた。
「ぬおっ!…そうでしたね、申し訳ございません。つい熱くなってしまい」
あんたいつも熱いやんか…と和央も言いたげ目だった。
「話は終わったか?」
私達三人がパッと振り返ると、冷ややかな目つきの冴がさっと右手を前に出した。
「ええ?あれれっ?」
「ぽんこ!」
右腕がふわっと持ちあがったかと思うと体が前のめりになり足が勝手に動き出した。私は必至に留まろうと全体重を足にかけたが、力を入れれば入れるほど腕が痛くなった。
「ぽんこを放せ!」
和央と美高は後ろから私に抱き付いて引き離そうとしたが、流れに逆らうほど全身に痛みが走った。
「いたい〜っ!」
それを見かねてか、彼らはパッと手を放した。
「徒労だったな」
冴は懐から黒い玉を取り出すと、和央達に向けて投げつけた。地面に落ちた玉はパカンと破裂し、中からもくもくと白い煙が上がった。みるみるうちに辺りは白に包まれ、二人の姿が見えなくなってしまった。
「わあっ!」
いきなり冴が私の腰に腕を回し軽々と肩に抱き上げた。そしてそのまま公園の入り口へと向かいはじめた。
「おろして〜!」
足をバタバタさせると、隣にいた優奈が
「子供じゃないんだから!」
パンとお尻を強めに叩いた。
(このドS夫婦め〜!)
「和央〜!美高〜!」
私は遠ざかる彼らに向かって叫んだ。
「待ってろ!すぐ助けに行くからな!!」